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感情を隠すことが大人だと思っていたのに。

昔傷ついたその言葉とか、

理解できない理不尽な考え方とか、

馬鹿馬鹿しいのに悔しくて泣きたいこととか、


かなり時間が経ったから、笑い話にできることもあるし、
馬鹿げている、と冷静に分析しながら思い出話として話せることもあるし、
鼻で笑えることもあります。

でもね、時効が来るまではどうしてもうまく話せない。



友人は私の前で、感情が溢れて泣いた。

感情をそのまま表に出して伝えることができていた。

その時、私にはできないことだと感じたのです。


辛いとき。
人間関係でも、恋愛でも何でも。
泣きながら本人にも他人にも訴えることができる人を何人も見たことがあります。

怒っているとき。
腹が立つ事を本人にも怒りの顔を露にしながら訴える事ができていたり、
怒りの赴くままに泣くことができていたり。


私は、素直な感情を出すことが苦手です。
そしてきっと、正直に感情を出して、ぶつけることを大人だと思っていませんでした。
自分の中で気持ちを落ち着けて、そして大したことは無い、と大人ぶることが大人だと思っていました。

ましてや、感情をコントロールできる。
冷静になれる。
人にあたり散らかすことなんて無い。

これが私が得意としている強みであるとさえ思っていたのです。


でも実は、
辛いことが、追い詰められていた事が、傷ついたことが、
その過去に影響されないくらいどうでもいいと思えることに変わって、
時間が経って、辛さの感情から解放されて、
笑って話せるようになるまでは、話すことができない。

これが私の姿である事を自覚しました。


”弱みを人に見せることができない”

これが私の短所である事を自覚しました。


まさか、大人びているつもりの私が、一番子どもだったのか。
ということに気づいた気がします。

私は話せるようになる、という時効が来る時をいつも待ってしまうのです。
そして何でも無かったかのように、自虐のように
笑い話として、軽く流していくのです。

時効を短くして、徐々に無くして、
その時に、その時の思いを、
情熱的に感情を乗せられなくても良いから

伝えられるようになるべきだと考えています。
それが自分をさらけ出すために必要な方法の1つだから。
それが自分を知ってもらうことに繋がるから。

自分を人に示せるようになる。さらけ出せるようになる。
それは私が大人に近づいていくための1つの努力義務なのかと。
既に成人している”大人”の私が大人に近づきたい。という甘えのようなものでした。


最後まで読んでくださりありがとうございました。
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