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爆裂愛物語 第十六話 終わる世界

 第三次世界大戦後……日本だけではない……世界中に死の灰が降り注いだ。かつて東京と呼ばれた街も、今や見る影もなく荒廃しきっており……ゴーストタウンと化している。植物も動物も死に絶え、ただ廃墟が広がるだけだ……かつては高層ビルが立ち並んでいた場所も……今は灰色の巨大な塊が折り重なるようにして倒れているだけである……空は分厚い雲に覆われており、太陽は見えない……地上を照らしてくれるはずの光は閉ざされ、闇黒(あんこく)が広がっているだけであった。まるで世界の終焉のような光景だ……だが、それも仕方ないことであるのかも知れない……核戦争が勃発した時点でもう終わりだと誰もが思ったのだから……
 そんな中、絶望に押し潰されそうになりながらも懸命に生きる者たちが存在した……ボロボロの衣服を全身に巻き付けて流木の杖をつき、飢えと渇きに耐えながら南へと歩く二人の男だ。中嶋我路とハンス。すっかり髪と髭が伸びきった我路と、相も変わらず金髪に青い瞳の美形青年ハンス。彼らは絶望の大地を旅していた……ただひたすら南へ……アマノイワトを目指す……彼らの背後に広がる荒涼たる荒野から……もはや何時間も歩き続けていたせいで足腰はガタガタだ。全身が悲鳴を上げているのが判る……それでも彼らは足を止めなかった。少しでも立ち止まれば……もう二度と歩き出せないような気がしたからである。
「ここが東京か……北海道から随分歩いたな」
「想像はしていたが、酷い有様だ……」
 我路とハンスの眼前に広がる光景は凄惨なものであった。瓦礫の山が無数に広がっており、建物はことごとく崩れ去り、もはや原型を留めていないものも多々あった。辺りに人影はなく、鳥の囀りさえ聞こえない沈黙だけがそこには存在していた。かつては大都会として名を馳せていた東京も今やその面影はどこにもなかったのである。東京はかつて日本の政治の中心都市であったが、今ではもう見る影もないほどに破壊されてしまっていた。まるで地獄のようだ。
「ック……」
 我路はグイっと水筒の水を飲んだ。
「……放射能汚染されてるであろう水でも、飲まなきゃいけねぇとはな……」
「………………」
 ため息交じりに呟く我路の言葉を無言で聞き流すように壊れかけのラジオを取り出したハンスはそれを起動する……
『……』
ザーーーーッ……
『…………』
 ラジオの電波は黙すバカリだ。ノイズの音が耳につく……まるで絶望放送のように……世界の終わりを告げるように……やがて二人は朽ち果てた駅を見つけ、そこで休息をとることにした。駅のホームには誰もいない……錆びついたベンチの上に、ボロボロの布切れを巻き付ける二人の男が流木の杖をつき、腰を下ろした……。彼らはしばらく無言でいた……。乾いた風だけが吹き付けている。そんな時間がどれほど過ぎただろうか?
「なぁ、我路?」
 不意に声をかけたのは、ハンスだった。
「ボクらはアマノイワトに到達するまで、生きていられるのだろうか?」
 その声にはすでに、覇気はなかった。
「仮に到達したとしても……放射能にまみれたボクらが、アマノイワトに入るのは、危険すぎる……」
 アマノイワトへ到達できるのか……? そもそもこの先に未来はあるのだろうか? 生きることの意味は何なのか? 何のために闘うのか?
「終わる世界……滅びゆく世界……消える世界……そこに、もはや千年王国再生の理想も、第三帝国の誇りも、主義も、理想も、理念も……何もない……何も、もう、意味をなさない……」
 ハンスは虚ろな眼で呟いた。
「そうかもな……」
「このまま、世界が滅んでいくのを眺めるだけなのか?」
「……だとしても……」
「⁉」
 ふと……気配がした。それは……ヘルメットを着け、布を口元に覆い……ゲバ棒や鉄パイプなどを手にした……十数名の男たちであった……。略奪者、暴徒、盗賊……ありとあらゆる犯罪者たちがそこにいた……。終わる世界の中で、失うモノなど何もなく、ただ奪いただ犯しただ殺すことしか知らないケダモノたち……
「……!」
 我路とハンスが身構える! 対する男たちも武器を構え、こちらを睨んだ……! 我路は日本刀を、ハンスは……ワルサーP38を手にしていた……そして男たちは……一斉に襲いかかってきた!
