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黄昏のアポカリプス Vol.3この現実はスイッチオフできない。

この作品は、フランス語学校に通っていた際の課題として提出した小説に
加筆修正を加えたものです。
(詳しくはこちらの記事をどうぞ。→ノートに書かれた言葉は消えない。)
ご興味がありましたら、ぜひ。

【注意】
本作品はコロナウィルスに関する小説ではありませんが、一部、それを連想させる描写があります。
もしコロナウィルスに関して不快な思いをされる読者の方がいらっしゃいましたら、本作品をお読みにならないことをお勧めいたします。


あらすじ


2030年以降、先進諸国では人体へのマイクロチップの挿入が法律により義務付けられていた。
犯罪率の激減、豊かで便利な生活。一見すると完璧なシステムに見えた。
しかし2050年、アポカリプスと呼ばれるコンピューターウィルスが発生し、
世界中がその脅威に晒されることになる。
片桐あきらは叔母の住むフランスに避難することになる。
フランスでの美しい生活と、日本に残した両親への想いで少年の心は揺れるのだが…。

これまでの物語


Chapiter 1
プロローグ
Vol.1 アポカリプスの到来
Vol.2  片桐家の憂鬱


本編 Vol.3この現実はスイッチオフできない。

「いつかこれが全部終わったら、タヒチにでも行こうか。ぱあっと」

正人の声が江梨子を現実に引き戻した。彼女は読みかけの本から顔を上げた。

「金ならあるんだ。人を殺してもらった金だけど、使わなかったら罰が当たるだろ?」

マウスをクリックする手を止めずに、正人は話し続けた。彼は指先が白くなるほど力を込めてマウスを連打している。テーブルが小さく揺れ、薬の小瓶がかたかた鳴った。画面には『削除成功』と『バグ出現』の文字が交互にせわしなく現れる。それがいつ、どこに現れるのかは予測不可能だ。全国各地に配置された60000人のエンジニアたちは文字通り不眠不休でバグと戦わなければならない。とはいえ彼らも人間である以上、休息が必要である。しかし正人は自分が休んでいる間にバグが起こるかもしれないと思うと気が気でなく、土日もパソコンを家に持ち帰って仕事をしているのだった。 

 もちろん最新の技術を駆使すれば、― 例えばAI機能を使ってターゲットを特定すれば―、 広範囲に渡るバグを一撃で仕留めることは可能である。しかしその機能でさえもバグに感染する恐れがあるため、結局は手動でひとつひとつ削除していくしかないのだった。 波がすこし収まってきたようだ。画面の向こうの赤い点は点滅するのを止め、東京都はふたたび冬の海のような静寂を取り戻した。正人は長いため息をつき、珈琲カップを手に取った。珈琲はとっくにぬるくなっていて、彼の口になんともいえない苦味を残した。



「お疲れ様」と江梨子が言った。
正人は物憂げに目玉だけ動かして江梨子を見ると、背もたれにもたれかかって天井を見上げた。染みひとつない真っ白な天井に、冬の朝のひかりが淡い影を投げかけていた。片桐家のリビングルームは、まるでそこだけ天国の片隅みたいに静かだった。
「このあいだ、神崎がバグったよ」
正人がぽつりと言った。それはとても小さな声だったので、ほとんど独り言のようだった。江梨子はぼんやりしていて、それが何を意味するのかよくわからなかった。やがてカンザキという音が彼女の脳内で神崎文哉かんざきともやと結びつき、煙のようにあやふやな記憶の中にその人物の輪郭が浮かび上がった。


「神崎さんって、あなたの同僚の…」

江梨子が言い終わるより先に、マイクロチップによる情報が脳内に素早く提供された。

  •  氏名 : 神崎文哉かんざきともや

  •  生年月日 : 2008年8月8日

  •  2050年1月15日 没 (享年41歳)

  •     死因 : コンピューターウィルスによるマイクロチップの不具合

  •   職業 : 国家公認エンジニア

  •     備考 : K大学理工学部出身。片桐正人とは大学時代からの同級生。

天井を見上げていた正人の目玉は急にぐるりと江梨子の方に向き直った。白眼の部分が黄色く濁って血走っている。顔面からとびだしそうな目玉で、正人はじっと江梨子を見つめている。ひび割れた唇から絞り出すように正人は言った。

