100文字の言葉より
わたしはよく夢を見る。
だいたい寝る前に観た動画や読んだ文章から受けたエネルギーがそのまま夢に出てきて、夢の中で消化しているような感覚だ。言葉にならない思考の延長で、そういう日はあまり眠れた気がしない。
先日は、ある友人が夢の中に出てきた。それが誕生日の三日前で、しばらく音沙汰のなかった友人の唐突な登場のインパクトは大きく、なんかあるなと言う気がした。
わたしは、世の中に情報として出ている自己啓発やスピリチュアル用語などの類は、基本的に信じていない。
言葉に当て嵌めた瞬間、それはもうすでに違うものになってしまっている気がする。
スピリチュアルというのは、あくまでわたしにとってはナチュラルな感覚のことだ。
わたしはわたしのナチュラルな感覚だけを信じているから、それを敢えて専門用語で説明する必要性は感じていない。それを助け支えるための情報は時に必要になるが、必要な時、それはすでに手元にある。
誕生日の日の終盤、時刻は23時半を過ぎた頃、一通のメールが届いた。
三日前に夢に出てきた友人だった。
掴み所がなくて、とても感覚的に生きているように見える友人が、誕生日を覚えていてくれたのは初めてのことだった。すごくうれしかった。
うれしい気持ちをそのままの勢いで返信に記した。
そこでやりとりは終わったが、その三日後である昨日の早朝、またフワッと舞い込むように返信が届いた。
その時のわたしは、ある出来事に胸を痛め、悲しみにくれながら、車内で病院の待ち時間を過ごしていた。
そのメールには、一瞬で悲しみを軽くしてくれるエネルギーがあって、わたしはすぐに笑顔になった。
内容は特に意味のないものだ。
ただただタイミングがすごいなと思った。
その時に思い切って聞いてみることにした。
「誕生日の三日前、わたしのこと思い出さなかった?」
「思い出したかも知れない。なんで?」
「夢に出てきたから。なんで思い出したの?」
「そろそろ誕生日だったかなと。」
こういうことがあるたびに、言葉は感覚を確認するためにあるんだなぁと思う。
頭から出た説明言葉ばかりで想いを感じられないとき、悲しい気持ちになるけれど、フワッと舞い込んできて笑顔にしてくれる言葉は、言葉にならない領域の想いをいつも自然に纏ってくれている気がする。
それは説明しようがない感覚だけれど、身体の芯を優しく震えさせる。
100文字の言葉より、たった一言に包み込まれる感覚。
どんなときも言葉そのものの意味など求めてはいない。その奥にあるコアな想いに触れたいだけなのだ。
すべてはエネルギー。
あなたがわたしを想いながらふと放ったエネルギーが、わたしを笑顔にしてくれている。
そう言えば、2年前、娘が入院した時もそうだったな。
誰にも言えないやるせなさを抱えながら、病室の窓から毎日夕日を見つめていた。
消灯時間が早いせいで、暗闇の中、スマホを触るしかなかった。せっせとInstagramに夕日の写真をアップして気を紛らわせていたとき、お互いフォローもしていないのに、わたしの投稿に気付いて、異変をキャッチしてくれた。
あの時のたった一言のメールが、わたしをゆるませてくれた。
いつもどうしようもなくやるせないとき、気付いて助けてくれるのは、なぜかいつもあなたなんだ。
深いってこういうことなのかもしれないなぁって思う。
海の美しさ、そして海の怖さをよく知っている人だからなのだろう。
きっと誰にも、100文字の言葉より、あなたのたった一言が必要なときがある。
ふとしたタイミングで、まるで花びらのように舞い込んでくる温かさが、冷えかけた心を包んでくれる。
花びらが散るとき、そこに降り注いでいるもの、それはいのちのかけらだ。
花の散り際がなぜあんなにも胸に迫るのか、わかるだろう。
あの瞬間、時は止まり、そこにはただ静寂だけがある。
悲しみという普遍、その悦び、美しさ、その奥行きを魅せられる。
散り際の解き放たれた恍惚は、多分何にも代えられない。
そのために生きているのだ、と悟る。
あなたが注いでくれたいのちのかけら、その一言に、わたしは今日も生かされている。
落ちるがまま
大地に身をゆだねた種子たちは
必要なものすべてを吸引し
成長を続ける
性の本質に導かれれば
求めなくても
必要な物事のすべては
舞い込むのである
真の性エネルギーは、存在との間に交感をもたらす。
すべてに愛を流し、悦を与える。
その時、必要な物、必要な人、必要な現象は、ダンスをするように舞い込み始める。
千賀一生『タオの法則』より
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