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2024年8月の記事一覧

図書館の動物

図書館の動物

 暗闇の無重力に放り出されたみたいだ。いつの間にか僕の身体は夜の図書館にあった。本棚は神経質なほど等間隔にそれぞれと距離を保っていた。館内の肌寒さに意識が追いつき、ようやく僕の身体と意識は重なり合う。あたりには誰もおらず、ガラス張りの館内を覗き込む林の茂りが夜の風の中でサアサアと音を立てるばかりだった。パジャマ姿のままで出てきてしまった僕はもうどうすることも出来ず、本棚と本棚の間に挟まって動けなく

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湖の月の釣り人

湖の月の釣り人

 絶望と希望の狭間を今日も、ゆるいテンポで行ったり来たりするのだ。
 くりかえし、くりかえしていた。明けのない、死ぬまで終わらないゆううつを含んだ生活は、怠惰と、マンネリと、先延ばしの延長。
 月光のそばを魚影が過ぎていった。夜の湖面を見ていた。堤防から釣り糸を垂らす人が糸を繰って揺らしている。その波紋に湖面の月が揺れ、波打ち、月のかたちが崩れる。
「こんばんは」と釣り人が云った。
「こんばんは」

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雪の地平

雪の地平

 夢の中に消えた鳩の行方を探していた。金曜の夜のことだ。昼間に降った雪のせいであたりはしんしんと冷えきり、暗い空の真ん中に月の大宝珠がぽっかり浮いていた。月光が雪の面を白く浮かび上がらせ、その白は地平の果てまでどこまでも続いてゆくようだった。草木の茂りも建物もない穏やかな大地の上に私はいて、吹き抜ける北風の冷たさだけが私の存在を覚えている。
 歩みのリズムは積雪の深さに比例して感覚を空けていった。

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雲にナイフ

雲にナイフ

 雲を切ったら赤い血が出た。血はまな板に丸く広がり、どこまでも広がり、ふちまで来ると点々としたたる。生きた雨雲、かつて生きていた雨雲は、ナイフの切れ込みからえも言われぬ甘い匂いを漂わせていた。血を流水で洗い流して、指を入れて中を割くとコロリ、と雷の玉が出てきた。雷の玉はまるで冬の水のように透き通った水晶玉で、照明に透かして見ると、灰色、橙、青、緑と玉の中にうつくしい層を作る。その縞模様は見ようによ

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雪に夏

雪に夏

 窓に触れる木の葉々が風に揺れて、屋上からおが屑を撒くみたいにがさがさ、さらさらと音がする。八月も暮れに差し掛かり、公園の向日葵はもううつむき始めている。
「もう寝よう」僕の声にランテコはなんにも応えなかった。彼女は窓の外を見ていた。夜の波が音もなく窓にぶつかっては引いていった。言葉は独り言になって床に転がり、水屋の角にぶつかって真ん中から割れた。
 部屋には僕と彼女の二人きりで、他にあるものとい

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ポコポコ星人とシチュー

ポコポコ星人とシチュー

 ポコポコ星人がスプーンでシチューの皿をかちかちんと鳴らした。
「だめだよ、お行儀の悪い」私の注意にポコポコ星人は何も云わず、スプーンを置いて悲しそうに顔を手で覆った。
 夕飯を摂り終え、窓の外を見やった。スケトットは弱い風に落ち葉が舞うのを見つめている。丸い木枠に繰り抜かれた風景は冷たい色を帯びて、わずかに残る街の色と混ざって絵のように完成した。
 風に揺れる枯れ木と砂、赤錆のついた手摺り、道路

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鼻ちょうちん

鼻ちょうちん

 眠るぷいぷいの鼻ちょうちんには魔法が詰まっている。ただその魔法はほんとうにささやかなものだから、空を飛んだり、海の上を歩いたり、死んだおばあちゃんを生き返らせたりできない。ただ、ぷちんと割れた先からいい匂いがして、その後ちょっといいことが起こる。それは例えば、惣菜屋さんがおまけのコロッケを包んでくれる、とか、誰かが傘を貸してくれる、とか、今日の晩ごはんにデザートが出てくる、なくしていたものが見つ

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