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「シュルレアリスムと日本」─今年はシュルレアリスム宣言から100年らしいお話─


はじめに

 今年はアンドレ・ブルトンの「シュルレアリスム宣言」から100年の節目だそうで、板橋区立美術館にて「シュルレアリスムと日本」展が開催されている。これはその展覧会の記録である。
 本展は前後期で展示品の入れ替えがある。前期のみの展示品には「□」を、後期のみには「■」を、両期通して展示されているものには「□■」を以下の例のように表示する。なお展示品は一切撮影できなかったため、所蔵美術館からの紹介など、正当性のありそうな図版が乗っているサイトがある場合はそのリンクを掲載する。リンクがない作品の図版はぜひ調べてみていただきたい。


両期展示品の例:
□■[番号]作者/編著者《タイトル》(制作年/刊行年)
[…感想・解説等…]


1回目

 3月半ばの某日、前期の展示期間中。地下鉄赤塚駅から歩いて美術館へと向かう。あまり下調べしていなかったため、駅に着いてから経路を調べた。そうしたら徒歩24分と表示されたトホホとなった。

●やっと着いた
 この日はやや強い風が吹いていた。「遠路お疲れさまです」と書かれた旗がたなびいている。

よく分かってるじゃねえか……(逆光がひどい)

●板橋区立美術館に……

来ました①
来ました②

──いざ入場──

□■[D1]アンドレ・ブルトン『シュルレアリスム宣言・溶ける魚』(1924)
 シュルレアリスムのことはまだよく分かってないのだけど、さすがの私でも知っているアンドレ・ブルトン『シュルレアリスム宣言・溶ける魚』の当時のヴァージョンが、入場してすぐのところで出迎えてくれる。開幕からテンションが上がるぜ!

□■[001]東郷青児《超現実派の散歩》(1929)

 左手と右足にはそれぞれ黒い手袋と靴を身につけているが、右手と左足はなぜか裸だ。ヌルッと宙を散歩してておもしろい。とても好き。東郷本人はシュルレアリストとみなされることを拒否していたらしい。

□■[002]阿部金剛《Rien No.1》(1929)

 あまりにも無機質な建造物群の上、いやに青い空のただ中に、飛行機の翼の断面図を想起させるような白い何かが浮かんでいる。これはなんだろう……。なんらかの吉兆か凶兆か、そもそもそういう類のものとは関係ないのか。
 翼の断面とは言ったものの、最初に想起したのは浅草名物、金のウ○コことアサヒグループホールディングス「スーパードライホール棟」の屋上に設置されているオブジェであった。

□■[003]古賀春江《鳥籠》(1929)

 鳥籠に捕らえられた裸婦のエロティシズムと、その他のモチーフとのアンバランスさが実に奇妙である。左下から奥へ伸びる螺旋状の階段のみが、絵画の世界と鑑賞者とを繋ぎとめようとしている。
 なお、1929年の二科展に出品された東郷青児、阿部金剛、古賀春江らの作品が(本展では[001-003]の3点が展示されている)、日本の美術界にシュルレアリスム的表現が現れた最初の事例とされるそうだ。

□■[012]吉原治良《縄をまとう男の子》(1931-33頃)

 あんさん、縄のほかにドレンホースを持ってませんか?

□■[013-016]吉原治良ら3名ないし4名《妙屍体(優美な死骸)》(制作年不明)
 「複数名によって一句ないしはひとつのを成立させる遊戯」で、その由来は最初の遊戯で誕生した「妙屍体は新しい葡萄酒を飲むだろう(Le cadavre exquis boira le vin nouveau)」というフレーズだそう。(「」内は図録より引用) 展示品はいずれも3人ないし4人でひとつの紙上で分担してデッサンを描いたものである。ほどよくキモい。
 ふたりで一句の川柳を生みだすゲームが流行ったことがあった気がするんだけど、あれ妙屍体じゃないか?

