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酒とビンボーの日々 ⑫ケガのビンボー

2月の後半に寒い時期が続いたが、その時であろうか、
しばらく右膝のあたりの表と裏に張りを感じ、重くだるい感じがしていた。

寒さのせいだろうと高を括り、
歩いて体を温めれば自然に治ると思い込んだ。
しかし、無理に歩き続けたことが原因でそのあとすぐに
右足を地面に着けるたびに右膝に激痛が走るようになり、
歩くのも困難になってしまった。

50歳を手前に膝を壊してしまったのである。

僕の父も自分と同じくらいの齢に右膝の間接を痛めて、
そこから20年くらい経てから悪化し、
70代に差し掛かったころに人工関節を入れている。
自分も将来、父のように人工関節を入れることになるのではないかと
半ばあきらめてしまっていた。

とにかく歩くときに膝を曲げたりもできないし、
かといって足をまっすぐに伸ばしたままではその状態ですぐに固まってしまい、歩けなくなってしまうのである。

何より自分の足の周りに何か置かれたり、
何が落ちていたりすることに恐怖するようになってしまった。

家の中でも引きずった足に何か引っかかったりすると躓きの原因になる。
酒の一升瓶を蹴倒し、カップを割ったりと余計なことばかりだ。それに、
子供に急に横切られたり、何かを持った妻が廊下で急に立ち止まったりすると僕は急に止まれないので悲劇が生まれるのである(苦笑)

もう家の中でも自分の目の前1メートルくらいしか見えなくなる。
すこし遠くを見て、家人の行動を予測して動くということができなくなる。

だから、健康であるということは大切なものだ。

健康でないと自分以外の人間に気を配れなくなる。
ましてや家族にさえ気が配れなくなるというのは人間としての最低ラインさえ超えてしまう気がするのは僕だけであろうか。

歩くと膝がいたいというだけでこちらも非常に怒りっぽくなったり、
妻や子供の話がまともに訊けなくなったりといいことは何一つないのである。

家の中でさえそうなのだから、
外にでると、どうなるかは推して知るべし、だ。

歩くのもそうだけれど、駅の階段の上り下りも辛い。
ましてや電車の急ブレーキや満員電車でこちらに寄りかかられたりして
妙なタイミングで体重が膝に加わると膝の神経に障るのである。
まるで電気を通されたみたいにビリビリと痛みが走る。
その苦痛に顔がゆがむ。

だが、他人はこちらがなぜ苦痛そうな顔をするのか理解に苦しむだろう。

そう、理解されないというのもこちら側としても苦しいところだ。
本当に困ってしまうのは他人に理解されないことなのかもしれない。

だから、「ヘルプ・マーク」なるものの便利さというのも納得できる。
最大の敵は周囲の無理解、とは書いたが、最大の敵は弱者だと思う。

僕は175センチ、75キロ、肩幅は広く、何かの運動の経験者かと問われることがあるくらいガタイは良いほうだと思う。

なんでこんな人間が足を引きずって歩いているのか?
それを見てニンマリしている人の顔を見た。

弱った獲物に寄って来る、ハイエナのような人間がある一定数いる。
それが今回の膝痛で苦しんでよくわかった。
弱者は弱者の世界の中でマウントの獲り合いがあり、ヒエラルキーがあるのだということ。動物と変わらないね(笑)

足を引きづることとは無縁そうなガタイの良い人間、
つまり、僕が足を引きずって歩いている。
「コイツはいま自分よりも弱っていやがるんだ(二ヤリ)」と思いながら
何を僕に仕掛けたかというと…例えば、

新宿駅のホームで混んでいない方を選んでゆっくり足をひきずりながら歩いていると歩いていると杖をついた老人が歩きながら並んできた。
その老人は杖をタンタンとついてヨタヨタ歩きながら、その杖を僕の足の前に突き出してきた!

本当に驚いた!

足を引きずる僕が、自身の前1メートルくらいしか見えないことを知っていて、杖を突きだして僕を転倒させようとしたのだ。
その老人の底知れぬ悪意を感じた。
何度か僕の足の前に杖を出したが僕が避ける余裕があるのを知ると急に離れて行ってしまった。
もし、僕が大きな声を出してその老人を叱責したとしても、悪者にされるのは目に見えて弱者である杖をついた老人ではなく、ガタイのよい僕のほうだ。
それをその老人は知っているのだ。

あるときは、電動車いすの男に後ろからぶつけられた。
わざわざ足を引きずる僕にぶつかってきたのは言うまでもない。
生身の人間からすれば軽車両と言ってもよいくらいの代物だ。
その車いすに乗っていた男の暗い目を覚えている。
赤いジャンパーを着て金髪でうすいサングラスの小太りな男だった。
幼いころに病気でもしたのだろうか、成長しきっていない肉体の一部として電動の車いすがその弱者に力を与えたのだろうか。
こちらも振り向いてその男を見据えた。
男は何も言わず、どこも見ていない目をしながら、
平然と電動車いすのレバーを左に倒すとその場から去っていった。
あとに電動車いすのモーター音が余韻を引いて小さくなっていくのを見送ったのを覚えている。

「弱者」と書くと問題があるのは認識している。
ここでいう「弱者」の定義とは何なのだ!?という問いにもできる限りコメントで対応したいと思う。

来いや。


ただ、「弱者」を装ったなかにも邪悪な存在は確実にいる。
「弱者」であることより「邪悪」であるかを論じているつもりだ。
「弱者」の仮面をかぶった悪魔は、
いままで僕自身が気が付いていないだけで、
そこかしこに存在することが今回のケガで認識できた。

そのときに感じた背筋が凍るような感覚はまだ新しい。
その他にも、進む先に唾を吐かれたり、荷物でわざと押されたり、
と足を引きずっていた一週間でいろいろとあった。
そのたびに怒ったり、悲しんだりといろいろと疲れてしまったのだ。
これほどまでに心のねじ曲がった人間の多いことを認識した。
この世界に救いなどないし、嘆いてみたところで徒労感しかなかった。

僕は、足を引きずっていた一週間のうちに世の中に小さな絶望をした。
もうあまり世の中のことに心を動かさなくなった。

こんな心理状態のときにまだ足を引きずっていた僕はある日、
街で横断歩道を歩いていた。
鍼に行ったりして、少しは楽にはなったが、
膝の裏の筋肉が凝ってしまい足が棒のようになっているので、
はたからみて「足をひきずっている人」にはなっている。

信号が青になっている。
ゆっくりと行くことも考えたが、早く帰るに越したことはない。
少し急いで横断歩道を渡ることにした。

少し痛みはあるものの早歩きをしてさっさと渡ってしまおうと思った。
横断歩道に差し掛かると歩行者用の信号は点滅し始めていた。
ちょっと急がなきゃな、と思ったときだった。
どこからか小学校2年生くらいの小さい子供が飛び出してきて、
僕の横にくると手を挙げて僕の歩調に合わせて一緒に歩いてくれたのだった。
「ありがとう」という前にその子は走って行ってしまった。
僕はすっかりと礼を言うことを忘れるくらいびっくりしてしまった。

この仄かな心に灯る火は何だろう?
遠く太古に置き忘れてしまった「思いやり」なんてものなのだろうか。
それからしばらく僕の胸はじんわりと暖かかった。

僕はその子供に礼を言えなかったことを今でも後悔している。
ただ、思う。誓いのような、こんもりとした言葉のように。

この仄かな火を、風に消え入りそうな仄かな火を、
僕はずっとずっと、灯し続けよう、と。



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