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黄昏のアポカリプス Vol.2片桐家の憂鬱


あらすじ

2030年以降、先進諸国では人体へのマイクロチップの挿入が法律により義務付けられていた。
犯罪率の激減、豊かで便利な生活。一見すると完璧なシステムに見えた。
しかし2050年、アポカリプスと呼ばれるコンピューターウィルスが発生し、
世界中がその脅威に晒されることになる。
片桐あきらは叔母の住むフランスに避難することになる。
フランスでの美しい生活と、日本に残した両親への想いで少年の心は揺れるのだが…。


これまでのストーリー

Chapiter 1
プロローグ
Vol.1 アポカリプスの到来

本編 Vol.2片桐家の憂鬱

2051年2月 東京

 ある土曜日の朝のことだった。
片桐家の人々はそれぞれの作業に没頭していた。父親の正人まさとはパソコンの画面を睨みながらせわしなくマウスをクリックしている。母親の江梨子えりこは本を読み、あきらは自分の部屋で宿題をしていた。窓の外の空は灰色で、ときおり木の葉が風に吹かれてかさこそと過ぎ去っていくほか何も見えなかった。時は憂鬱な二月の魔法にかかって、前に進むことを忘れてしまったようだった。


 テーブルの上の硝子の花瓶にはアネモネの花が活けてあった。それは江梨子が散歩中に見つけたものだった。いまどきめずらしい、天然自然の花だ。淡いピンクの花びらは夢見るように天井を見上げている。その隣に赤い錠剤の詰まった小さな瓶が、花の影に隠れるように佇んでいた。 

 江梨子は夫の邪魔にならないようそっと立って珈琲を淹れに行き、カップを彼の手元に置いた。珈琲は今や一般市民には手の届かない贅沢品だ。正人は顔を上げず「ありがとう」と言った。目は相変わらず画面を追っている。画面には東京都全域のライブ映像が流れており、ところどころに赤い点が点滅している。画面右側には『本日のバグ数』が記載されている。正人はすばやくマウスを移動させ、赤い点をクリックした。『削除成功』というテロップが流れ、『バグ数』の表記が一人減少した。


「俺のひいひいじいさんの時代には、生身の人間が戦場に行ってドンパチやってたんだって。地雷なんて踏んじゃった日には大変だったみたい」
「へえ、そうなの。映画で観たことあるわ」江梨子は気のない返事をした。「今じゃ自宅からワンクリックでバグ狩りできる時代だぜ。信じられないよな」 
正人は相変わらず画面から目を離さずに言った。 
江梨子は何と言っていいかわからず、黙ってほほえんだ。それから本を顔の前に持ってきて、隠れ蓑の中にいるみたいにそっと夫を盗み見た。正人は煙草のヤニで汚れた歯の隙間から、よどんだ息をせわしなく吐いている。昔飼っていた猫が死ぬ直前にしていた息みたいだと江梨子は思う。時折、彼女は誰と一緒に暮らしているのかよくわからなくなった。


 アポカリプスを境に夫は変わってしまった。独身時代の正人は将来を期待されたエンジニアの卵だった。大学の同級生を介して初めて正人と知り合った時、なんだか小説に出てくる探偵みたい、と江梨子は思った。彼はほっそりとした躰を黒いコートに包み、時代遅れの丸眼鏡をしていた。指の長い手はピアニストのそれのようだった。物腰は丁寧で、低くよく通る声で話した。笑うと眼鏡の奥の瞳がうんと細くなって、あくびをしている猫のような顔になった。江梨子は彼の仕事の話を熱心に聴いた。これといった情熱を持ち合わせない江梨子にとって、彼の言葉は異国の音楽のようだった。


 結婚してから五年後、あきらが生まれた。自分たちはもう若くはないのだとその時ふたりは悟った。それはまた、恋人時代の気楽な生活が終わることも意味していた。父親と母親になるという作業は、彼らにとってまるで突然コンサートホールで『マタイ受難曲』を演奏しろと言われているようなものだった。即興の楽譜とありあわせの楽器でいますぐそれを奏でなければならないのだ。あちこち不揃いな音符、金切り声を上げるバイオリン、でっちあげのハーモニー。だから自分たちがどこか親らしくないとしても仕方ないことだとふたりは思っていた。それでも彼らはこの新しい任務に精一杯取り組んだ。特に江梨子は子育てにすべてを注いだ。自分の躰の中のどこにこんなエネルギーが湧いてくるのだろうと思うほど、来る日も来る日も、ただあきらのことだけを考えた。あきらに降りかかるだろうどんな小さな災難も、想像するだけで江梨子の胸は傷んだ。寡黙な父親と涙もろい母親に守られて、あきらはおとなしい白猫のような子どもに育った。 



 2050年にアポカリプスが到来すると、正人は国家公認のエンジニアに任命された。というと聞こえはいいが、俗にいう『清掃屋』で、バグを起こした人間を探知・処理することがおもな仕事内容だった。ともあれ彼のキャリアにとっては信じがたい昇進だった。年収は三倍に跳ね上がり、一家は東京都内に一戸を構え、あきらは私立の有名中学に入学することが決まった。しかし生活が豊かになるのと反比例するように、正人は生気を失っていった。煙草の量が増え、目はどんよりと濁り、無精ひげが暗い森のように顔を覆うようになった。

 そんなにつらいならやめてもいいと、江梨子は何度となく夫に言った。あなたは仕事を辞めて、エンジニアとして一般の企業に再就職すればいい。私はパートタイムのアルバイトだってなんだってするから、二人で働けばあきらの学費ぐらい払えると。馬鹿言うなよと、正人はそのたびに乾いた声で言うのだった。



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