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「伝わらない」を真向かいに据えて Ⅰ
新年度が始まった。新しい春。
桜のみち、日の長い季節。明るく、清々しく、そしてどうにも切ない。大好きだけではいられないのはいったいなぜなんだろう。
27年生きるうちに、肩書を幾つか持つようになった。一般企業の会社員、通信学生、子ども支援を中心としたNPOのスタッフ。血のつながらない誰かの姉であり、妹であり、親友であり、名づけようのない関係性の主体者でもある。「関係」だけは相互に育んだものだけれど、それ以外は自分の意志で選んでなったものだ。
知らぬ間に与えられた属性もある。セクシュアリティも家族も身体も、自覚を持つ前に授けられていた。変えようがない、変えられない、変えたくない。捉え方がどうあれ、オプションとはならないものに違いない。
選んだものと、選べないものを両方携えて生きている。疑問や主張を誰かから投げられたとき、理由や根拠を述べられるものもあれば、答えを知りたいのは私の方だと問い返したくなるものもある。「痛み」と「労い」を繰り返しながら、自己と他者それぞれの輪郭をはっきりさせていくのかもしれない。
十人十色とはよく言ったものだ。私たちはひとりひとりが完全に違う。写し鏡のように感じても、実際はそう見えるだけ。重なりを見つけては失い、喜びとかなしみのどちらもを経験して、「わかりあえるライン」が引かれる位置を探ってゆく。
先日も少し書いたけれど、私自身は、自分の心が傷つかないように慎重になりつつも、「できるだけわかりあいたい」のベクトルで人と向き合う。上手くゆけば手を取り合える。間違えれば、皮膚の表面を薄い紙が走った時のような傷ができる。思いを分かつ、ということは容易ではない。お互いの努力と根気、そして思いやりが必要になる。
今回は、その難しさの話をしたい。
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「何者か」になりたかった彼女
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