本を読んで辛いのは、読むべき時に読めた証なのかもしれない
加藤諦三先生の本を、1ヶ月以上かけてゆっくりゆっくり読んでいる。文章量的にはそこまで多くないので、通常なら1週間あれば普通に読み終えられるくらいの本なのだけど、これはなかなか時間がかかってしまうなと思う。
というのもこの本、私の触れて欲しくない嫌なところを、的確に、かつ、研ぎ澄まされた鋭利な言葉で突き刺してくるのだ。
それも、その鋭利な言葉たちは次から次へと立ち現れてくる。1ページ読んだだけでかなり精神力が削られてしまい、1章読み切ったらもう満身創痍だ。
前にも一度この本について記事を書いたが、その時はほんの数ページ読んだだけなのに、かなり消耗してしまった。自分が、「こんな人にはなりたくない」と常日頃から思っていた人そのものだったことに気づいたからだ。
こんなにも読むのが辛いのは、私はこの本のターゲットど真ん中の人間であり、つまり深刻な劣等感を抱いているということになるだろう。
一つひとつの言葉を噛み砕いて、しっかり飲み込もうとするのだけど、その言葉たちはなかなか喉を通ってくれない。どころか、噛むたびに苦い汁が溢れてきて、噛み砕くのにすらかなり時間がかかってしまう。
今読んでいる章では、深刻な劣等感のある人は「どうせ私はダメな人間だから」と拗ねることで、人を攻撃してしまうことについて書かれている。筆者はこれを「受け身的攻撃性」と呼んでいる。
一見自分を卑下して、自分の身の程を理解しているように思えるが、実はそこには他人を責める意味合いが含まれているというのだ。
積極的に人を攻撃するほどのことはしないが、「自分がこんなことになったのは、チヤホヤしてくれなかったあなたのせいですよ」という思いが込められている。
また、「どうせ」という言葉を使って自分を貶すことで、「そんなこと言わないで、あなたにはこんないいところがあるよ」と、褒めてもらえることを待っているというのだ。
その証拠に、「どうせ」という言葉を使う人に「その通りだね」というと「なんでそんなひどいことをいうのだ」とキレる。本心では自分をそんな人間だと思っていないからだ。
そして、「どうせ」は甘えの言葉でもある。自分が変化することを拒んでいるくせに、自分がこうなってしまったことを全部人のせいにして、自分の責任から逃れようとしている。
私はこの「受け身的攻撃性」について読んだ時、最初は受け入れることができなかった。目を背けたい気持ちを抑えて、ゆっくり咀嚼して、考えて、やっと少しだけ自分の中の受け身的攻撃性を認めることができてきた。
会社にいけなくなってからのここ一年ちょっとの間に、私は自分自身と結構向き合ってきたつもりだった。でも、この本を読むと、全然正面から向き合えていなかったのだということに気づかされる。
ただ、一切自分と向き合ったことがない時にこの本に出会っていたら、この本に書かれていることを自分事として捉えられなかったかもしれない。「こんな人もいるよね」と、他人事としか思えなかったかもしれない。
この本を読むとかなり精神的ダメージを受けてしまって、辛いのだけど、逆にこれは、読むべきタイミングで読めているということでもあると思う。
きっと、ちょうど良いタイミングだからこそしんどいのだ。自分なりに自分自身と向き合ってきたからこそ、一つひとうの言葉をしっかり受け止めようと思えるのだ。
読み始めてから1ヶ月半も経っているが、昨日やっと半分まで到達したところだ。ここからまた半分。同じくらい時間がかかってしまうかもしれないけれど、時間をかけてじっくり読み込もうと思う。
大切なお時間を使って読んでくださり、本当にありがとうございます! 気に入っていただけましたら、サポートをいただけるととても嬉しいです。これまでにいただいたサポートが、私のモチベーションとなっています。