『WE - 入口と世界の出口』について

この演目『WE - 入口と世界の出口』は、昨年の『ふたつのE』の変化系であり、これから始まる「火の鳥プロジェクト」の第一段でもあるとのことだが、『マハーバーラタ』の延長としても体験した気がする。

小池博史氏の『マハーバーラタ』は、ある現況の対立に対して、それとは異なった対立を提案するようなエンディングだった。

例えば、戦争するA国(A国民)とB国(B国民)との対立には、A国民の中の戦争したくない人々とB国民の中の戦争したくない人々をひとまとまりとして、それ以外の人々と分類する境界線を想像させるエンディングだった。

戦いのシーンは、どちらが如何に格好良いポーズを取るかの戦いとして描かれているように見えたが、英雄として崇められた者が敵を殺すシーンが一度だけ(?)ある、弓を射る演者の表情はとても辛く悲しく、頼もしさや力強さは皆無であり、あの人は英雄(ヒーロー)なんかじゃない、悲しいんだ、辛いんだ、あの作品の中には人を殺すヒーローなんて1人も登場しない、ゲーテの句「だれでも、人々が自分を救世主として待望しているなどとは思わないでくれ!」を想起し、この句の意味を考えながら、一先ず、頭か心か意識の中で呟いた、誰も救世主(ヒーロー)の登場なんて待ち望んじゃいない、身体で、行為で呟く為の入口だ。

そして、過去と未来、善悪、様々な障壁を行ったり来たりする越境者として登場した、狂言師の方が演じていたスケベな役こそ、あの物語の中で、少なくとも私にとっては、最重要の意味の鍵となる役だった。

さて、『ふたつのE』は、意味や物語を勝手に読み解くのが面白くて、そういう鑑賞をした。

しかし『WE - 入口と世界の出口』は、どのタイミングたったかは思い出せないが、意味も物語も必要ないと感じて、殆んど、いわゆる言葉を忘れて、分かるとも分からないとも思わずに、観ていた。

余談だが、印象的な、頭の中に言葉を引っ張り出した箇所が4つある。「今回の衣装の靴、良いなぁ。」「天井から吊るされたカメラが仰向けで寝る演者三人の顔の上に急降下するのは、やっぱりこわいよなぁ。。」「目を凝らしたけど、畜光のバミリがあるわけでもないし、機材のランプが幾つか光っているのを目印にしてるのか、暗闇でどーやって移動したり、ポーズのコンビネーションをやってるんだろう?感覚を鍛え上げて、練習もしたんだろうけど。。」「シンデレラ?一瞬頭の中に、シンデレラのドレスをまとった今井氏の姿が立ち上がる、、、」の4つだ。

さてさて、昨年『ふたつのE』を観た時とは、私自身の状態も少し色々と変わっているかもしれない。しかしそれを差し引いて想像しても、『WE - 入口と世界の出口』の鑑賞には、全く初めての体験があった。

言葉にならない、しかし言葉を捜して、動かされた、何か変だったぞ?今のは何だ?と気になったのは、演者の主体性が曖昧に感ぜられた、鏡とカメラのコンビネーションを見せるシーンだ。

舞台で踊る演者、その演者を写した鏡(鏡に写った演者)、舞台で踊る演者を手持ちカメラで撮影している、踊る演者と踊る演者を写した鏡の映像がリアルタイムで壁に映し出される。

リアルタイムって何だ?

壁には、文字や何かを意味し得る気配を消し切らない塩梅に見受けられるペイントが施されている。リズムを感じ取ることも可能な、全体として模様のような表情を持つことも出来るペイントだ。家具のようにもなり、音楽にもなる、エリック・サティの家具の音楽と通ずるところのある塩梅だろうか。

また、文字のようにも見えるペイントの中には、日本語も書き込まれている。劇中では、この日本語を手持ちカメラで撮って壁に映し出し、ト書きを読ませるような演出がある。客席から読むのは難しい大きさの文字で、何人かの日記が貼られていたりもする。

踊る演者、鏡に写る演者、映像の中の演者、映像の中の鏡に写る演者、同時に、一人の演者の4種の姿が視界に入る。

流石の光の速さと機械の性能で、4種の姿は全て同時に動いているように感ぜられ、タイミングのズレを感じ取ることは出来ない。例えば、この4種の姿を撮影して、4種の姿の動きを音に変換したら、カメラから映像を飛ばす辺りの、機械の性能に由来するズレくらいは感じ取ることが出来るのだろうか?

物理的時間(?)では、舞台で踊る演者が一番最初の始まりで、映像の中の鏡に写る演者が一番最後なのかしら?

しかし、映像の中の鏡に写る演者こそが唯一の主体性を持って一番最初に動き、それに続いて他の姿が動いているように感じていたような気がしてならない。

鏡に写る演者にも、映像の中の演者にも、映像の中の鏡に写る演者にも、触ることが出来ない、触ることが出来るのは、舞台で踊る演者だけだと認識したのは、触覚による学習の賜物か?

実際には、舞台で踊る演者にも触ることは出来ないし、触らなかったのは、舞台の/他のお客さんの邪魔をしないで鑑賞しましょう、許可なく勝手に人様に触れてはいけません、「◯◯であるべきだ」という規範に習ったからであり、触ることが許され推奨された演出の舞台なら、演者から観客に触れてきたなら、舞台で踊る演者に触れることは可能であったに違いがないのか?

