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Chapter 2 Vol. 1 あきらの旅立ち

小説『黄昏のアポカリプス』というものを書いております。
ご興味ありましたら、ぜひ。

あらすじ

2030年以降、先進諸国では人体へのマイクロチップの挿入が法律により義務付けられていた。
犯罪率の激減、豊かで便利な生活。一見すると完璧なシステムに見えた。
しかし2050年、アポカリプスと呼ばれるコンピューターウィルスが発生し、
世界中がその脅威に晒されることになる。
片桐あきらは叔母の住むフランスに避難することになる。
フランスでの美しい生活と、日本に残した両親への想いで少年の心は揺れるのだが…。

これまでのストーリー

Chapter 1
プロローグ
Vol.1 アポカリプスの到来
Vol.2  片桐家の憂鬱
Vol.3 この現実はスイッチオフできない
Vol.4 僕もきっと壊れている
Vol.5 あきら、フランスへ行く

本編 Chapter 2 Vol. 1 あきらの旅立ち



 アポカリプスのことなど忘れてしまったみたいに、朝がふたたび訪れた。それは灰色の日々のすきまを縫って訪れた、きっぱりと美しい朝だった。青くはりつめた空を白い鳩が飛んでいった。こぶしの枝はやがて訪れる春に向かって背伸びをしていた。

「あきら、準備できた?そろそろ行くわよ」江梨子が玄関口から呼びかけた。
「はーい」あきらは答えた。その声は遠くからくぐもって聞こえてきて、自分の声じゃないみたいだと少年は思った。

 彼はまるで知らないうちに用意された映画のシナリオを演じているように感じていた。おそらくは久しぶりに見た太陽のひかりのせいかもしれない。それはあまりにも白く眩いひかりで、物事の遠近感を失わせるには十分すぎるほどだった。右手のスーツケースの重みが、かろうじて少年を現実と結びつけていた。母親は左手にお土産を入れた紙袋を持ち、右手で少年の手をひっぱっている。彼女の青い小花柄のワンピースが風に揺れている。父親はとっくに車の中でスタンバイしていて、すこしだけ開けた窓から煙草の煙をくゆらせている。ねえ、忘れ物はない?という母親の声が幾千回となく繰り返される。この現実が引き延ばされて、エンドレスリピートされている。ぼくはどんなせりふを言えば場面転換できるのだろう。少年はぼんやりとそのようなことを考えていた。



「あら、片桐さん。おはよう」
少年の夢想はふいに打ち破られた。声の主は隣人の新井という人物だった。焼きたてのホットケーキのようにふっくらした、50代くらいの女性だ。ひとの好さそうなまるっこい瞳とすべすべした桃色のほほのためか、いかにも善良そうな人物に見えた。あいさつを交わす程度だったが、あきらはこの女性が好きだった。
「今日はいいお天気ね。あら、旅行?」
新井はあきらの手にしたスーツケースと江梨子の外出着をしげしげと見て言った。
「ええ、まあ」江梨子は曖昧にうなずいた。
「そうね、こんなご時世だもの。たまには気分転換にぱーっと出かけるのもいいかもね」
新井はにこにこして言った。
「それにしても、片桐さんのところ、そんな大きな息子さんいらっしゃったかしら?」
彼女は濁った瞳でぼんやりとあきらを見た。江梨子とあきらは顔を見合わせた。片桐家がその街に越してきてから少なくとも1年は経つ。新井はその間に何度もあきらと話している。あきらが来年中学に入学するのだと言うと、合格祝いにとセーターをプレゼントしてくれたことさえあるのだ。「息子のおさがりだけどごめんね」と言って。

あきらは新井が冗談を言っているのかと思った。けれど彼女は大真面目だった。痴呆症の心配をしなければいけない年齢でもないはずだった。それなのに、彼女の脳からあきらに関する記憶だけがすっぽりと抜けてしまっているらしかった。その空白が意味することはひとつしかない。つながれた江梨子の手に力が入るのがわかった。あきらは母親を見上げた。
「か、か、か、カタギリさん…カマキリさん…りょこ、りょこここ、いいわね、い・い・い・いまなんじ?」

