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私の昭和歌謡

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昭和は遠くなりにけり(おばあちゃんがいつも「明治は遠くなりにけり」って言ってたっけ)私も歳をとったもんだ。 でも、昭和歌謡を聞けば、そこに私の青春がよみがえるの。 だから、昭和人…
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2023年12月の記事一覧

私の昭和歌謡75   裏切りの街角 1975

私の昭和歌謡75 裏切りの街角 1975

照明を見せるステージアメリカのショービジネスが日本到来

私のダンナは、20歳の時、友人と企画会社を立ち上げた。

1976年。一人だけまだ19歳だったのでホールを借りることができない。そして当時の代表者になった友人が、2023年の今も社長を続けている。

当時、私の町でタレントを呼ぶのは労音だけだった。左翼の利権だw でも、それに立ち向かうために会社を作ったわけではない。

地元グループが、自分

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私の昭和歌謡74   終着駅 1971

私の昭和歌謡74 終着駅 1971

運命の出会いはどこにあるのかを知っているのは歌の中だけ

奥村チヨといえば、コケティッシュな外見と甘ったるい歌の「恋の奴隷」で知られた。だから、周りの女の人たちは、あんまり好きと言う感じではなかった。

でもテレビ時代ですからね。ヒット曲はガンガン流れる。

中学生の私は、なんか美人じゃない個性派が好きだった。チヨっていう名前が同じって言うのも親近感があった。

家族も、「ほら、チヨちゃんが歌って

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私の昭和歌謡73   クリスマス音頭 1977 / クリスマスイブ 1983

私の昭和歌謡73 クリスマス音頭 1977 / クリスマスイブ 1983

クリスマス一人暮らしのあいつにはパーっと音頭で過ごすがいい

今回は私のおすすめのクリスマスソング2曲。
独身のぼっちさんには、大瀧詠一の「クリスマス音頭」
恋人がいる幸せ者には、山下達郎の「クリスマスイブ」

そして家族がいる私のクリスマスについて話します。
67歳の私はクリスマスが大好き。とにかく和洋折衷なんでも行事が好き。

ハロウィンの飾り付けを11月1日に外してすぐ、クリスマスの飾り付け

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私の昭和歌謡72   小樽のひとよ 1967

私の昭和歌謡72 小樽のひとよ 1967

雪のなか必ず行くよ待っててとそんな男はいるのだろうか

ムード歌謡が好きな小学生はいない。
当時並行して流行していた若大将シリーズとタイガースと比べたら、もちろんそっち。

どうしてこの歌をしっかり歌えるか?
それはテレビが歌謡曲をしっかりと流したからだ。それと、パチンコ屋。

東京ロマンチカは、リーダーの鶴岡雅義のレキントギターがウリなんだ。ムード歌謡が好きでなくても、彼のギターの超技巧は唸って

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私の昭和歌謡71   逢いたくて逢いたくて 1966

私の昭和歌謡71 逢いたくて逢いたくて 1966

「でてきちゃう」可愛い言葉が歌詞にある嬉し恥ずかしでも口ずさむ

すごく可愛らしい歌を可愛らしい歌手が歌ったので、好感度が高かった。今でも。

どうして可愛らしいのか?

