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黄昏のアポカリプス Vol. 1 アポカリプスの到来



はじめに

この作品は、フランス語学校に通っていた際の課題として提出した小説に
加筆修正を加えたものです。
(詳しくはこちらの記事をどうぞ。→ノートに書かれた言葉は消えない。)

【注意】
本作品はコロナウィルスに関する小説ではありませんが、一部、それを連想させる描写があります。
もしコロナウィルスに関して不快な思いをお持ちの方がいらっしゃいましたら、本作品をお読みにならないことをお勧めいたします。


あらすじ

2030年以降、先進諸国では人体へのマイクロチップの挿入が法律により義務付けられていた。
犯罪率の激減、豊かで便利な生活。一見すると完璧なシステムに見えた。
しかし2050年、アポカリプスと呼ばれるコンピューターウィルスが発生し、
世界中がその脅威に晒されることになる。
片桐あきらは叔母の住むフランスに避難することになる。
フランスでの美しい生活と、日本に残した両親への想いで少年の心は揺れるのだが…。

これまでの物語

Chapter 1
プロローグ


本編 Vol. 1  アポカリプスの到来


2050年3月13日 メキシコシティ
 
 ホセ・サンチェスの頭は割れんばかりに痛んだ。まるで誰かが硝子の破片で脳みそをえぐりとろうとしているみたいだった。3月のあたたかい風が鼻先をくすぐり、かぐわしい花の香りを運んできたが、それもなぐさめにはならなかった。昨晩羽目を外しすぎたせいだろうか。悪夢のように痛む頭に加え、腰の骨はきしきし鳴り、ふくらはぎはこむら返りを起こしそうだ。ホセは頭を振り、シャワーを浴びて清潔な服に着替えると、気だるげな足取りで通りのカフェを目指した。365日変わらぬ朝の習慣を欠かすわけにはいかない。

 いつものカウンター席に腰を落ち着けると、店の奥から店主のミゲルが現れた。もじゃもじゃの黒い髪とぶあつい胸板、腕にまで密生している毛。垂れ下がったふとい眉毛の下できらめいている小さな目。どことなく愛想のいいヒグマといった趣だ。いつものだろうと言いかけて、ミゲルは顔を曇らせた。
「おい、どうした。顔色が悪いぜ」
「いや、たいしたことじゃない。ここのところ頭痛がひどくてね。すまないが水を一杯くれないか」
ホセはこめかみのあたりを押さえながら答えた。
「お前さん、もう60になるんだろう。若いやつらみたいに無理しちゃいけないよ」
ミゲルは硝子のコップに水を注ぎ、テーブルに置いてやった。ホセはひと息で飲み干した。
「そりゃね、昨晩ダンスホールに行ってちと踊ったさ。テキーラだってしこたま飲んだ。でも愉しむのに年齢は関係ないだろう」
ホセはむっとして答えた。それからふと、
「なんでそんなことまで知ってるんだい?」と尋ねた。
「馬鹿だなあ、マイクロチップを挿入してから何年経つんだよ」ミゲルは笑って言った。
ミゲルの視界に、ホセに関する最新の情報が次から次へと現れる。何時に誰とダンスホールに行き、何ペソの飲物を頼んだか、何時に帰宅したのか。それは空中に書かれた文字と同じように、誰にとっても自明のことだった。しかしマイクロチップ制度が導入されてから18年も経つというのに、ホセは未だにこの奇妙な物体に慣れることができなかった。
「それにしても、本当に顔色がよくないぜ。悪いことは言わないから、医者に行きなよ」
ミゲルはぶあつい手でホセの肩に触れた。ホセは力なく頷き、おぼつかない足取りでカフェを出た。

 病院で診察を受けた後、ホセ・サンチェスがそのカフェに現れることは二度となかった。自宅への帰り道がわからなくなり、ふらりと消えてしまったのだ。行方不明になってから1週間後、彼の死体が12678 ㎞離れたパプアニューギニアの首都ポートモレスビーで発見された。飛行機に乗った形跡はない。それもそのはずで、警察の調べによると彼のマイクロチップからすべてのデータが消失していたのである。きれいさっぱり、跡形もなく。専門家は、かなり特殊なかたちのコンピューターウィルスによるバグであると判断した。このニュースはメキシコシティではちょっとした騒ぎになったが、世界中の大多数の人々に知られぬまま闇に葬られた。



同年6月28日 ソウル

 キム・アユンは衣装の最終チェックに余念がなかった。彼女の所属するアイドルグループアンジュ・Bはワールドツアーの最終日を迎え、故郷ソウルで有終の美を飾ろうとしていた。本番まであと2時間。どんなステージでも気を抜くことは許されない。

 枯れ枝のような腕をステージ衣装に通し、背中のチャックを締める。もともと華奢な躰はこのツアー中にさらに痩せてしまったようで、服の中でゆうに泳ぐ。これはタオルを巻かなきゃダメねと、彼女はつぶやく。そうね、それからメイクも直しておかなくちゃ。彼女は鏡の前に背筋を伸ばして座った。

「この間は衣装係のせいでとんでもない目にあったわ」
ピンク色のラメをまぶたに塗りながら、彼女はひとりごちだ。
「わたしのイメージカラーはピンクだって世界中のファンが知ってるのに、オレンジを用意するなんて信じられない。なんて馬鹿なのかしら」
でも。ふとメイクする手を止めて彼女は考えた。あれが単なるミスではなく、わざと間違えたのだとしたら?だって衣装係のソジュンはこの道15年のベテランだもの。彼があんなポカミスをするなんて変だと思ったのよ。もしかしたらアンジュ・Bの成功を妬む誰かに脅迫されたのでは?でも、一体誰に?