 我路は日本刀を片手に斬りかかる!……スッ……。ヒュッ……キィィン!! ただの暴徒は志宿る瞳をした我路を相手にかなうはずもなく次々と倒されていく……
 バン!! バン!! バン!! カランカラン……ハンスはワルサーP38を構えると発砲する! 放たれた銃弾は的確に男たちの身体を撃ち抜いた!ドサッ……男たちの身体は崩れ落ちるように倒れる……! それを見た残る男たちが一斉に襲いかかるが……ガキイィインッッ……!! 一閃……我路は日本刀を振るうと瞬く間に四人もの男を斬った……。全身に巻き付けたボロボロの布切れをなびかせながら走るその姿はまさに夜叉のようでもあった……。
「!」
 全身に巻き付けた布切れを微動だにさせず、ハンスはワルサーP38を冷酷かつ正確に撃つ。カランカランと、薬莢の音が響き、硝煙の匂いが立ち込め、地面には死体が転がる……。ハンスの眼は虚ろながらも鋭く冷徹に、まるで魂のない機械のように暴徒たちを狙い撃つ。だが……
「⁉」
 ハンスはとっさに裏ポケットに手を伸ばすが……屈強な男がバットを振り上げ、眼の前に⁉ その時「!!」
 我路だ。我路は刀についた血を振り払い倒れた男を踏み越えると、ハンスに立ちはだかる残った一人の男の首に狙いを定め……男の首が堕ちた……。ヒュン……グサァアアアアッ!!!ザシュウッ!!!!ブシャアアアアッッッ!!!!! 鮮血が飛び散り、辺りを赤く染め上げた……。辺りには生臭い血の臭いが立ち込めた……。
「……」
 ハンスはその返り血を優雅なまでに避ると……無言でワルサーP38を納めた……。
「悪いニュースだ、我路……弾が切れた」
「ハァ?」
「残弾数ゼロだ」
「……他に武器は?」
「ある。短剣(ドルヒ)を持ってきた」
 ハンスは裏側から鞘に収まった短剣を取り出す。黄金色の装飾にルーン文字が刻まれている。刃渡り30センチの諸刃の剣だ。ハンスは腰のベルトにくくりつけた革製のケースに入れた。
「……」
 ハンスは浮かない顔のまま黙り込む。
「どうした?」
「ボクらはこの、飢えと渇きが支配する、死と絶望が支配する、放射能と無秩序が支配する世界で、生き残れるのか?」
「は?」
「仮に生き残ったとしても……そこにはもう、主義も理想も理念もない……千年王国再生の道は閉ざされ、第三帝国の誇りも失われるだけだ……総てが……消えていく……」
「クックック……」
「?」
 我路はそんなハンスを見て不適に微笑んだ。
「何が可笑しい?」
「いやねぇ。ハンス、お前さん。完全なる兵士、の割に、エラく感傷的なんだなって」
「⁉」
「とりあえずんな先のこたぁ考えるな。それより……“夢”を持とうぜ。“信仰”を、“希望”を」
「は?」
 我路は不敵な笑みを浮かべたまま、日本刀の柄をハンスに向けて言った。
「とりあえず生き残ること。そしてアマノイワトに辿り着くこと。そっから先はそれから考えればいい」
「……」
「主義も理想も理念もねぇんだろ? だったら黙って着いて来い」
「……ッフ」