「俺、あいつを処理したんだ」
その言葉を発するのに彼は100年分のエネルギーを使い果たしてしまったみたいだった。廃人のように手足をだらりとさせ、目を大きく開けたまま、彼は話し続けた。

「あいつは記憶を失って、俺の顔もわからなくなっていた。あの日職場に着いたら、顔を合わせるなり『どちらさまですか?』って言うんだ。はじめは冗談かと思った。『おい、やめろよ』って俺は言った。でもあいつはただにこにこして俺を見てるんだ。昼休みになって、神崎は急に頭痛を訴えた。そりゃあすごい苦しみ方で、地面の上をごろごろ転がりまわってさ。見てられなかった。マイクロチップがバグってるのは明白だった。上司が俺の方を見て合図した。それで、俺は…」

正人は声を詰まらせた。それから後は言葉にならなかった。彼は動物のように呻いた。顔に手をうずめ、小さな子どもがいやいやをするみたいに何度も首を振った。奥歯を噛みしめ、握りしめたこぶしで自分の頭を叩き、まるで彼自身が神崎の痛みに耐えているようだった。




「ねえ、あなたのせいじゃないわ。だってあなたは職務を全うしたんですもの。そうでしょう?」
江梨子は子どもをあやすように、夫を優しく抱きしめた。正人は嘘のようにおとなしくなり、江梨子の肩にくたりと頭をもたせかけた。
「わたしだってあなたの立場だったらきっとそうしていたと思うわ。さあ、お薬を飲んで、元気を出して」
彼女は赤い錠剤の詰まった瓶を夫の手に握らせた。薬瓶はじゃらりと音を立て、正人の手の中で重く沈んだ。彼は硝子玉のような目でしばらく瓶を見つめていたが、やがて聞き取れないほどの声で言った。

「俺はいつか地獄に行くと思う」
それから薬瓶をいきなり部屋の隅に向かって全力で投げつけた。その拍子に花瓶が倒れ、アネモネの花と錠剤が宙に舞った。江梨子は呆然とし、しかし急いで戸棚からほうきとちりとりを取り出し、死骸のような花と薬を掃き集めた。

「どうしたの?」自室からあきらが出てきた。
「来るな!」父親は発作的に叫んだ。
「あきら、来るな。何も触るんじゃない!」
正人は青白い顔であきらを睨んでいた。眼鏡の奥の瞳は激しく光っていた。少年が父親のそんな顔を見たのは初めてのことだった。あきはじっと立ち尽くした。部屋の空気は冷えてゆがんでいた。正人は突然、憑き物が落ちたようにはっとして、息子の顔を見た。そしてため息をつき、静かな声で言った。
「あきら、怒鳴ったりして悪かった。でも、危険だから触れてほしくないんだ。わかるか?」
あきらは頷いた。父親はなおざりに少年の頭を撫でると、吸い込まれるようにまたパソコンの前に座った。画面は青く冷えて固まっていた。

「お父さんったら、いやあね。うっかりして花瓶を落としちゃったのよ。ちょっとこれ、捨ててくるわ。あきら、この辺り危ないから気を付けてね」
江梨子は努めて明るく言い、ちりとりを持って台所に向かった。


 あきらが台所に足を踏み入れると、母親は暗がりにしゃがみこんでいた。黒い髪の毛が背中一面を覆うように垂れ、肩は細かくふるえている。細い指が蟇蛙ひきがえるのようにびっしりと顔面を覆い、指の間からきれぎれに声が漏れ出ている。 

―お母さんが、泣いてる…。

 あきらはその場に立ちすくんだ。母親が泣いているところを見たのは初めてのことだった。まだアポカリプスが始まる前、江梨子がテレビで悲しい映画を観て涙ぐんでいたことはあった。でも、それとこれとは違う。あの日母親はテレビをぱちんと消して「久しぶりに泣いちゃったわ」と笑った。けれどこの現実はスイッチオフできない。

 台所のランプは切れかかっていて、時折かちかちという音を立てて点滅した。流し台のすぐそばの果物かごには合成オレンジが盛られており、人々の憂慮などお構いなしに無邪気に輝いていた。壁に映った母親の肩のシルエットが小さく揺れていた。それはあきらが子どものころに見た影絵のようだった。

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