□■[021]三岸好太郎《海と斜光》(1934)

 現実離れした奥行き感のない空、海そして砂浜。桃色の砂浜には、無数の貝殻に囲まれた裸婦が横たわっている。その肉体は生き生きとした肌色をしているにもかかわらず、貝殻=貝類の死骸とともに打ち上げられた「もの」であるかのような、物質的な冷たさを感じる。顔にかけられた布が死を暗示しているとも捉えられ、余計に温かみがない。こちらの煩悩を断とうとしてくるかのようなそれは、まるで九相図(グロテスクなものであるため、調べる際は閲覧注意!)だと思った。わしゃ仏僧か。

□[032]伊藤久三郎《振子》(1937)
 波打ち際には多くの振り子時計が並び、それぞれ異なった時刻を示す。振り子はひとつの時計から複数個垂れており、離れて転がったり宙に浮いたりしているものもある。左上からは、謎の人物が脚をこちらに向けて飛来してきている。海と砂浜がモチーフの絵多いな!?
 時計ないし振り子は、あるいはひとりひとりの人間を表現しているのかもしれない。時間の感覚も命の長さも皆違い、死すれば母なる海へ還ったり天に昇ったりすることを暗示しているようにも感じられる。(ただし海へと転がっている振り子はない) 飛来しているように見える人物像も、実は昇天しているのだろうか。

□■[048]村瀬静孝《ひとで》(1934)
 6つの腕があるオレンジ色のヒトデである。ヒトデである。ヒトデの絵の具の盛り付けかたがすごい。シュルレアリスムかは分からないがおもしろい絵だ。

□■[060]靉光《眼のある風景》(1938)

  空と地平により画面は3:2ほどの割合で分割され、風景の手前には赤茶けた不定形の存在が鎮座している。これは軟体動物か、それとも岩石か。いや、人間のものであろう隻眼がこちらを凝視している。
 眉も口もなく感情は読み取れないが、不思議と怒っているようには感じられない。眼の脇にぽっかりと空いた穴には紐を通せそうだ。こんな根付があったらいやだな。「彼」にはもう片方の眼はあるのだろうか。あるのだとしたら、鑑賞者にはほとんど見えない地平線を代わりに眺めてくれているのかもしれない。
 絵の具を削り取った痕跡が随所に見られる
。この不定型な何かも、画家のなかではこれが定まったかたちであったのであろうことが窺い知れる。

□■[065]浅原清隆《多感な地上》(1939)

 本展のメインビジュアルにもなっている作品。「地上」というからには、ハイヒールが並ぶ面が地上で鳥が舞っているのが空だろうか。ハイヒールは犬に変化し、少女のリボンは鳥を想起させる形象をしている。
 そもそもこの少女はどこにいるのだろう? よく見ると背景の下部には奥行きがあり、草原が広がっている。草原の左側には2頭の牛? が、右側には自転車を漕ぐ女性が小さく描かれている。少女の顔には手前から影が差していて、こちらと奥の草原とは連続していないことが分かる。背景は空と草原が描かれた壁面、ハイヒールがある「地上」はテーブルのようなもので、少女はその間から顔を出しているとも捉えられるかもしれない。……解釈に対して繊細になっている。これはこちらが多感にされてますわ。

□■[079]吉井忠《二つの営力・死と生と》(1938)
 残念ながら正当性のありそうな図版の出所を見つけられなかったのだが、これはぜひぜひ調べてみていただきたい。超現実的な不可思議さ、不気味さ漂う作品はこの展覧会で何十作も鑑賞できたが、得も言われぬおぞましさと「シュール」をもっとも感じたのはこの作品かもしれない。
 正面に壁のない建造物内の左側にはぶらんこが吊り下げられていて、うつろな目をした裸足の女性がそれを立ち漕ぎしている。右側にはいくつかの貝殻、そしてビーカーに入れられた緑色の臓物がある。ビーカーの影は右の壁に長方形に空いた真っ暗な空間へと、明確な光源がないにも関わらず不自然な長さで伸びている。建造物の外には斃れた大きな人物の靴が認められる。青と赤が交わらずに共存した地平の先にはクレーンが見え、その左横からは煙が噴出し、上空で扁平な雲を形成している。
 生はぶらんこを漕ぐ女性が、死は貝殻や臓物、外の人物がそれぞれ象徴していると思われる。室内の左側の壁は一面赤黒く、右には先述したとおり壁1枚を隔てて暗い空間が見える。そしてなぜか女性はその影を落としていない。彼女の死期も近いのかもしれない。
 そして営力とは以下のような意味らしい。

