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Chapter 2. Vol.4 あきらとバゲット

はじめに


『黄昏のアポカリプス』という小説を書いております。
この作品は、フランス語学校に通っていた際の課題として提出した小説に加筆修正を加えたものです。
(詳しくはこちらの記事をどうぞ。→ノートに書かれた言葉は消えない。)

あらすじ


2030年以降、先進諸国では人体へのマイクロチップの挿入が法律により義務付けられていた。
犯罪率の激減、豊かで便利な生活。一見すると完璧なシステムに見えた。
しかし2050年、アポカリプスと呼ばれるコンピューターウィルスが発生し、
世界中がその脅威に晒されることになる。
片桐あきらは叔母の住むフランスに避難することになる。
フランスでの美しい生活と、日本に残した両親への想いで少年の心は揺れるのだが…。

これまでの物語


Chapter 1
プロローグ
Vol.1 アポカリプスの到来
Vol.2  片桐家の憂鬱
Vol.3 この現実はスイッチオフできない
Vol.4 僕もきっと壊れている
Vol.5 あきら、フランスへ行く

Chapter 2
Vol.1 あきらの旅立ち
Vol.2 答えのない問い
Vol.3 春の嵐

本編 Chapter 2. Vol.4 あきらとバゲット



あきらへ 

 元気ですか?フランスの生活はどうですか?
姉が送ってくれた写真を見ました。あきらは新しい生活にすっかりなじんでいるみたいね。となりの女の子はきっとかれんちゃんね。とてもかわいい!十年くらい前にド・ラ・シャペル家のみなさんが日本を訪れた時、あの子はまだ小さかったのよ。時が経つのってあっというまね!
 私たちはおじいちゃん、おばあちゃんが住んでいる神戸に引っ越しました。政府は密集状態を避けるようにと人々に呼びかけていて、そのせいでたくさんの人がいなかに移住しています。心配しないで。こちらでの生活はのんびりとしていて、しずかです。
 そうそう、このあいだ、高校の時の同級生に会ったのよ!学生時代にタイムスリップしたような、ふしぎな気持ちになったわ。彼女はとっても明るい人でね。こんな状況なのに、前向きで元気なの。ちょっとうらやましくなったわ。私たちも、希望を失わずにいなければいけないわね。 
 あきらも、時間がある時に近況を教えてね。ド・ラ・シャペル家のみなさんによろしく。フランスでの滞在がすばらしいものでありますように。
 
追伸 胃腸薬を飲むのを忘れないでね。おなかの調子が悪い時は温かい紅茶とバナナを忘れずに。
 
 お父さんとお母さんより


 一か月が過ぎた。春は日に日にその美しさをあらわにした。東京の空は電線やビルに遮られた四角な空だったが、フランスの空はぽっかりと広い。生まれたばかりの天使があちこちに光をふりまいているような、まばゆい空だ。そのくっきりと圧倒的なまでに青い空をマグノリアの花が飾っていた。

 花憐はあきらにフランス語を教えた。彼はかんたんな日常会話をすこしずつ習得していった。こんにちは、こんばんは、ありがとう、おやすみ、ごめんなさいといったような言葉からレッスンは始まり、やがてもっと複雑な会話へと発展していった。

 ある土曜日のこと、由香梨はふたりの子どもにおつかいを頼んだ。それは近所のパン屋でバゲットを買うという単純なミッションだったのだが、花憐はわざと少年をひとりで買い物に行かせた。家から歩いて5分ほどのところにあるその店の前まで少年を連れてくると、「がんばって」と言って彼女は姿を消してしまった。あきらは途方に暮れた。少年の手の中には、彼女が書いてくれた次のようなメモが残されていた。