新井は ―それをまだ「新井」と呼ぶことが出来るなら― 片桐親子に向かってゆっくりと歩いてきた。そこにはもう「新井」と呼べる人物は残っていなかった。彼女という人間を構成していたピースが、急に糸が切れてばらばらになってしまったみたいだった。左目と右目はてんでばらばらに好き勝手な方を向き、紫色の舌がだらりと口から垂れ下がっている。かえるのような白い腹がセーターから覗いており、今にも内臓が飛び出しそうだ。それは愚鈍な象みたいに、ずしん、ずしんと音を立てて近づいてくる。江梨子はとっさに目をつぶり、あきらを抱きしめた。



 その時、正人が車から飛び降り江梨子とあきらの手をひっぱって車に乗せた。そしてギアを入れると思い切りアクセルを踏み、ものすごい速度で車を走らせた。
「江梨子、あきら、大丈夫か?」運転席から正人が尋ねた。
「お父さん、今の…」
バグだよ。絶対に後ろを振り向くな。しっかり掴まってろよ、飛ばすからな!」
父親はさらに強くアクセルを踏み込んだ。車はますます加速していく。メーターはとっくに振り切れている。東京の街並みがぐんぐん遠ざかっていく。あきらの心臓はモーター音と連動して激しく踊っている。最後にもう一度なつかしいわが家を見ておきたいという思いに囚われたが、父親の言葉を思い出して姿勢を正した。それにあきらの小さな手はしっかりと母親の手につながれていて、どのみち体勢を変えるのは難しそうだった。


 江梨子はあきらの手を固く握りしめたまま、まっすぐ前を向いていた。兎のような瞳に力をたたえ、にらみつけるように前方の景色を見つめている。まるで怒っているようにも見えた。実際、彼女は腹を立てていたのかもしれない。何に対して?―すべてに対して。アポカリプスに対して、びくびくしながら暮らさなければならないことに対して、みじめな配給食に対して、夫から笑顔を奪ったくだらないエンジニアの仕事に対して、善良さを装いながら内部ではとっくにこわれていた隣人に対して(バグに感染したのは新井の責任ではないにせよ)、とっさに足がすくんで動けなくなってしまった自分に対して、そしてあきらだけがフランスに行くという運命に対して。

 なぜ神様はこんな容赦ないシナリオを突きつけるのだろう、と彼女は胸の中で考えた。あきらはまだ12歳なのに、たったひとりでフランスに行くなんてどんなにか心細いだろう。残された夫と私はどうなるのだろう。このまま黙ってバグの餌食になるのを待つしかないのだろうか。一生懸命に生きてきたつもりだったのに、その結果がこれだなんて、―そこで彼女はこぼれ落ちそうになる涙を拭うためにあきらの手を一瞬放したが、またすぐに握り直した ― いえ、こんなところで泣いてはいられない。たとえ遠く離れていても、わたしがあきらを守ってみせる。江梨子はふたたび前方を見据えた。車がトンネルに入り、ぼやけたオレンジ色のひかりが三人を照らした。それはまるで洗礼の儀式のように親子を包み込んだ。



 一時間後、車は成田空港に到着した。片桐家は車を駐車場に残し、54階に向かった。巨大な建物の内部はどこもかしこも磨き上げられ、ひとの顔が映るくらいに床はぴかぴかだった。高級ブティックやレストラン、土産物店などが軒並みフロアを埋め尽くしていたが、そのどれもが無人だった。2、3体の掃除マシーンが静かに働いているほか、人影はほとんどなかった。館内アナウンスは不要な旅行を避けるようにと繰り返し叫んでいた。
 搭乗カウンターもやはり無人だった。アポカリプスの到来以来、空港の利用客は無に等しく、多くのキャビンアテンダントが辞職していった。そこで政府は数少ない旅行客に向けて自動チェックイン機による搭乗手続きを推奨するようになった。マイクロチップのバグを避けるための対策としてはもちろん矛盾だらけの対応だったが。