地質学的現象を起こす自然の力。風化・浸食・堆積 (たいせき) 作用などの外的営力と、火成作用・変成作用・地震などの内的営力とがある。

デジタル大辞泉(小学館) - goo辞書より引用

室内は風化を感じられるから外的営力、室外は噴煙から察するに内的営力だろうか。なんだか生と死、内と外がちぐはぐだ。しかしながら、脈絡のないモチーフの連続が不自然なほど自然に調和しているように感じられた。
 何かが浮いているとか、ものが溶けているとかそういったことはなく、モチーフ自体はどれもわりかし現実に即しているのだ。とても「シュール」、そして今回の展示のなかで一番好きな作品。この作品と東郷青児《超現実派の散歩》のポストカードが欲しかった……。でも図録とシュルレアリスムの関連書籍しか売ってなかったんだよな……。

□■[092]植田正治《コンポジション》(1937)

 写真のシュルレアリスム。なんか……撮影の情景を思い浮かべると楽しそう……。帽子の動感がいい。

□[095]平井輝七《月の夢想》(1938)

 こちらも写真のシュルレアリスム。上記のサイトによれば、「壁を写した写真の上に、印刷物から切り取ったモチーフを貼り合わせ、手彩色を施している(引用)」らしい。円形の機器と右の棒状のものがよく分からないため、全然考察できないがなんだか好きだった。

□■[105]堀田操《断章》(1953)
  こちらは戦後の作品で、全体的にとても青い印象的な絵画。画面奥の廃墟はピーテル・ブリューゲル《バベルの塔》(1563)ほど高くはないが、それを想起させるような造形をしている気がする。

《バベルの塔》 (Public domain)

もしかしたら旧約聖書─特に大洪水・ノアの方舟─と関連するモチーフを断章取義して描いているのかもしれないと思ったのだが、残念ながら聖書の話はよく分かってないためこの方面での考察は現時点では控えることにする。
 廃墟には何の文句も掲げていないアドバルーンが係留されている。その動きから画面左から右に風が吹いていることが分かる。このなすがまま流されるアドバルーンから漂う無力な印象が、またしても抗えぬ洪水のイメージと重なった。
 手前にはテーブルがあり、その上には食器と魚類の脊椎と思われるもの、そして割れたワイングラスなどが置かれている。グラスのなかには依然ワインが注がれたままとなっている。地面はひび割れ、ところどころから植物の芽が出ている。マッチ、トランプ、布、たまごの殻、貝殻などさまざまなものが雑多に散らばっている。新聞紙の中の人物は明らかにこちらを見ている。
 配置されたオブジェたちは鑑賞者の視線をあちこちへと向けさせる効果を発揮しているが、それはあたかも絵画のなかのモチーフを鑑賞者に断章取義させようとしているかのようでもある。込められているのかどうかも分からない意味を見いだし抜き出す行為は、自分に都合のいい物語を綴っていることと大差ない。鑑賞者や批評家をあざ笑っているかのようにも受け取れるが、そんな意図があったのかは知り得ない。非常にモヤモヤする。

──観覧おわり──

●図録を買う
 これまた分厚い、読み応えのありそうな本だ。
※後日談だが実際に読み応えたっぷりだった。

●後期展示でまた来るからな

あまり大きくない建物

2回目

 三月のおわりが近いある日。後期の展示を観るためにまたやって来た。徒歩20分超の道のりを進む。やけにアップダウンがあって疲れる……。なお、この日のためにある程度は図録を読んできていた。

●また風がある

遠路さまです

●板橋区立美術館に……

来ました①
来ました②

●1階ラウンジへ
 ここには古沢岩美の旧蔵品であるイーゼル、チェスト、テーブルがある。前回もラウンジには観覧後に立ち寄ったのだが、人が多かったため撮影はしなかった。この日は観覧前に行き、誰もいなかったから撮ってきた。

イーゼル
チェスト
テーブル

──いざ入場──

■[007]前田藤四郎《TORSEになりたや》(1930頃)
 torseとは

torse /tɔrs/
[男]
➊ 上半身.
se mettre torse nu|上半身裸になる.
➋ 〖彫刻〗 トルソ(胴体だけの彫像).
bomber le torse
ふんぞり返る,威張る.

