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Pleasure of Life -いのちの悦び-




神さまなら たぶんね そんなに多くのこと
求めちゃいないよ
欲望から自由になれない 僕は手あたりしだい
不幸せ生んじゃう

誰かにけしかけられてばかりいて
ひとりじゃ迷子のようにうろたえる
立ち止まって 考えろよ
本当に欲しいものは何だろう?

ゆるぎないものひとつ抱きしめたいよ
誰にもそれが見えないとしても
まっすぐ優しく生きてゆきましょう
光のように闇を突きぬけて
うたおうマイライフ


B'z「ゆるぎないものひとつ」


2020年の春、世の中が緊急事態宣言などでザワザワし始めたのを機に、本当に話したいことや大切にしたい気持ちってなんだろう?ってことを自分に問いかけることが日常の中で増えてきました。

時間は限られているし、大事にしたいものほど目の前にあることを痛感させられる現状の中で、果たして、それ以外のSNSやメールなどのやりとりは本当に必要なんだろうか?と、自分自身の馴れ合いかもしれない選択に疑問を持ったからです。

咄嗟に誰かと繋がりたくなる時ってどんな時なんだろう?日々の中で注意深く自分を観察してみることを始めました。

すると大体、何かの選択に迷ったり自分の答えに自信が持てなかったり、目の前の出来事を受け入れられなくて悶々としている時だというのがわかってきます。

自分で出来るだけ突き詰めることもせずに、すぐ誰かに聞いてみようとする軽率なパターンを発見したのです。

いつも何かある毎にグラグラするのは、自分に設定されたこのパターンのせいだとわかりました。

自分以外の誰かに“あなたは間違ってないよ”と言ってもらうことで安心したかったのでしょう。

でもこのままじゃいつまでも自立出来る気がしません。だからこのパターンを一度手放してみようと思ったのです。

最初は、脳に組み込まれたシステムのように正確に反応するその臆病なパターンが顔を出すたびに、その都度スマホに頼らずに、自分の中で答えを決められるまで吟味し、新しい行動パターンを上書きしていきました。そしてやり続けること数ヶ月、自分の中に変化がおとずれたのがわかりました。

どんな出来事が目の前に現れても、自分の心の声を差し置いて、誰かから答えを与えてもらいたい欲求は生まれなくなっていました。パターンを上書きするうちに答えは自分の中にしかないことを、かつての記憶とともに思い出したからです。


7年ほど前のことでした。夫の美容室の開業直前、長年携わってきたアパレル業界での仕事を辞めるタイミングで、当時仲良くしていたプライベートの仲間たちと、アラブ首長国連邦&アイルランドへ旅行することになりました。

それには期限切れのパスポートを更新する必要があったのですが、パスポート貼り付け用の証明写真を撮るときのために、わたしは前もってある旅で手に入れたお気に入りのネックレスをしていきました。自分の中で決意を込めるという意味合いもあって、それをつけた姿を、証明写真としてカタチに残しておきたかったからです。撮影ボックスの中で自分だけの世界に集中しながらリラックスして撮るぞ、と決めていたにも関わらず、事件は起こりました。

パスポートの受付を終え、同じ館内にあるカメラマンによる証明写真の撮影コーナーの前を通りかかったときに、一緒にいた夫から“ここでええやん。”と誘われ、流されてしまったのです。

その撮影はとうてい満足出来るものではありませんでした。わたしは自分が決めていたにも関わらず、夫の言葉に流されてしまった悔しさで、涙が止まりませんでした。決めていたのに咄嗟にNOと言えなかったその悲しみと怒りで、撮った写真をビリビリに破り捨てました。そして、その後改めて一人で撮影ボックスの中で望んだ通りのカタチで写真を撮り直しました。