否、舞台で踊る演者が、プロジェクターの映し出す映像の光を反射することで自らの姿を表出しているのなら、舞台で踊る演者の姿こそ一番最後の光で、、否、その光こそが鏡に写り込んでおり、、、「乱反射、乱反射、、」と下町兄弟氏のラップが頭の中で繰り返される。

さてさて、主体性という語の定義もややこしいし、自分自身や他人の主体性を如何に認識しているのか、判断の材料も基準も曖昧だが、しかし目の前で踊る演者の中に当然あるだろうと無意識的に想定した主体性(?)があるのか無いのか足りないのか曖昧だと感じた、この事態が代償を求めたのか、主体性が何処にあるのか捜したのか、探したのか、そして、映像の中の鏡に写る演者の姿の中にこそが一番の主体性があると感じていたかもしれない、そんな気がしてならない、これは、演出によって造り出された印象なのか?物理的なものなのか?

また、特にその場面での踊りの性質自体が、演者の主体性を曖昧に感じさせたのかもしれない。

更に、壁にあのペイントがあること、あのペイントが模様のようでもあり絵画の集合のようでもあること、カメラが定点ではなく手持ちであること等が恐らく重要で、これらが他の多くの刺激と混ざって、演者の主体性の所在地を曖昧にしているのかもしれない、と考えながら、押井守がジェームズ・キャメロンの映画『アバター』を大絶賛した語りを思い出した。

キャメロンは、CG で作った人間に感情移入させようときた時に、弊害となる要素を全て知った上で全てクリアしていった、と。微細な違いや足りない所がとても気になるから、あえて肌色を青くしていたり、アバターに変身する?シガニー・ウィーバー以外は余り有名ではない俳優を起用している、という内容だったように記憶する。

⬛ Podcast「鈴木敏夫のジブリ汗まみれ」ゲスト:押井守が映画『アバター』の凄さについて語るhttps://www.tfm.co.jp/asemamire/index.php?itemid=27404&catid=168

お、閃いた(ユリイカ)!なるほどそうか、舞台美術を担当した山上渡氏による重要なアイテム「凸凹の黒い球体」の表面は、完熟のアボカドに似ている。この凹凸感も、それが球体であることも、この演目『WE - 入口と世界の出口』の体験は、その世界は、ちょうどこんな形状をしていたかもしれない。

例えば、正四面体が目の前にあれば、どんなに頑張っても同時に全ての面は見えない、必ず同時には見えない面が一つある。見えている面から見えない面を推察して、だいたいこんなもんだろうと当たりを付けるか、こうに違いないとすら思わずに、刷り込まれたように思い込むかしているのは、私たちの認識世界の、平穏なあり方の一つの状態なのかもしれない。

立方体なら、同時に直接目視できるのは三面までだ、ちょうど全体の半分に相当する三面は見えない。しかしこの立方体を転がすことが出来るなら、サイコロの目のように印を付けて、印の規則性を知っていれば、1の裏は6という具合に、見えている面の印から、見えていない面の印を推測出来る。

印が付いていなければ、もしくは、印の規則性を知らなければ、四面体でも立方体でも、見えている面と見えない面、分かると分からないの違いが際立ち、この境界線が支配力を持つかもしれない。そう簡単には越えられない境界線、まるでポテンシャル障壁(注:1)だ。

さて、この演目『WE - 入口と世界の出口』の鑑賞体験は、まるで歪な球体のようだった。

手のひらサイズの球体を真上から、左右両の目で見るなら、左と右の目の距離から球体までに角度が付いている分だけ、球体の全体の半分よりも若干多く見えているだろうか?

しかし実際に球体を見て、ここが見えている、ここが見えていない、と感じるには、多面体に於ける面に相当するような、目安に出来る明確な印がない。ここが見えている/ここが見えていない、分かる/分からない、という境界線に注目して強調しようと試みても、そもそも見えているのが球面であるのかすら曖昧だ、頗る能動的な、如何なる想像力を必要とするか?その球体を転がすことが出来れば、握ることが出来れば、或は。上手な絵画かもしれないのだから。

月が歪な球体だなんて、満ち欠け?満月から三日月のごとき形状にまで変容するのではなく?円盤ではなく?たまに昼間でも見えてたりするけど大丈夫?

さてさて、詰まるところが、この作品を観ていて、分かるとも分からないとも思わなかったのは何故か?

台詞もト書きも、言葉が少ない作品だが、例えば、「この男と女は昔何かあった、、」「この三人は昔仲間だった、しかし今は、、」といった言葉は、物語を想像するのにストレスを感じることなく、強い想像力を発揮出来る誘惑だ、そんな想像をするのは野暮だ!ということにして、物語を想像することを、意味を想像することを止めてしまうのも、簡単だった、それは、分かるとも分からないとも思わずこの作品を体験させた、仕掛けとして寄与したと推測出来るが、仕掛けがこれ1つだとは思わない、謎だ。

さて、意味/物語を想像することを止めて、観終わった後で回想して、何を体験したのか?何か、変だったぞ?あのシーン、、、、ぎこちなく分析を試みる過程で、私にとってのこの作品の意味が立ち上がった、この作品は球体であるということが、私にとっての意味だ。

分からないことに堪えて、何とか、分かる分からないではない楽しみ方を探せ!という強引なものではなく、「分かる/分からない」の境界線をするっとすり抜ける、トンネル効果だ。

「分かる/分からない」「0/1」離散的構造のシステムに対して連続的な非線形の波を接触させて、するっと?

もしかしたらフラクタル構造かもしれない、違うかもしれない、アボカド的な歪な球体の表面については、今回は掘り下げない。しかし、とても大きな歪な球体の上で「面」を感じている、毎日の生活について考えている。

斉藤有吾
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(注:1) ポテンシャル障壁とは、近距離では引力が、遠距離では斥力が働くことにより、障壁のように図示されるポテンシャル。古典力学では物体がポテンシャル障壁を乗り越えることは、ポテンシャルの高さよりエネルギーが大きくない限りできないが、粒子を波として考える量子力学においてはポテンシャル障壁を通過できる場合がある(トンネル効果)。


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