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心配とは心を配ると書く。本当に相手のためを思うなら助けを求めよう

私は、違和感を感じてることがあります。そもそもの話、心配って本当にかけちゃいけないもの?ということです。

心配をかけたくないから、自分を押し殺して黙っている。この気持ちは、痛いほどよく分かりますし、素敵なことです。

でも、一回よく考えたいことがあります。自分が、本当に心配だと思うのは、どんなときなのか?ということですね。

私は、こう思います。

例えばそれは、自分を押し殺して、悲しいこと、辛いことに必死に耐えている、大切な人を、側にいながら、助けてあげられなかったときじゃないでしょうか。

これは心配ですよね。

自分が親だったらどうしたいか?

では、一つ例をあげます

自分の子どもが、学校でいじめられているのを、親に隠していたとします。

子どもがいじめられて、苦しんでいたことに気づかずに、親の前では必死に、明るくふるまってることを、知ったとしたら?

心配ですよね。

辛いですよね。

自分を責めると思います。

「なんでもっと早くに気づいてやれなかったんだ」
「親として信用されてないのかも」
と。

自分が親だったらどうしたいか?

大切な子どもが苦しんでたら、助けたいはずです。

大切な人に、心を配るのは嫌ですか?

そんなことはないですよね。

つまり、

本当に嫌なのは、辛くて、苦しんでいる大切な人に「心を配れない」ことじゃないでしょうか。

本当に嫌なのは心を配れないこと

一人で悩み、苦しんでいる大切な人を、助けられないことは辛いじゃないですか。

むしろ、大切な人なら、自分から進んで心を配りたいんですよ。自分ならどうしたいか?と考えると、すぐに分かると思います。

つまり、心配したいんです。

心配をかけたくなくてしてることなのに、結果的に大切な人に、もっとたくさんの、大きな心配をかけることになってしまうのでは?ということなんですね。

本当に大切な人を思うなら、一人で抱え込まず、限界がくる前に、助けを求める。

そのほうが、相手も頼られて、心を配れるので、嬉しいんじゃないでしょうか。

まとめ

苦しんでる人に気づけず、助けられないというのは、本当に辛いことです。

その傷をかかえて、生きていくことになります。

これが本当に望んだ結果でしょうか。

一人で抱え込むということが、本当に、心配をかけないということなんでしょうか。

ほんとは辛くて、苦しいのに、無理に明るくふるまうのは、本当に大切な人が、望んでいることなのか。

心配は、本当に、かけちゃいけないものなんでしょうか。

思い込みを捨て、勇気を出して、助けを求めてみるということが、自分も、周りも、少しは生きやすくなるキッカケとなるかもしれません!


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それではまた!

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