”言語”は”ヒト”そのもの/語学と心理

ここ最近、朝、ラジオをつけっぱなしにしていると、おおまかに
古楽の番組
中学英語1
中学英語2
英語のみで進行する中高生英語
ニュースと音楽
高校生英語
ビジネス英語

と、毎朝英語番組が立て続く。

朝食の準備をしに共用部へ出たり事務作業で日本語脳をひたすら働かせていたりなどするので、聞き流し状態なのだが、面白いこともあるし、少しは世情に触れておく意図もあって、流したままにしている。
それに、実際後半2つはなかなかに面白い。

最近は室温が下がっており、布団乾燥機を稼働させているため、その音で少々聞き取りにくくそもそも聞き取ろうとしていないので本当に聞き流し状態なのだが…。

その中でも、最後のビジネス英語。
これに関してはそもそも内容が、日本語で言われても難しいのだが、これがなかなか。布団乾燥機による遠のきもあり英語はあまり入ってこない(自覚としては)のだが、どうにも、その分日本語の説明がふとした時に耳に入ってくる。
「はい、(手紙の)最後は、Regards、ではなく、こう言う言い方にすることで、パーソナルタッチを感じさせる文面にしていますね。それでも手紙自体の内容は、自分の意見、言いたいことをしっかりと明確に伝えた上で、相手の予定も気遣っています。ビジネスにおいては、内容はしっかりはっきりと、しかしこういう些細な部分でのパーソナルタッチが信頼にも繋がりますよね。」
などと、この番組はもはや、英語自体の説明よりも、ビジネスパーソンとしての姿勢やら、仕事の進め方、どちらかというとコミュニケーション力を教えているようなものだ。
しかし、まさに本当にその通りだと思う。

いくら英語を知っていようが知っていなかろうが、まず自分本人が(母国語ででも)、人間として、そういう内容を組み立てる、物事を勧める、その相手にありのままの興味を持つ、必要な内容のやり取りをする、などということが前提としてできなければ(できる人間でなければ)、いくら英文法を知っていようが英単語を知っていようが、それは出て来ないし使えない。
ビジネス力、コミュニケーション力、人間力なのだ。

ビジネスの英語がどうも…接客英語がどうも…ビジネスメールがどうも…と言っている人たちは確かにいるのだが、この人たちを見ていると、そもそも、日本語でやった時に、この人たちの内側から(しかも英語圏の文化の人たちに対して)コミュニケーションできるだけの、ビジネスのやりとりができるだけの、動機付けやコミュニケーション力や人間力があるのだろうか、本当に言いたいことがこの人たちの中から出て来ようとしているのだろうか(言いたいことがあるのだろうか)という方にどちらかというと疑問がいく。
ビジネス英語ができる人たちを見ていると、これは何語であろうがどこの国であろうが成功させるだろうなというようなそもそもの人間的貫禄がある。

私は催眠療法士、カウンセラー・セラピストとして、ひたすら日本語を駆使する立場にいる。そして、催眠療法は特に、日本語というツールの中でも非常に繊細緻密な扱い、更には間(ま)や非言語まで詳細に駆使する必要がある。
突然こういう言い方をすると不思議に思われる場合もあるかもしれないが、例えどんな場合であれ、本当に言いたいこと、伝えたいことが自分の中に本当にあるのならば、それは絶対に伝わっていく。または、言いたいことや伝えたいことが"本当に自分の中で明確化している場合(自己理解が深い場合)”は、それは絶対に伝わっていく。そして、例えどんな手段を用いようが自然と勝手に伝えようとしていくものだ。
そしてこれは、日本語であれ、和歌であれ、歌であれ、575の最小文字数の中に封印したようなものであれ、何語であれ、例え非言語であれ伝わる。これはまあもちろん、それぞれの技術技能(文法や単語力など)があればあるほどそれはプラスの助けとなるものとして使うことはできるだろう。
特に催眠を扱うセラピストの場合、これが如何にどんなクライアントにもどんな一般人にも実は伝わっているものか、肌身で痛感している。恐ろしいほどだ。どちらかといえば伝わってはならないことが伝わらないよう自身を徹底的にコントロールする訓練が不可欠だ。