 あきらの搭乗手続きはあっけないほどシンプルだった。右手の甲のマイクロチップを専用の機械にスキャンさせ、ビザ付きのパスポートと必要書類を読み込ませ、大きなスーツケースをレーンに預けるだけだった。手続きには一時間もかからなかっただろう。

 時刻は11時15分前だった。片桐家の人々は、その清潔で静かなフロアに佇んでいた。少しコーヒーでも飲んでいこうかという言葉が宙に浮かびそうなほど人気ひとけがなかったので、彼らはどのように時間を潰していいかわからなかった。彼らは長い間旅行をしていなかったので、次の便の出発時間を告げるアナウンスとか、時折窓辺に見える飛行機の優雅な機体とか、ロビーでただぼんやりする時間などといった空港に付随する景色をすっかり忘れていたのだった。



「ほら、あきら。飛行機の中で食べなさい」
江梨子は先ほどから手にしていた紙袋をあきらに差し出した。中にはプラスチックの弁当箱と菓子折りが入っていた。
「あきらの好きな卵焼きとおにぎりのお弁当よ」と江梨子は言った。
「うわあ。すごい!どうしたの、これ?」あきらは目を輝かせて言った。
江梨子は微笑んだ。それから声をひそめて「合成食じゃなくて、本物のお米と卵で作ったのよ。お父さんのツテで手に入ったの」と言った。
「そっちの箱はフランスの皆さんに渡してね。桜餅よ。和菓子屋さんが開いてないから、昔のレシピ本を引っ張り出して作ったの。気に入っていただけるといいんだけど」

あきらは紙袋の中のそれらの食べ物をしみじみと眺めた。それは小さい頃に見た、デパートの屋上にあるレストランの食品サンプルに似ていた。明るくつややかな卵焼きの黄色。ぱりっと香ばしい海苔を巻いた昆布のおにぎり。塩漬けの桜の葉にくるまれた、やわらかな桃色の桜餅。このような食べ物を、あきらは長い間目にしていなかった。それはまるで手品のように突然現れて、今、紙袋の中にきちんとおさまっているのだった。それは食べてしまうにはあまりにも惜しいように思われた。

「お母さん、ありがとう。大事に食べるよ」とあきらは言った。
江梨子は涙ぐんだ。
「心配しないで。きっとうまくいくわ。それから、あまりストレスを溜めないようにね。お腹が痛くなったら、温 かい紅茶とバナナよ」
このアドバイスは、去年あきらが胃腸炎にかかった時に医者から忠告されたことだった。それ以来、母親は魔法の呪文のようにこの言葉をくりかえすのだった。少年は頷いた。
「元気でね」
江梨子はすこしかがみこむようにして、あきらの目を覗き込んだ。彼女の目にみるみる涙があふれてきた。母親はまるで笑い出そうとするみたいに唇をゆがませたかと思うと、しゃがんだままの姿勢で息子を強く抱きしめた。髪の毛からバニラの香りがした。あきらは自分の肩のあたりが温かく湿ってゆくのを感じた。

正人はすこし離れたところに立ってふたりの様子を見守っていた。ジーンズのポケットに手を突っ込んで、革靴を履いた足をぺこぺこと地面に打ち付けている。好きな女の子にどう想いを告げようかとなやんでいる青年のように見えた。江梨子があきらから躰を話すと、入れ替わるように正人がやってきて、あきらの肩をそっと叩いた。

「俺たちのことは心配しなくていい。体に気をつけろよ。それから、フランスで楽しんで来いよ!」
父親はほんの少し口の端を持ち上げてみせた。どうやら微笑んでいるつもりらしい。きっとお父さんはどうやって笑えばいいか忘れてしまったんだろうな、とあきらは思った。ぼくがいない間に笑い方を思い出してくれるといいんだけど。

 あきらは迷子の子犬のように両親を代わる代わる見つめた。その時、次の便への搭乗を告げるアナウンスが聞こえた。
「いってらっしゃい」
母親は少年の背中を優しく押した。あきらは押されるようにして一歩を踏み出した。搭乗口に入る前に、彼は振り返ってもう一度両親の方を見た。彼らは大きく手を振った。 息子の小さな姿が見えなくなるまで、彼らはずっとそこにいた。



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