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創作者の麻薬。

絵を描く時、絵の内容または描く時の心境などに「情動があるかどうか」を念頭に置いている。自分の心が動いている絵は見た人の心を動かせるからだ。

そう、だから〜その、まあ、あれだ。
ワクワクする絵は比較的バズりやすいのである。バズる絵描きたいじゃん。そもそも消費者側の私もワクワクする作品が好きなわけだし。

ワクワク云々の詳しい内容は過去の投稿にて↓↓↓


それで、今日は何かというと。
「別にワクワクしなくてもいいんじゃね?」
という選択肢が、はじめて私の中に生まれたのだ。

心を動かす作品じゃなくてもいい。
心地よさを与える作品でも充分素敵じゃないか?

厳密に言えば、この「ワクワクしなくてもいいんじゃね?」という感覚自体は2年前に一時期あったのだが。その時は自覚がなかった。

バズろうがハズレようが気にしない。だって自分の作品はどんな形でも最高だから。
絵描きとしては理想とする感覚ではなかろうか。情緒が安定して、自分の作品を愛することができて、実に心地良い創作活動。

その感覚は半年も続かなかったろう。

絵を描くジャンルを移動した頃、漫画でクソバズりを起こした。pixivにてブクマが15,000を越えた。もーあんな作品描けん!どうやってそのネタを作ったかも、そのときの感情も思い出せない!

その漫画がキッカケだっただろうか。

人を感動させる作品を作る、その楽しさを鮮明に思い出してしまった。
(数年おきにあるのだ。こういう爆発する作品が描けてしまう事が。)
一度経験していただくと分かるが、あれはもはや麻薬のようなものだ。そのエクスタシーは唯一無二で、他の何かでは決して満たすことができない。

かなしいかな、強く望めば望むほど叶わない。

あの時のエクスタシーに恋焦がれて幾度となく挑戦してきたが「いい線行ってる、もう少しで届きそう」を繰り返すたびにハードルは高くなっていった。そして疲れ果て、筆を動かすことすら出来なくなる。世の芸術家、文芸家たちの一定数はこの呪いと一生付き合っていくのではないだろうか。

エクスタシーが最高な分、産む苦しみはそれ以上なのだ。

そして産む苦しみと同じかそれ以上に、
筆が動かない苦しみは大きい。

どうにか、筆を動かすことはできないか。
気持ちの問題なのは分かっている。けれど気持ちは操作できるものではないだろう。
だから待つしかなかった。

この心、この手が自ら自然に筆を持ってくれるのをただ待っていた。

そして今日ようやく呪いが弱まったのだろうか。
表現者、創作者としての目指す場所はエクスタシーだけではないのかもしれないと、思い出すことができた。バズり以外の何かで自分を満たせるかもしれない。2年前のように。

ワクワクする作品でなければ意味がないと思っていたのだが、そうではない作品もありじゃないか。ワクワクだろうがなんだろうが、その作品を私自身が愛していなければそれこそ意味も価値もない。

愛するというのは、自信を持つという言い方もできる。
自信を持つ、愛する、好きになる。そういう感じ。

バズらない作品、ワクワクしない作品は愛さない。
その呪いはあまりにも厳しすぎるし、悲しすぎるので。メンタルに余裕がないなら控えた方がいいだろう。私メンタル弱いんだって〜わかってくれ〜。

そんなわけで久々に筆が動いたので、一ヶ月遅れで友人に誕生日イラストを献上してきた。待たせたなぁ!

まあ単純にメンタルが安定期に入っただけで、意識がどうとかの問題でもないかもしれないけれど。創作者の呪いは自覚しておいてもいいだろう。

皆さんも引き続き、良い創作ライフを。

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