 そこまで考えると彼女の頭は激しく痛み始めた。まるで気の狂った誰かが彼女の躰をハックし、脳みそをひっかきまわしているみたいに。キム・アユンは気を失い、その場に倒れた。

 彼女は直ちに緊急病院に搬送された。手厚い看護にも関わらず、3日後、22歳という若さで亡くなった。解剖の結果、マイクロチップのデータがすべて消えていることが判明した。ところがそれだけでは終わらなかった。彼女の看護に携わった医療関係者全員のデータも消失していたのである。病院内は騒然となった。アンジュ・Bのメンバーはもちろん、家族、友人、芸能事務所の関係者、世界各地のライブに参加したファンにも徹底した検査が行われた。その結果、彼女と何らかのかたちで接触したすべての人間に以下のような兆候が見られることがわかった。

1.激しい頭痛、めまい、吐き気、高熱などの症状
2.自分や近親者の名前と顔を思い出せないといった記憶障害
3.抑うつ状態、希死念慮、被害妄想、あるいは他者への激しい攻撃性

 そしてこれらの段階を経た人々は例外なく死を迎えた。

 国際的なアイドルグループアンジュ・Bのメインボーカルが22歳の若さで亡くなったということ、そしてライブを観に行った世界中のファンが保菌者である可能性があること。人々がパニックに陥るのには十分すぎるほどのニュースだった。このニュースにショックを受け、自力でマイクロチップを取り除こうとする者まで現れた。しかし彼らは感染症や記憶障害といった問題を起こし、命を落としていった。以来、医療免許のない者のマイクロチップ除去の試みは法律で厳しく禁止されるようになった。



同年7月15日 東京
 それはとてもすがすがしい夏の朝だった。空は青い鏡のようにくっきりと澄んでいて、そこに絵筆で描いたような雲が浮かんでいた。そこかしこからシャワーのように降り注ぐ蝉の声は、これから訪れる素晴らしい夏を予告しているみたいだった。

 都立青葉小学校では、いつものように朝礼が始まろうとしていた。校庭にぎっしりと並んだ全校生徒の瞳は、ステップを踏んで朝礼台に上る校長のぴかぴかした革靴に向けられていた。彼はロマンスグレーの髪の毛をオールバックにし、いつでもぱりっと糊のきいた上質なスーツを着こなしていた。物腰は王者のように優雅で、話す声は低くてソフトだった。生徒たちの登下校の際には「ゆうきくん、おはよう」「えれなちゃん、さようなら」という風に一人ひとりにあいさつをした。そういうわけで、生徒たちはもちろん教師や保護者もみな彼に好意を抱いていた。彼は子どもたちからひそかに「ジェントル景山かげやま」と呼ばれていた。




「青葉小学校の良い子のみなさん、おはようございます」と校長が言った。おはようございますと、生徒たちもあいさつを返した。
「本日国際連合本部より重大なお知らせがあります。全員、マイクロチップをオンにしてください。低学年のみなさんは『お子様モード』を選んでください」

生徒たちはもぞもぞと動き出した。各クラスの担任教師は全員分のマイクロチップがオンになっていることを確認し、校長に向かって頷いて見せた。それから、静寂。耳が痛くなるほどの沈黙。わざとらしいほどの厳かな空気。そして突然ハイジャックされたラジオ局のように、その場にいた全員の耳元にニュースが流れ込んだ。

「ピンポンパン。国際連合本部のチャンネルへようこそ」とAI音声が告げた。
「国民の皆さま、おはようございます。2050年7月15日付けで決定した、国連本部の公式発表を行います。なお、この放送は同時通訳して世界各地にお届けしております。
今年3月、メキシコシティで世界初のマイクロチップのバグが認められました。以来、それは世界各地に飛び火しています。これらのバグはコンピューターウィルスによって起こり、感染する可能性があります」
生徒たちがざわめき始めた。しー、しーと、それを制する教師たちの声が聞こえてきた。蝉の声がいっそう騒がしくなった。校長は眉一つ動かさず「静粛に」と告げた。そこでまた校庭が静まり返った。

「コンピューターウィルスが現れた経緯は不明で、人為的なものか自然発生的なものなのか、未だ判明していません」とAI音声は続けた。
「事態が収束するまで、パニックが予測されます。国民の皆さまにおいては、平常心を持って事態に取り組み、お互いに思いやりのこころを持ってご協力いただきますよう、お願い申し上げます」