 ハンスは笑って見せた。
「キミはやっぱりバカだね」
「ハァ⁉」
「でも……バカの言葉は、こういう時肩の力を楽にする」
「なんだそりゃ?」
「いや……」
 ハンスは笑顔を見せ、遠い空の向こうに視線を移した。
「偉大なる英雄、アドルフ・ヒトラー総統閣下も……ちょうど、キミのようだったのかな? と……ふと思ったのだ」
 その表情にはもはや狂気の色は見られない……。まるで雲の隙間から青空の欠片を見つけたように、清々しいくらいの穏やかな表情だ。それに思わず我路も見惚れてしまう。だが、すぐに正気に戻り、こう返したのだ。
「とりあえず歩くぞ。ここは危ねぇ、どっか別の寝床を探す」
 我路はぶっきらぼうに言うと、再び歩を進め始めたのだった……

 二人は歩きながら辺りを見渡す……。破壊された街は相変わらず静かで不気味だった。電柱は折れ曲がり、電線は垂れ下がり、アスファルトは砕けてガラスの破片が散乱していた。瓦礫に足を取られながらも我路たちは歩き続ける。かつてあったハズの高層ビル群は今や瓦礫の山と化し、かつて人々が行き交っていたであろうスクランブル交差点は、髑髏の山へと成り果てていた……。そこら中に放置されている自動車は、まるでゴミのようだ。その光景は世界の終末を描いた絵画のような様相を呈していた……。
 そんな光景を見つつも歩みを止めずに進んでいく我路たち……やがて大きな教会の廃墟が見えて来た……教会だ……ギー……と、扉を開く。ボロボロの布切れを全身にまとい、流木の杖をついた男が入ってくる。ボサボサの伸びきった髪に伸びきった髭、肌は荒れ、頬はこけ、だが眼光だけ光輝いている……中嶋我路。その背にはハンスが着いてきている……かつては荘厳であったろう聖堂内は今や見る影もなく、荒廃していた……ステンドグラスも砕け散り、長椅子は倒されて床に転がっている……。床板も朽ち果てており、木くずや腐った藁などが散乱して足元を汚す……。祭壇の向こうでは十字架だけが無傷のまま静かにたたずんでいた……牧師の姿はどこにもない……。
 我路はキョロキョロと見回すと、奥にある木製の扉の取っ手に手をかける……開いた瞬間に埃っぽい匂いが鼻を突いた……そこは小さな礼拝室になっており、正面には大きなステンドグラスがあった。色鮮やかな光が差し込んでいる……その下には古びたパイプオルガンがあった。
「……礼拝堂なら、雨風をしのげる」
 我路はそうつぶやくと、扉を閉める……
「今日はここに野宿だ」
 そう言って、埃っぽい椅子に腰をかける……続いて向かい側の椅子にハンスは座ると、ふと横を見た。
「?」
 不思議に思って視線を横に向けると……
「⁉」
 そこには……朽ち果てたマリア像と、足元に……倒れる磔の神の姿があった……我路はそれをジッと見つめた……
「……神、か……」
 そう言って見たそれは、蜘蛛の巣と埃に覆われてすっかり廃れていた。まるでただの汚い塊だ……。そんな姿を見ているうちに……なんだか哀しくなってくる。なぜこんなにも惨めなのだろう?