🎵涙が出てきちゃう🎵
🎵死にたくなっちゃうわ🎵

これを園まりの声で歌うんだから、参りましたよ。

園まりがこの曲をヒットさせた当時、彼女は決して色っぽいとか、セクシーとかいうタレントじゃなかった。

でも、清純派でもな

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私の昭和歌謡70  ほんきかしら 1966

私の昭和歌謡70 ほんきかしら 1966

鈴の音の声に聞き惚れ真似をしてほんきかしらと何度も歌う

島倉千代子さんは、人を全く疑わない性格なので、人に騙されてお金をむしり取られた。でも、なかにし礼によると、その何倍もの芸能関係者が彼女を助けたと言っている。

なかにし礼の「愛のさざなみ」は、またの機会に。今回は「ほんきかしら」を思い出そう。

千代子さんの声は、よく鈴の音のようだと言われる。本当にそう。ころころと高くひびく。のびやかに歌う

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私の昭和歌謡69 星のフラメンコ 1966

私の昭和歌謡69 星のフラメンコ 1966

恋してもとどかぬ星のフラメンコひびけ夜空に僕のこの歌

2022年2月20日
西郷輝彦が75歳で亡くなった。再発を繰り返した前立腺がんだった。

九州男児そのものの西郷輝彦は、歌手としても、俳優としても、司会者としても大活躍の人生だったと思う。

さて「星のフラメンコ」が大流行したとき、もちろんテレビで聞いて覚えて歌った。お風呂でだけどww

大人に聞いて、フラメンコっていうのをなんとなく知った。

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私の昭和歌謡68 夜と朝のあいだに 1969

私の昭和歌謡68 夜と朝のあいだに 1969

少年はレエスの服を見に纏いひとり寝の夜のドラマを歌う

まぁびっくりした。
これ一曲しか覚えてないけれど、ピーターなる美少年歌手が登場した。といっても17歳。

見た目の美しさと反対に、こういう系は低音を響かせる歌声なんだね。
当時は歌が上手いとは思わなかった。でも、その声質と曲調は、歌謡曲でなく、ミュージカルの挿入歌のように聞こえた。

もちろんミュージカルなんか知らないから、どうしてあの頃、他

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私の昭和歌謡67 ヨイトマケの唄 1965

私の昭和歌謡67 ヨイトマケの唄 1965

シャンソンが何かを知ったヨイトマケ心の叫び昭和の叫び

美輪明宏。88歳。
日本のシンガーソングライターの元祖。
1950年代に同性愛者を堂々とカムアウト。
シャンソンと俳優の才能溢れる人生。
現役でのタレント活動。

挙げればキリがない話題豊富な御仁である。
そうそう、10歳の時、長崎で被爆している。
これも。三島由紀夫が愛した男。

私は今回は思想信条のことは書かない。
私は同性愛に関しては勝

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私の昭和歌謡66 悲しい酒 1966

私の昭和歌謡66 悲しい酒 1966

悲しみを歌うはギターか三味線か和洋折衷日本の演歌

私は、生前の美空ひばりの歌に全く興味がなかった。
ごめんなさい。ひばりさん。今は違います!

もちろん曲は全部知っていました。有名歌手のヒット曲を私が口ずさまないはずはありません。

私が初めて彼女の歌に心を揺さぶられたのは、息子がきっかけでした。
今は社会人の息子が大学の時、モノマネYouTubeを一緒に見たんです。

曲は「愛燦燦」歌手は、青

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私の昭和歌謡65 銀座の恋の物語 1961

私の昭和歌謡65 銀座の恋の物語 1961

思い出はホントの恋の物語り記憶の中のサックスの音

若い恋は美しいww
歳とって、ますます、そう思う。

私の記憶は、「銀座の恋の物語」がテレビで上映されたのを観たときのもの。

私は生まれてから小学校6年生まで城下町の駅前商店街のど真ん中で育った。20人ぐらいで暮らしていたと思う。

父方の祖父母を中心に。父が長男で7人のきょうだいがいた。母方の祖母と叔父も同居していて、さらに住み込みの従業員も

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私の昭和歌謡64 学園天国  1974 1989

私の昭和歌謡64 学園天国 1974 1989

さすがです。50年後も愛される一体感の学園天国

🎵ヘーイヘイヘイヘーイヘイ ヘイ ヘイ ヘイヘイヘイヘイ🎵

突然あらわれた兄妹グループ、フィンガー5。
ロックンロール曲なのに、歌謡曲。

日本の歌謡曲ったら、ジャンルの壁を突き抜けてこわいww

阿久悠のなんでも書いちゃう歌詞に驚く。学園ものもOKよって余裕の作。

フィンガー5の第1作は、都倉俊一の「個人授業」。
でも、第2作の井上忠夫作

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私の昭和歌謡63 ナオミの夢 1971

私の昭和歌謡63 ナオミの夢 1971

15歳。口ずさんでた原曲がヘブライ語だと知った驚き

ガザ戦争で、思い出した歌がある。

「ナオミの夢」

私は中学生を教えているが、イタリア語の歌も、ドイツ語の歌も、「先生、あの英語の歌だけど」と、いう子が必ずいる。

外国の言葉は、私だって、中学生の時は、英語だと思っていた。

「ナオミの夢」の日本語バージョンの歌詞には
🎵ナオミ Come back to me 🎵 がある。

歌いながら

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