泣くほどのことか?と思われる方もいらっしゃることでしょう。わたしもその時はなぜここまでのやるせない気持ちが溢れてくるのか、はっきりと理解出来ていませんでした。

しかし今ならわかります。自分の想いを蔑ろにすることの苦しさを。写真を撮れれば何でもいいわけではなかった。その過程にこそ、守るべき深い想いを込めていたことを。そして自分で決めたことを、行動に移すことそのものによろこびを感じるのだと。それがたとえどんな選択であっても、次の瞬間、やっぱり違ったとしても、その瞬間はそれが唯一の正解であり、自分が自分らしく生きていくための本質なんだと。

その感覚を思い出してからは、何かにつけて連絡を取り合っていた数少ない友人たちに、メールを送ることもすっかりなくなってしまったのです。

そして意識的にせよ無意識的にせよ、誰かに頼ったり甘えたり答えをもらおうとする繋がりが、今の自分にとって本当に必要なものなのか、わからなくなりました。

それでもわたしには、繋がりが消えてしまうかもしれない怖さより、中途半端に繋がることで見失うものがある、そのリスクの方が大きい気がしました。 だから、身体の奥から相手に対しての純粋な想いが溢れてくるまでは、誰にも連絡しないことにしました。


そしてその結果、わたしの身に舞い込んできたこと。

それは、人生を揺るがす新たな出逢いでした。

自分の中がクリアになり、自分にとって本当に望むものとそうでないものが、わかるようになってきたからなのかな、という気がしています。

人は必然の出逢いの中に在るとき、目まぐるしく現実が変わってゆく。

今はそのことを身をもって痛感しています。

生きてゆく中で、人生を揺るがすほどのご縁て、そう多くは無いと思います。本当に必要な体験を先延ばししないためにも、ただ目の前に差し出されたギフトを、怖がりながらでも受け取り続けていこうと思います。

今は、たくさんの愛に囲まれて、躊躇なく怖がれることがしあわせです。

自分から溢れてくるどんな感情も、思いっきり抱きしめて頬擦りして、ひとつに溶け合い、揺るぎなく【わたし】で在りつづけていこうと思います。



気が付けば、もう3ヶ月も下書きに入りっぱなしになっていた記事。突如として思い出したので、その感覚に従って、いらない部分を削除、修正して投稿しました。


そのきっかけとなった、

最近、ふと降りてきた言葉。


だって、どっちみち、ぜんぶ暇つぶしでしょ?

過程を楽しむこと以外、人生に何の意味があるの?


楽しむべき道のり、その過程を誰かに預けたり、任せたりしたら、結局全部やり直しさせられるよ。

富士山頂に、どこでもドアで行けたとして、そこになんのよろこびがあるの?

不安や恐れから逃げるほど、追っかけてくるよ。

勇気出して、恐れを抱きしめたらいいんだよ。

そしたらひとつになって消えちゃうから。

それでも快楽を追究すればするほど、恐れは付き纏う。

どのへんのボルテージ、またコントラストで生きたいかは、人それぞれ。

そして、きれいごとが心をほぐしてくれるのは一瞬だ。

喜びや楽しさだけの日々に、人生を濃密に満たすほどの深さはない。

不安や恐れが、本当の悦びを教えてくれる道標。

悲しみは、すべての感情の底に流れ続ける。

その奥行きが、生を輝かせる。

それが『Pleasure of Life  -いのちの悦び-』

だから、悲しみを信じている。

切なさを愛している。

忘れないでね。わたし。




今はもうこのSNSを去っていかれましたが、noteで出逢った、心の底から信頼していた大好きな方に、誕生日を機にオーダーして描いてもらった絵。

お願いしたタイトルが

『Pleasure of Life -いのちの悦び-』です✨


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いのちの悦びとは、生きている実感。

身体中に満ち溢れるもの。




世界一愛しているバンド。B'zのエネルギーに、わたしはずっと生かされてた❤️ありがとう、B'z。

そして、いつも支え励ましてくれるご縁に感謝💕✨



体中 満ちあふれる 野性のENERGY
滾らせて今 解き放て
奇蹟が起こる もうひとりじゃない


満月の夜にぴったり🌕✨





ご覧いただきありがとうございます✨ 読んでくださったあなたに 心地よい風景が広がりますように💚