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Chapter 2. Vol.6 この世界は二度と元に戻らない

はじめに


この作品は、フランス語学校に通っていた際の課題として提出した小説に加筆修正を加えたものです。
(詳しくはこちらの記事をどうぞ。→ノートに書かれた言葉は消えない。)

あらすじ


2030年以降、先進諸国では人体へのマイクロチップの挿入が法律により義務付けられていた。
犯罪率の激減、豊かで便利な生活。一見すると完璧なシステムに見えた。
しかし2050年、アポカリプスと呼ばれるコンピューターウィルスが発生し、
世界中がその脅威に晒されることになる。
片桐あきらは叔母の住むフランスに避難することになる。
フランスでの美しい生活と、日本に残した両親への想いで少年の心は揺れるのだが…。

これまでの物語


Chapter 1
プロローグ
Vol.1 アポカリプスの到来
Vol.2  片桐家の憂鬱
Vol.3 この現実はスイッチオフできない
Vol.4 僕もきっと壊れている
Vol.5 あきら、フランスへ行く

Chapter 2
Vol.1 あきらの旅立ち
Vol.2 答えのない問い
Vol.3 春の嵐
Vol.4 あきらとバゲット
Vol.5 原始の楽園

本編 Chapter 2. Vol.6 この世界は二度と元に戻らない


 ある土曜日の午後、ド・ラ・シャペル家の人々はベルクール広場でコーヒーを飲んでいた。それはとても美しい六月の一日だった。青い空にはレースのような雲がかかり、きりりと澄んだ空気には誰かの残した香水の匂いがただよっていた。ジャン・ルイは珈琲を、由香梨はペリエを、花憐とあきらはディアボロをそれぞれ注文した。ほんの少しでも早く初夏の陽射しに触れようとする人々でカフェテラスはごった返していた。そうした喧噪を聞くともなく聞きながら、一家は通りをゆく人々を眺めていた。




「昔はこの時期になると、外国人観光客がこの街に押し寄せたんだよ」とジャン・ルイが言った。
「フランスの夏の夕べは長いからね。夜9時を過ぎてもまだ明るいのよ。散歩するには持ってこいの季節よね」と由香梨が口を添えた。
「夏って大好き。早くバカンスが始まらないかな。ねえ、今年は海に行けるかな?」花憐が言った。
ド・ラ・シャペル家の人々は毎年夏になるとコルシカ島でバカンスを過ごしていたのだが、近年ではアポカリプスの影響で気軽に外出できなくなっていた。それでここ二年ほど、一家はどこにも出かけずやや退屈な夏を過ごしていた。花憐はそのことを心配しているのだった。



 あきらは今回のフランス滞在を別として、旅行と呼べるものをもう何年もしたことがなかった。「バカンス」だの「コルシカ島 」だのといったフランス語は、天上に住む人々の言葉のように少年の耳に甘く響いた。彼らは地獄というものを知らない。知らないままに一生を終えるのだろう。あきらはフランスに住むうちに、自分もだんだんと天国に生まれ落ちたような気分になりはじめていた。

 少年は日本にいる両親のことを忘れたわけではなかった。彼は名前の知らない神に向かって、毎晩両親の無事を祈っていた。彼はそのちっぽけな希望に鋼のような力でしがみついていた。けれどフランスの初夏のまばゆいひかりは、少年のこころに残った黒いしみのようなものを毎日すこしずつ消していった。目をつぶると、ド・ラ・シャペル家の人々が見せてくれた美しい景色の残像がまぶたの裏でちらちら踊り、明るいひかりが少年の胸をいっぱいに満たした。幸せになることはこの国ではかんたんだった。ただ、その快い感覚に身を任せればいいのだった。


 だいじょうぶ、僕はお父さんやお母さんのことを忘れたわけじゃない、と少年は自分に言い聞かせた。彼は寝る前に両親の顔を思い出そうとした。空港で最後に別れたときの母親の髪の毛の香りや、涙で濡れたほほの熱さ。眉根に皺を寄せた、まるでちょっと怒っているような父親の笑顔。飛行機の中で食べたしっとりと甘い卵焼きの味。あきらはそうした記憶を手の中にしっかりと握りしめていたつもりだった。けれど強い風が吹いて、それらの記憶は砂のように手からこぼれていった。少年は自分が何を手にしていたのかさえも忘れてしまった。忘れてはいけない何かがあったはずだ、ということを彼はうっすらと覚えていた。けれどそれは何だったのだろう。やがて少年は考えるのが面倒くさくなってしまった。そうして彼はただ楽しい思い出だけを心の中にしまっておくことにした。