ただ、逆に、そこに目的がなかったり、自分自身で言いたいことがわかっているつもりではあるのに実は自分の中で”本当に言いたいことが明確化されていない”場合、これは例え日本語(母国語)でも、実は思うようには伝わっていないものだ(というよりもそもそも”思うように”がないので、本人としては時に「あれ?あれ?」と自覚されることがある。…それすらないこともあるが…)。

こういう言い方はある意味はっきりし過ぎた言い方にも聞こえかねないが、自分が今まで身につけてきた文法やら語彙やらボディランゲージというのは、自分の頭の中から意図して探し出して選んで使い分けるものではない。
本当に伝えたいことがある場合、そしてそれが自分の中で明確化されている(自己理解が深い)場合、それは、勝手にあなた(身体、潜在意識レベルで)が、あなたの中から勝手に探し出してとってきて口をついて身体が使われて出て”きている”ものだ。

往々にして何か国語も習得して生活上で操ることができている人やビジネスで他言語を使うことができる人は、語学力よりも前にそもそも自分の意見がはっきりしており(はっきりさせることができるだけのものを持っている)、母国語におけるコミュニケーションスキルや人間力、自己コントロール力、自己理解の方が深い。

昔の剣豪などは、言葉としては端折るが ”剣技は己の心・技・体が揃ってから初めて発揮される””剣技だけを磨けば、剣に殺される” …というような意味のことを言っている人が何名かいるようだが、その通りで、身も蓋もない一言に変えてしまえば、道具は使い手次第でまるで可能性を広げるしまるで何の役にも立たないゴミナマクラにもなる。
自分の言いたいこと伝えたいことの具体内容や今目の前にいる相手への全身全霊の純粋な興味よりも、「あ、〇〇語で使わなきゃ…」「自分の言語、伝わるかな…」「正しく美しい文法で話してやろう」などなど、”自分が使う道具”ばかりに興味注意集中を向けている状態であったら、”言語(という道具)”に殺される。

先に技能があることは無駄ではないが、先に技能ばかり獲得しても、結局使い手が鍛えられない上、技能を身に付ければ身につけるほどそのおかげで「自分ができないのは技能が足りない/その使い方に問題があるせいだ」などと問題を勘違いして自分自身を鍛える機会をどんどんどんどん失っていく。

例えどんなものであろうがそうだと最近殊に痛感することが多いが、技能を身につけ、それを高めるほど/増やすほど、その技能を操る自己を鍛え高めていく必要がある。
そしてこの自己の鍛え方高め方を教えてくれる場所は、現代では非常に少ない。

話を戻すと、(現代)日本人は特に他言語の習得や操ることが不得手だと言われるし、試験の点数は高いのに〇〇語が話せない…というような人たちも実際多くいる。
ただ、(つい、セラピストの視点で)やはりそういう人たちに多く気になるのは、まず日本語の扱い方……日本語で言いたいことを表現する方法が限定的であったり、雑に扱っていたり、流行語だらけであったり、そもそも日本語で人に何かを伝える時や会話の時に、何か限定的であったり自分の中で本当に言いたいことが明確化されているのか?と感じることがあったり…ちなみに念のため、これらはあくまで、日本語の文法を正しくしろという意味ではない。他、セラピスト的な見方をすれば、自分自身の扱い方が雑であったりするのだ。言語というのはそれそのもので「ひと」であり、「文化」「生活」であるから、その軸・核である自分の扱い方が雑だと、自分の心の中がわからないため、まあ日本語は長年の慣れで”不自由を感じはしない”かもしれないが、他言語は、例え記憶力や情報処理力などの「頭」が良くて試験の点数は良くても、自分の内側から出てくるものに使えない。
そして、これは文字表現としては非常に短くなるが、「身体が動いていない」。要するに、やはり興味注意集中が「言語」に行っているため、頭(顕在意識)だけの領域になり、自分の心や身体が置き去りになっている。言語は例え使えても、自分が言いたいことは表現できない。自分が言いたいことがわかっていない状態になっていることに、自分でも気付いていない。
ちなみに語学の点数は良くても会話に使えない人は、母国語の日本語を話している時でもそんな傾向があるような気もする。

