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哲学②「時間の存在の不思議さ」について思い考えること、に対する振り返り

※この文章は、学生時代に哲学の授業レポートで書き記したものとなります。

20時台の新幹線に乗る。窓から高速で流れ去る景色と、空の一点から見える不動の月が私の視界に映る。
新幹線と在来線は進路が同一になったとき横並びになるのだが、隣り合う車窓からはお互いの乗客の様がよく見える。新幹線乗客は、さながら優雅な一等室でリクライニングをした椅子からガラガラに空いた在来線の車内を一方的に見やる。そして、そうやって見やっている自分の姿を窓越しに鏡として認識する。
在来線の乗客は、新幹線乗客の様子などに目もくれず、くれたとしてもほんの一瞥ですぐに手元のスマホに目線をやる。
両者には共通の時間が流れない。だが、流れないように見えて、実はそれぞれがそれぞれの時間の奥行きを有している。
新幹線に乗る私の時間。新幹線に乗っている私の、私が有してきた過去の奥行き、そして幅。変わらず一定の速度で次の瞬間・瞬間を進み続ける、度に更新する未来。それに比例して増えていく瞬間・瞬間の過去。
私は、私という心臓の拍動を持って次の瞬間を生きる。心臓の持つ時間、身体の有する時間。それを思考する私の思考時間。
在来線はスピードを落とし、戸田公園駅に向けて減速を始める。私の視界から徐々に後ろへと遠ざかる車体に乗客たち。彼らには、彼らの時間が存在する。私が、私の持つ過去において奥行きと幅を有するように。
隣り合う車内で、ほんの一瞬目があったあの人とは、こうなることが決まっていたのだろうか。
あなたが有する時間、私が有する時間、新幹線と在来線が有する時間、空に輝く月が有する時間。
いつの日かまた、あの乗客と会えるだろうか。窓越しに隣り合う車内でもう一度出会えたのなら、こちらから手を振ってみることにしたい。
私が持つ時間がその人が持つ時間に介入したとき、果たして両者の時間が交わるのだろうか、とそんなことを考えながら。

20時台の新幹線に乗る。

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