 その日、ベルクール通りを眺めながら、少年の目がとあるアジア人カップルの上にふと止まったのは、まったく偶然のことだった。アジア人の外見は似ているので、韓国人か中国人か日本人か見分けるのは難しいとフランス人たちは言う。けれどあきらには彼らが日本人だろうということが直感的にわかった。ふたりはおそらく恋人同士なのだろう、ぴったりと寄り添って歩いている。男性の方は日本人にしては背が高く、まるで太陽に近づこうと焦って成長しすぎたアスパラガスのようだった。髪は短く刈り、時代遅れの丸眼鏡をしており、顔の輪郭は鋭かった。女性は男性よりも頭ひとつ分ほど背が低く、小柄な躰に青い花柄のワンピースをまとっていた。風が吹くと、彼女の長い髪が揺れた。初夏のまぶしいひかりに照らされて、彼らの影が地面にくっきりと黒く焼きつけられていた。その影は絵本の中の登場人物みたいに、何かの物語を語っているように見えた。それはとてもとても遠い昔に見た、胸が灼けるような記憶と結びついているように、あきらには思われた。彼は喉の奥がぎゅっと締め付けられるのを感じた。彼は突然立ち上がると、彼らの後を追って駆け出した。家族の面々は驚いて彼を見た。



「あきら、どこに行くの?」由香梨の声が背後から追いかけてきた。
少年は構わず走った。頭の中はからっぽだった。ただ、何かとても大切なことが目の前を通り過ぎていったという予感に急き立てられて走った。それは絶対に忘れてはいけない何かなのだ、と彼は思った。そしてそれを逃してしまったら、きっとこの世界は二度と元に戻らない。少年は自分の考えに驚いていた。なぜそれらの考えが、突然天啓のようにひらめいたのだろう。けれど彼はその考えが正しいということを、こころのどこかで知っていた。暗闇の中でひかりを求めて飛ぶ虫のように、少年は夢中で走り続けた。何人かの通行人が少年を見やった。彼はかまわず走った。心臓が壊れてしまうのではないかと思うほど、走って、走って、走った。



 あきらはやっとのことで通りの角を曲がろうとしている男女に追いついた。彼らは振り向いて、あきらの方を見て微笑んだ。それは雲間から射し込むひかりのような、なつかしくまぶしい微笑みだった。彼らはまるで、人間の世界にふわりと降りてきた神々のようだった。あきらはそのひとたちが誰なのかを知っていた。忘れるわけがなかった。少年が彼らの名前を呼ぼうとした時、突風が吹いた。それは竜巻のように何もかもを吹き飛ばした。彼らの姿も、街路樹も、空に浮かぶ雲も、すべてが遠い、とても遠いところに消えてしまった。あきらは目をつぶった。まぶたの裏側にまっしろなひかりが見えた。それからゆっくりと意識が遠のいていった。


 いつまで経っても戻ってこない少年を心配して、ド・ラ・シャペル家の人々がやってきた。少年は道端に小さな躰を横たえていた。顔色はつるんと白いままで、まるで眠っているみたいだった。ジャン・ルイはとっさに少年の手首を掴んだ。弱いが一定の脈を打っている。彼は妻と娘に向かってかるく頷いて見せ、少年をひょいと背負った。一家は少年を起こさないように気を付けながら、家の方に向かって歩き出した。



 それから一週間ほど経ったある金曜日のことだった。ジャン・ルイがめずらしく夜遅く帰宅した。彼は終業時間きっかりに仕事を終え、まっすぐに家に帰るのを喜びとするタイプの人間だった。同僚に誘われて仕事帰りに飲むというようなことも稀だったし、そのような場合は必ず由香梨に連絡を入れた。だから夜の10時になってもジャン・ルイが帰宅していないということは、由香梨にとって奇妙なことだった。彼女は何度か夫の携帯電話にメッセージを送ったが、返事はなかった。

 11時をまわったころ、やっとジャン・ルイが帰宅した。顔色は青ざめ、何日も寝ていないみたいに目の下に濃い隈が出来ていた。足取りはまるで鉛でできた子どもでも背負っているみたいに重かった。彼は転がり込むようにリビングに上がると、水をくれと妻に頼んだ。由香梨は硝子のコップに冷たい水を注いで夫に渡した。ジャン・ルイはそれを一気に飲み干すと、しゃがれた声でテレビを点けるようにと言った。日頃テレビが嫌いな夫にしてはめずらしいことだと思いながら、由香梨は言われた通りにリモコンのスイッチを押した。




 画面の向こうに映っていたのは、どこかの街のようだった。その街はまるで深い海の底に沈んでいるみたいにしんと青く固まっていた。駅とか交差点とかデパートといった、街に必要なすべてのものが揃っているにも関わらず、そこには生命の動きと呼べるようなものが何もなかった。だからだろうか、それがどうやら東京の渋谷駅であるらしいと由香梨が気づくのに5分ほどかかった。彼女の記憶にある東京と、画面の向こうのそれとは似ても似つかなかった。人間がひとりも映っていない街というのを、彼女は生まれてはじめて目にした。画面の下に流れるテロップとけたたましく叫ぶアナウンサーの声がなかったら、それはまるで映画の中の一場面のように見えただろう。アナウンサーは一秒も無駄にすまいと危惧しているみたいに、ものすごい早口で東京壊滅のニュースを告げていた。

