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その授業に思いはあるか

おはようございます。“学びで人生を楽しく”と掲げて日々勉強を続けている小学校教員です。このnoteでは、学校現場のことや日常生活のことまで、いま考えていることを綴っています。

いま現在、学び場『ATTiTUDE』の企画を練っているころです。今の現状にモヤモヤしていて、もっと学びたい、授業について考えたい。そんな熱を秘めている教員や教員志望の方々がフラットに学び合える場所にしたいと思っています。

オンライン、オフライン問わず開催していく予定ですので、ご興味ある方はぜひ一
緒に学びましょう。詳細が決まり次第、ご報告します。

さて、今日は「その授業に“思い”はあるか」というテーマで書きたいと思います。学び場を共に企画している同僚との話で、既存の研究組織における授業のあり方が話題にあがりました。

現状では、組織や権威ある人の意向に沿って授業をつくって公開しているケースが多いです。

最初は授業者の思いが乗った指導案が提起されるのですが、修正、修正、また修正。気付いたら、授業者の思いはどこかへいってしまい、組織や権威ある人の意向で塗り替えられた授業に変わってしまうのです。

また、授業者によっては特に自分の思いはない、といったケースまであると聞きます。

果たしてそれでよいのでしょうか。授業は本来、目の前の子どもたちの事実を起点にして、教師の思い(目指す子ども像や授業像)と結び付けて創造されていくものだと考えています。

たしかに、組織が一体となって研究する効力は計り知れません。ただ、そうであっても、授業者の“思い”なき授業は子ども不在で考えられている可能性が高いです。

どこまでも目の前の子どもたちの事実に向き合い、教師の思いをぶつけながら試行錯誤した先に、本来目指すべき授業はあるのだと思います。

これから教員を目指されるみなさん、これから活躍される若手教員のみなさんは特に、授業に“思い”を込めてください。

自らの教育哲学をもち、芯のある教師を目指して。私もありったけの思いを込めて、子どもたちと授業を創っていきたいと思います。

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