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同じ景色を見た時、私は大人になっていた。

私も気づいたら大人になっていたんだな。
そう思う瞬間を見つけたいと思っていました。
成長した自分を知りたいと思っていました。

そして、前触れもなくその瞬間のうちの1つを、私はこの間ひっそりと見つけたのでした。


ピアノを習うのを辞めてから、気づけばおよそ7年経っていたようです。
先生から、2年に1回開催される発表会の招待状が家に届きました。
ちょうど空いている日だったので、姉と一緒に久しぶりに生で演奏を聴きにいったのです。


小学生にあがる少し前からずっと、母に毎週毎週送り迎えしてもらっていた片道30分を、今日は姉と私で運転していきました。

ほとんど変わっていない景色、
でも、どこか綺麗になっている外観。
昔あったはずのお店はチェーン店に変わっていたり。

「昔あの公園で遊んでみたかったよなー」
「いつも車からあの公園ばっかりみてたよなー」

昔は、道中いくつかある公園を見ては、
(わぁぁぁぁ…楽しそうな遊具… 私もこんな公園で遊んでみたい)
そんなことを思いながら、車の窓から遊具の色、形を暗記するように覚え、自分が遊ぶ妄想をしては、もどかしい思いを抱いていました。


車を走らせていると、何百回と通った道にある、大きな看板が現れました。
久しぶりに見ると、
「あの看板○○って文字書いててんや、知らんかった」
「ほんまや、昔は色とか形とかザックリした見た目しか見てなかってんなぁ」

今は、看板と言えば書いている情報を読み取ろうと、まずは文字を見るものですが、
運転もしなければ看板から情報を受け取る義務もなく、文字を把握する必要もなかった昔は、
全体的なシルエットとして、その看板を把握していたようでした。


道路が細いだとか、信号が全然ないだとか、歩車分離式信号だとか、駅が小さくて電車が単線だとか、
電車が全然来ないから本数が少ないのだろうだとか、病院が少なくて住民は不便かもしれないだとか、住んだらコンビニが遠いなだとか…
(田舎について言及しているだけのようだが…)

今まで、自分が車の中から見ていた、
店の壁のイラストだったり、公園だったり。

そういうものからは取って代わって、なにか現実的なものを捉えて見るようになっていたのだと思います。

 公園に目を輝かせていた時代が終わっていたことは分かっていましたが、それでも、少し寂しいような…

でも、時が経ち、再び同じ景色を見ることで、自分は間違いなく大人へと進んでいたんだということを認識できたのでした。

少し成長した自分を知れたことも、
知る方法の1つを知れたことも、

寂しくも嬉しい道のりでした。

最後まで読んでくださりありがとうございます✨

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