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『NINA-物質化する生け贄』 Noism

(※2008年に見たNoismの作品について、そのときのメモ書きを。現在の私のダンスについての考えともまた違っていて面白い。)

友人たちが出演していたので見に行く。

ときどき視界の端がぶれることで、どれだけ5人のダンサーがシンクロしているかがわかる。
アフタートークで穣さんが「本番までにはもっと精度を上げてゆく。精度というのは単純に言えばスピードということです」ということを言っていた。
これ以上にか、とため息をつく。求めるなあ。そりゃあそうなんだけれど、むーとうなった。
「表現する」というようなことをよく考えるけれどあの動き・形のなかに何か感情のようなものを込めているかといえば、単純に言えばそうではない、と思う。
ひたすらにその精度を高めることであらわれる形・スピード、移り変わる時間、伸び縮みする空間、光や影としての像…そこにあるのは物質であって、意味とかこころとか感情が直截舞台にのっているわけではない。(それが立ちあらわれていないということではもちろんなくて)
技術的なことと内面的なことをこのごろ考えているので、ちょっと極端なとらえかたをしてしまったかもしれないけれど。
(でもこの舞台がことさらにそれを感じさせた。)

ゲストダンサーの永野亮彦さんが目をとらえて離さなかった。
すごく好きな動き方、音楽のとらえ方、像の残し方。

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