つまり、会話力、は、自己理解の必要が伴ってくる。
セラピストとして本当につくづく思うのだが、日本語をただ使い慣れてはいるから言葉を使うことに本人の自覚として不自由はなく、会話もできるが、ほとんどノリで過ぎ去らせることを覚えており、内容が入っていない・こちらの”言葉”を実は受け取っていない・本人が自分の言いたいことが明確化していない、という現代日本人が非常に増えている。
こういう人たちはなまじ日本語は慣れで使っているがために一見自己開示をしているように見えても実は自分の意見や考えやステータスなどは伝わっていない、言った言葉もなぜだか相手にはっきり明確化されて伝わらないため、相手も無自覚にその人の”補完能力(その人の受け取りパターン、解釈など)”を使って、相手のルールの中、相手の都合で受け取るしかないし、お互いの自覚なしにどうしても勝手にそのようになっていく。

まあ、この記事は心理ではなく言語の話であったので、言語に話を戻すと、
日本語でもそうなのだから、他言語を習ったのに、点数も高いのに、うまく使えないという場合の多くは、鋭い言い方で一言にしてしまうとそもそも「自分がない」。他者が作ってくれた文章はともかく、自分の言いたいこと、自分が本当に伝えたいことが自分の中から読み取れていない。明確化されていない。少しイメージはしにくいかもしれないが、もしも日本語でも単語を出してくるための労力がその言語と同じだけのものであったら、実は日本語でもうまくいえない。どう言っていいのか迷う。
そんなことが多いように感じる。

日本語でも(母国語の日本語であれば相当な慣れとともに単語も文法力も十二分に入っているはずなのに)、突然いつもと違うシチュエーションに入ったりしたら、言いたいことや言うべきことが出て来にくくなったり、日本語がおかしくなったりするものである。

問題はそこなのだ。
つまり、既に他言語を操っているような人がそういう壁にぶつかったらば、既に自己理解自体が深いので、恐らく体感的に「何が問題なのか」判断できその壁を自分で打破(解決)していくことができ、更に更に伸びる。これは、語学力はもう十二分にあるので、どちらかといえば伸びるのはコミュニケーション力やシチュエーション対応力や人間力、自己理解などの方だ。

そもそも自分の言いたいことが明確化できていない(自分の心が視えていない)ことが要因で言語を操ることができない…という人は、まずそこまでの(要するに自分の持っている言語という道具を使うだけの)「自分を知る」行程が整っていない(もしくはコミュニケーション力やシチュエーション対応力・自己理解などなどのバランスが偏っている)ため、ついついその原因を「単語力や文法力がまだ足りないんだ/頭から単語を引き出す回路が弱いのかな」などなどと、言語の問題と思い込みがちで、本当の問題を判別できない。
しかしそういう人でも、それらの語学の語彙力や文法力は身に付いていたり、そうでなくとも日本人として生活してきているだけ日本語力は十二分にあるのだから、もったいない。

日本語というものを扱うことができている時点で、あなたの能力は既に十二分に高い。
それでいてもし(他言語にせよ母国語のコミュニケーションにせよ)、自分の能力に不足や不満を感じているなら、まず、何がその不満を感じさせるもの(どうしてそうなっているかという理由=打破する方法)と、その「技(技能・技法)」を使っている土台を、整えてみませんか。


言語というのは、ヒトが生まれてほとんど最初から、人生の最後の最期まで、身につけ続け操り続ける、大変な高等技能。
声が出る、発話できる、文字を書くことができる、文字を読むことができる、またこれらのいずれかであっても、そんな卓越した能力を身につけていてある程度であっても発揮することができている、その自分の高性能さにまず驚嘆してつくづく感じ入って、まずそこに、小さな小さな顕在意識が不満も感じようのないあまりに偉大な自分の存在に気付いてみては如何だろうか。
一度きりの人生、決してそれはしておいて損はない。

そして、その上で不満があるなら、それを感じたらば、それを見たらいい。
そうしたら、本当は何に不満や不足を感じていたのか、本当の潜在意識(あなた自身、心自体)があなたの顕在意識という自覚に気付かせようとしていた本当の意味がわかるから。



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