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『蚊』(掌編小説)
ーー彼と約束をした。
ATMを目の前にして考える。 残高は遂に10万円を切った。わたしの稼ぎで暮らしていける限界はもう、目に見えている。
仕事に加えてバイトを増やすか。
そう考えたとき、それが不可能なことであることはすぐに理解できた。
今でさえ、月に数度の休みのほかはギリギリまで残業をして稼いでいる。それでも、この東京という街でわたしと彼が共に暮らすにはお金が足りなかった。
はじめの頃は良かったのだ。
わたしには学生時代の貯金があったし、彼には大きな夢があった。
1Kのアパートに2人。
仲良く暮らせていたという自信がある。
約束というのは、その頃にしたものだった。
彼に夢がなくなった今となっては多分もう、意味をなさないものだけれど。
約束というものは、お互いに記憶にとどめていなければ、約束になり得ないのだ。
半年が過ぎた頃から現れた不和。
彼は家に帰らなくなって、代わりに小遣いをせびるようになった。
わたしはそれに応えるために必死に働いたが、彼の要求はエスカレートしていった。
「ちょっと、時間かかるなら後にしれくれない? 急いでるんだけど」
俄かに刺された背後からの声によって、わたしはハッとする。
「引出し」のボタンを指で押しつつ、後ろのおばさんに軽く礼をして謝罪の意図を示す。
おばさんはワザとらしいため息をついて、しかしありがたいことにそれ以上は口を開かないでいてくれた。
3万円。
彼から要求されたお小遣いは、わたしと彼が普通に生活することを考えれば、途方もない大金だ。
しかし、わたしはそのことを彼に伝えられない。
既に貯金が底をつこうとしていることも、彼に伝えることができていない。
だから彼は、お金があると思っているのだ。
そういう意味でいえば、わたしも彼も大差ない。
わたしは彼の共犯者に違いないのだ。
駅の中。地方銀行のATMは、いつか約束を交わした時と同じままで、同じ画面で、同じ音声でわたしと向き合っている。
変わったのはわたしと彼だ。
恨めしいと思ってしまったATMには、何の罪もないことは疑いようもない。
「3」という数字に触れる。
次に「万」という文字に触れて、決定のボタンを押せばいい。
それで、彼が望むものをわたしは彼に渡すことができる。
だからわたしはその文字に触れようとした。
しかし、すんでのところで大きな蚊が現れて、2という数字の上に降り立った。
タッチパネルには32という数字が表示されている。
32万円なんて大金はもちろん、わたしの口座から既に失われたものだった。
「取消」のボタンをすぐに押そうとしたが、しかしわたしは込み上げてきた笑いを抑えることができなかった。
「バカみたい」
呟いてみると、案外簡単だ。
分かっていたことなのだろう。
その数字を押してくれた蚊を見つめる。
他のどの蚊とも同じようにしか見えないそいつでさえ、わたしのことを見ていない。
人差し指の先ほどはありそうな巨体は、わたしの全身の血くらいは簡単に吸い尽くしてくれそうだった。
この蚊が、わたしの血を吸って彼のもとへ行ってはくれないだろうか。
蚊は、タッチパネルの上から動いていない。
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