プログレッシブ 仏和辞典 第2版 - コトバンク
より引用

つまりトルソのフランス語だ。画面右に女性とみられるトルソがある。左にはヒゲの男性がトルソになりたそうに? 左手を女性のトルソへ差し出している。この男性には胴、腕、脚にいくつも円形の断面が白く描かれている。あるいはそういうデザインの服を身につけているのだろうか。彼はトルソの前に素描のなかの人物になれそうである。もしかしたら引用文の➋にあるような用例でtorseを用いていて、女性に対して威張りたい男性を揶揄しているのかもしれない。

■[042]原田直康《悪夢》(1937)
 全体的に暗い色調の絵画。灰色の裸婦が右手を頭にやり、目を伏せ首をかしげている。彼女が座っているのはベッドだろうか。その左にはシルエットだけのテーブルのようなものがあり、その上に大きなシャコ貝が置かれている。貝のなかには丸い球体、これは真珠かな? 布団とみられる布は女性とベッド、テーブルに被さり、ダイナミックな三角形の構図を生みだしている。
 ……ずっと図録で図版を見ていたら布がシャコ貝に見えてきた。(noteはいつもひとつひとつ図版を見返しながら書いている) 明らかに二枚貝の形象を表してはいないものの、シャコ貝のようにその縁が波打っている。そして画面左上には布が額縁のようにかくばっている箇所がある。女性はそれから目を背けているようにも見える。これはなんだろう……。もしかして机だと思っていたものはピアノで、額縁のように思えたものは楽譜だろうか。布はピアノに掛けるものと捉えることもできそうだ。彼女の左手はピアノに向かっている。悪夢とともに聴こえてきた耳鳴りを打ち消すように演奏をしているのかもしれない。きっと彼女は目を背けているのではなく、耳鳴りと悪夢の恐怖に苦悶し身をよじっているのだ。

──観覧おわり──

●このあと国立新美術館をはしごした

またおもしろい展示をやってくださいね

おわりに

 写真が撮れなかったため軽めの記事にするつもりだったが、なんだかんだ長くなってしまった。シュルレアリスム作品は考察のしがいがあっておもしろい。一番好きな作品は《二つの営力、死と生と》、おもしろ枠は《超現実派の散歩》と《ひとで》だった。それと青が基調の絵に惹かれる傾向があった気がする。書こうと思えばまだいけそうだけど、なにぶん語りたい絵のいい図版が軒並み見つからないためここまでにする。当の板橋区立美術館が所蔵品データベースで図版を公開してくれていないのが惜しい。
 それにしても考察力や観察眼の未熟さと、シュルレアリスムに対する根本的な理解度の低さをひしひしと感じた。キュビスムの積ん読がなくなったら、次はダダやシュルレアリスムあたりの芸術史を勉強してみたいな。
 本記事では全く触れてこなかったが、この展覧会の作品は第二次世界大戦期に重なるものもあった。1941年4月5日には福沢一郎と滝口修造が治安維持法違反の疑いで検挙、約7カ月の拘留を受けた「シュルレアリスム事件」があった。前衛芸術は弾圧の対象とされたのだ。動員により芸術家たちの命は失われ、戦禍のなかで多くの作品や資料が焼失、散逸した。今回鑑賞できた作品や資料の多くが戦前から戦中のものであり、戦災を逃れた大変貴重な品々だ。展覧会では芸術の世界ですら軍靴の音が聞こえてくる、当時の緊迫した様子を追体験することとなる。
 本稿公開時(3月28日)で展覧会の期日はまだ2週間ほどある。あまりクローズアップされない日本の前衛活動の足跡をたどりながら、混乱の時代を生きた芸術家たちに思いを馳せ、彼らが残した作品を観てみては如何だろうか。

参考文献

●『シュルレアリスムと日本』速水豊・弘中智子・清水智世編著、青幻社、2024年

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