《Une baguette, s’il vous plaît. (バゲットを一本ください)》

汗でじっとりと湿ったその紙をにぎりしめ、少年は店に向かった。



 昼前だったので店は混んでおり、たくさんの客でにぎわっていた。中には顔見知りの常連客もいるらしく、列に並びながらおしゃべりを始める者たちもいた。灰色の髪の背の高い男性と、今川焼きのようにふっくらと腹の突き出た中年の男性が大声で話していた。彼らの後ろに赤いワンピースを着た若い女性がいて、さらにその後ろにあきらが並んでいた。少年の後ろにはチョコレート色の肌をした恰幅のいい女性が、ただでさえ狭い店内に身を潜らせるように入り込んできた。その雑多な人々の中に紛れて、少年はぼうっとしていた。彼のまわりで言語が渦のように広がっていて、その渦の中で輪郭を失って消えてしまうのではないかと思われた。嗅覚を失った犬というのはこんな気持ちかもしれないと彼は思った。

 やっとあきらの番が回ってきた。彼の目の前にショートカットの中年の女性が立っており、《Que désirez-vous ? (何にしましょうか)》」とやや鋭角的な声で言った。少年はポケットの中のリモコンに手を伸ばしかけてやめた。そして例のメモを取り出し、そこに書いてある文を読んだ。店員の女性は眉をひそめ、怪訝そうな顔であきらを見て何かを言った。後ろで列をなしている人々の不機嫌な気配が、少年の背中のあたりに漂っていた。

 こんなときマイクロチップが使えれば、と彼は思った。マイクロチップがあれば、「なぜ店員の女性は怪訝な顔をしているのか」を即座に分析してくれ、「滑舌が悪くて聞こえなかったのかもしれない。もっと大きな声でくりかえしてみよう!」だとか「ほら、バゲットはそこにある。指さしてごらん!」などと示唆してくれるはずだった。けれどここではそれらの情報は与えられなかった。少年は仕方なく、にぎりしめていたメモを女性に見せた。彼女はそれをひったくるように受け取ると、ちらりと目を通したのちバゲットを少年に渡し、金額を伝えた。少年はポケットに入れておいた小銭を女性に渡し、逃げるように店を後にした。

 店から出るとあきらの膝は震えていた。どこからか花憐が現れ、ほがらかに言った。
「フランス語で買い物ができるなんてすごいじゃない!」
彼女はあきらの肩をかるくたたいて、彼をほめた。けれど少年が恐れていたのは、言葉が通じるかどうかという問題ではなかった。それよりも目の前にいる相手が何者なのかわからない、ということの方がずっと恐ろしかった。



 その日の昼、あきらが買ってきたバゲットは由香梨の手によって見事なサンドイッチに生まれ変わった。彼女は慣れた手つきでパンに切れ目を入れ、バターとマヨネーズを塗り、ハムときゅうりとゆで卵をはさんだ。
「おいしいでしょう。ちなみにマヨネーズは自家製よ」
由香梨は誇らしげに言った。

    実際、それはとてもおいしいサンドイッチだった。アポカリプスの到来以来、日本では廃棄寸前の食物をリサイクルして用意された配給食がメインだったので、あきらは新鮮なサンドイッチをここ数年見たことがなかった。バゲットの皮はパリパリで、そのくせ中身はふっくらとして、香ばしいバターとよく合った。塩気の強いハムは厚めに切ってあり、新鮮なきゅうりとゆで卵がその味を引き立てている。由香梨お手製のマヨネーズはほどよく酸味があり、濃厚だが重すぎず、それぞれの具にしっかりと絡み合っていた。あきらは夢中になって食べた。

「まだまだたくさんあるから、ゆっくり食べるといいわ」と伯母は言った。
ふだん食が細いあきらにしてはめずらしく、彼はその日サンドイッチを三つも食べた。心配していた胃腸炎は起こらなかった。




 その晩、あきらは例の日記に次のように書き記した。

2051年3月22日
 今日、パン屋さんにバゲットを買いに行った。
 かれんは、ぼくがひとりで行った方がいいと言ったので、はじめてひとり で買い物した。
 フランスだとマイクロチップが使えないって、ゆかりおばさんがこのあいだ説明してくれたから、わかっていたけど、やっぱり不安だった。
 パン屋のおばさんは、ちょっとこわかった。
 きんちょうした。
 でも、かれんはぼくのことをほめてくれた。
 あと、サンドイッチはすごくおいしかった。
 だから、まあ、いっか。
 いつかお父さんとお母さんがフランスに来たら、サンドイッチを食べさせてあげたいな。


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