教師たちは顔を見合わせた。一体、何が起こるというのだろう。彼らの頭上で雲がゆっくりと西の方へ移動しようとしていた。その影が校庭を音もなく横切っていった。都立青葉小学校は不気味なほどの静寂に包まれていた。
AI音声は次のように続いた。

「国際連合本部およびWHOは、以下の通達を行います。

  1. テレビ・コンピューター・電子レンジ・携帯電話などの電子機器の使用を一切禁止する。

ただし国家認定のエンジニアは、職務での使用に限りパソコンの操作が認められる。

2.マイクロチップを就寝時にオフにすることを推奨する。ただし24時間以上オフにした場合には、個人情報確認のため警告が与えられる。48時間以上オフにした者は死亡したとみなされ、各国家のデータより削除される。

3.各企業・教育機関・商業施設においては、マイクロチップの使用なしに施設の利用が可能となるようシステムを改めること。

4.各企業および教育機関の労働・授業時間の削減を推奨する。

5.不要不急の外出を控えること。なお夜間20時以降の外出を禁止する。

6.6歳以下の乳幼児、身体の不自由な者、高齢者の単独での外出は控えること。

7.緊急時以外の海外への渡航を厳しく禁止する。

8.マイクロチップシステムに支障のある者を発見した際には、直ちに当該機関に申し出ること。

 なお、上述の者から身体的攻撃を受け、やむを得ず応戦した場合には正当防衛と見做される。

以上の緊急発令に違反する者は、100万円以下の罰金、または3年以下の懲役義務を伴います」

 ピンポンパン。そこで放送は終了した。


 一瞬の沈黙。それから、ポップコーンが爆ぜたみたいに学校中にわっと音があふれた。興奮して叫ぶ声、ひくひくと泣き出す声、静かにと怒鳴る教師の声。運動会と学芸会とクリスマスをぜんぶ一緒くたにしてシェイクしたような騒ぎだった。

「みなさん、落ち着いてください。静かに、静かにしてください」
さすがの校長も全校生徒のパニックを前に苦戦していた。実を言うと大多数の生徒たちは今の放送が何を意味しているのか、はっきりとわかってはいなかった。ただ、何かただならぬことが起きているらしいということを察知してはいた。嵐の前兆を感じて騒ぎ立てる鳥たちのように。
「私が10を数えるあいだに静かにしてくれないと、おそろしいことが起きますよ」と校長は厳かに言った。
生徒たちのどよめきは収まらない。それでも彼がカウントダウンを始めるとざわめきはそろそろと静かになっていき、しまいには完全な静寂が訪れた。校長は微笑んだ。
「大変よろしい。それでは、みなさん。今日は授業がありませんが、一度教室に戻ってください。担任の先生から渡すものがあります。その後、同じ学区内のお友達同士でグループにわかれて下校してください」
ジェントル景山こと校長はそう言い残すと、踵を返して校舎の方へと歩いていった。


 生徒たちが教室に戻ると、全員に灰色のナップサックが支給された。それは道具箱がすっぽり入るくらいの大きさで、中には真空パックされた食物と、薬の瓶が入っていた。薬瓶のラベルには「V-EPR」と記されており、中には赤い錠剤がぎっしり詰まっていた。各教室の担当教師は、配布物について次のように説明した。

配給食はいきゅうしょく
 工場こうじょうなどでてられた食品しょくひんをもとにつくられた、合成食ごうせいしょくです。
 4人家族かぞくが1か月生活せいかつできるくらいのりょうです。

元気げんきくすり 
 気持きもちがあかるくなり、こころがくおくすりです。1日3じょうみましょう。

 子どもたちは小さな躰にちょこんとナップサックを背負い、グループにわかれて下校した。それぞれのグループには教師やボランティアで参加した保護者がひとりずつ配置された。子どもたちはほんのりと遠足気分で、きゃらきゃらと笑いながら帰路に着いた。


 国連の通達にも関わらず、政府は社会システムを突然覆すわけにはいかなかった。コンビニエンスストアの自動ドアでさえマイクロチップによって作動しているご時世なのだ。そうしたシステムをすべて破壊し新しいものを築き上げるには、莫大な時間と費用が必要になる。大多数の企業や商店が古いシステムに留まることを選んだ。それは日本だけではなく、マイクロチップ制度を導入したいずれの国も同様のようだった。

 夜になると、街には文字通りねずみ一匹いなくなった。空はパトロール隊のヘリコプターの放つ赤い光で覆われ、星も月も厚い雲に隠れていた。ピラミッド型の巨大なショッピングセンターが立ちはだかり、無人の通りにけばけばしいひかりを投げかけていた。電光掲示板からは神の啓示のようにメッセージが降り注いでいた。
マイクロチップで、あなたの生活をもっと便利に

 生活のあらゆる場面に、偽造された平和の匂いがペンキのようにしみついていた。スーパーマーケットに、駅の待合室に、学校への道中に。誰もかれもが上機嫌で死への道を行進していた。世界はゆっくりと窒息していた。


 いつのころからか、ウィルスは『アポカリプス』と呼ばれるようになった。


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