 画面が切り替わり、カメラは東京の他の地区を映し出した。都庁も皇居も明治神宮も、すべてひっそりと闇の中に沈んでいた。それは子どものころに絵本で見た幻のアトランティス帝国を彼女に想起させた。その氷のようにはりつめた闇の底に、きらりとひかるものがあった。それはどうやら何かの生き物の眼のようだった。人間の姿によく似た生き物があちこちの暗がりに潜み、蠢いていた。それらの生き物たちは四つ足であたりを這いまわり、ごみを漁り、地面に落ちたセミの幼虫や野良猫の死骸を貪り食っていた。由香梨は思わず画面から目をそらした。

「バグだよ。東京にはもう、まともな人間がひとりもいない」
ジャン・ルイがいつのまにか由香梨の背後にいて、静かな声で言った。彼は100年ほど余分に生きたみたいに疲れ切っていた。

「江梨子は…妹たちはどうなったの?」と由香梨は震える声で言った。
ジャン・ルイは首を振り、あらゆる通信機能が途絶えていて日本側とまったく連絡が取れないことを告げた。由香梨は憤然と立ち上がり、妹に国際電話をかけようとした。しかし夫の言った通り電話線はひどく混線していた。彼女は辛抱強く待ったが、ものすごい雑音の後にぷつんという音が聞こえ、ついに何も聞こえなくなった。インターネットにアクセスしても、日本に関する情報は閲覧禁止となっており何も手がかりが掴めなかった。由香梨は重心を失ったみたいに、膝から崩れ落ちた。ジャン・ルイはとっさに妻を抱きかかえた。彼は子どもをあやすみたいに妻の肩をゆすぶり、大丈夫、大丈夫と歌うように言った。もちろん「大丈夫」なことなどひとつもないことを、彼自身よくわかっていた。それから彼は小さな声で「あきらには知らせない方がいい」と言った。



 その時、花憐とあきらが二階の部屋から元気よく降りてきた。花憐は明日は学校がないので遅くまで起きていられるとはしゃいでいて、あきらもなんとなくその興奮に巻き込まれていた。
「あきらったら、映画のこと何も知らないのね。『バック・トゥー・ザ・パスト』を観たことないなんて、信じられない!」
花憐がきゃらきゃらと笑いながら言った。
「仕方ないだろ。日本ではテレビが禁止されてるんだから」
あきらは口の中でぶつぶつ抗議した。
「確かどこかにDVDがあるはずよ。ママ、観てもいいでしょう?」
大人たちが止める前に、ふたりの子どもはテレビの前のソファに陣取ってしまった。由香梨はとっさにテレビのスイッチをオフにしようとしたが、すでに遅かった。子どもたちの目の前で、先ほどのニュース映像の続きが流れていた。アナウンサーは相変わらず狂ったように東京壊滅、と叫んでいた。
「何これ、新しい映画?」
花憐はのんきな気持ちのまま、ソファの前で足を組んで面白そうに画面に見入っていた。けれど答えてくれるひとはいなかった。彼女のまわりには硝子板のような沈黙があった。それはすべての音や笑い声を吸い取ってしまうような、絶対的な沈黙だった。彼女は組んでいた足を下ろし、こほん、と咳払いをした。その咳払いの音が部屋の端に落ちる音が聞こえるのではないかと思うほど、静かだった。

 あきらは青ざめ、震えながらテレビの前にいた。視線は空っぽで、目は大きく開いたままだった。胸を氷の塊に押しつぶされているみたいに、手足が冷たく、躰に力が入らなかった。彼は息をすることも忘れてしまったように、ただ吸い込まれるように画面を見つめていた。彼の暗い意識の底に父親と母親の顔が交互に現れ、らせんを描いて消えていった。



 花憐があきらの方に向き直り、静かに言った。
「ご両親は今、神戸にいるんでしょ?きっと生きてるわ」
あきらは暗い穴のような目で花憐を見つめた。彼女の輪郭が暗闇の中でにじんで見えた。彼女は少年の手を握った。手のぬくもりがゆっくりと伝わっていった。それはまるで氷の宮殿の中にそっとともされた灯のようだった。それは儚い炎だった。けれどあきらは全身全霊でその炎を必要としていた。その時、花憐だけがあきらをこの世界につなぎとめてくれるただ一人の人間だった。
 手に手を取り合って、子どもたちはいつのまにかソファで眠ってしまった。遠くから見ると彼らはまるで一組の人形のように見えた。由香梨は彼らを起こさないようにそっと毛布をかけてやった。妹夫婦が無事でありますように、そしてせめて夢の中ではあきらが苦しむことのありませんようにと彼女は祈った。




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