「……フン……」
 我路は興味なさそうに鼻をならすと、そこから離れていき、瓦礫の上に乗って寝転んだ。
「……」
 ハンスは無言で立ち上がる。ゆっくりと歩み寄ると、しゃがみこんで埃まみれになったマリア像を見上げた。
「……神は死んだのか?」
 そう言うとマリア像にもたれかけるように寝転び、マリア像に頭を預け、
「……」
 水筒の水を飲んだ……放射能に汚染されているであろう水を……喉の渇きを潤すためにゴクゴクと飲む。そして……ジッと水筒を睨んだ……

 その夜……我路はイビキをかきながら瓦礫の上で寝ている。ボロボロの布切れを全身にまとい、伸びきった髭と髪の隙間から、薄汚れた顔を覗かす……。その向かいには同じく布切れに身を包んだハンスが朽ちたマリア像にもたれかかるように眠ろうとしていた……傍らには古いパイプオルガンがあり、錆び付いた鍵盤が見える……その近くには埃を被った聖書が置かれていた……。廃墟と化した教会にて、二人は夜を過ごす……お互いの寝息のみが聴こえてくる静かな時間だった……だが、
「……」
 ふと目覚めたハンスが、頭をかく。すると……
「!?」
 髪が……金の髪が、ハンスの手の中に、抜けている……
「……」
 それを見たハンスは、外に出た。出たくなったのだ。外に出ると、辺りは漆黒の夜だ……死の灰が覆う闇夜に、月の光も星の光も届かない。漆黒の闇だ。光届かぬ闇夜をボロボロの布切れを巻き付けたハンスがユラユラと歩いていく……その足取りはまるで幽霊のようだ。やがて立ち止まったハンスは、手の中で髪を見つめた……まるでそれが愛する女性の体の一部でもあるかのように愛おしそうに……だがそれも一瞬のことで、彼は無造作にそれを放り捨てる……手の中の髪は風に乗って散っていく……闇に消えていく……そして再び歩き出す……夜の闇へ……彼の姿が見えなくなると、残された髪の毛もまた風に吹かれて舞い上がり、やがて暗闇の彼方へと消えていった……まるで闇の彼方を飛ぶ、黄金の鳥たちの如く……

「ふぁ~あ」
 朝……廃墟の聖堂で我路があくびをして起き上がる。ボサボサの伸びきった髪と髭をポリポリとかき、全身にまきつけた布切れを巻きなおした……すると、
「!」
 異変に気付いた。
「ハンス……?」
 そうつぶやくと我路は立ち上がり……

 バン!! 教会の扉を開いた。そこには昨日と変わらない絶望の景色……見渡す限りのゴーストタウン。人の姿はなく、あるのは崩れ去った建造物の残骸だけ……荒廃しきっており、辺りには灰や塵芥、そして髑髏が転がっていた……。風が吹き抜けて砂ぼこりを巻き上げると、瓦礫の表面を覆い隠していた埃が舞い上がっていき……
「!」
 黒い雨が降る……空から落ちてくる厄災の塊のような大粒の雨。
「……ブラックレインか……」
 瓦礫をまるで零れる涙のように黒く染め上げる。放射能にまみれた死の雨……
「絶望、だな」
 この雨の中では人も動物も植物さえも生きられないだろう……。
「……教会でジッとして、雨をしのいだ方がいいな……」
 空は暗い……暗く、重く……この世の終わりを思わせるほどの暗雲に覆われていて……その下では死の街と化したゴーストタウンだけがひっそりと眠っている……。
「だが!」
 降り注ぐ太陽の光もない暗黒の世界……それがこの世界の全てだ……。
「あいつを見棄てるワケにはいかねぇ」
 死神すら怯える地獄の風景……残酷な世界を、我路は歩き出す。黒い雨に打たれ、髑髏を踏み越えながら、爛れた大地を踏みしめ、放射能に満ちた空気を吸い込み、もはや原型を留めていない骸をまたぎ、一歩、また一歩……絶望の中を歩み続ける。

 どれだけ歩いただろう……黒い雨は降り続き、あたり一面を覆っていた灰色はもはや漆黒に近い色になっていた……ふと見上げると空までがドス黒く染まっていた……
「……」
 だが、そんなことなどどうでもいいのだ……こんな世界で生き残っていること自体が奇跡なのだから……どんな苦しみも、どんな哀しみも、生き延びるためなら受け入れなければならない……それが生きることの意味なのだ……黒い雨に濡れるフード越しに空を見上げた……曇り空の下でもはっきりとわかるほどに汚染された灰色の大気……地上に降り注ぐ放射能を含んだブラックレイン……それら全てを覆い隠す曇天だ……その中を歩き続ければいつかは残酷な死へと変わる……その時こそ、本当の終焉の時なのかもしれない……
「ハンス……」
 だが今は進まねばならない……彼はフード越しに辺りを見回す。絶望の景色に生存者はいないようだ……しばらく歩くと、地下鉄の駅が眼についた。
「……」
 深い理由はない。ただ、地下から……異様な気配を感じた。それは、何とも言えない不快な空気感と、そして……
「なんだこの匂いは?」
 何とも言えない異臭がしたのだ。鼻を突くような、強烈な悪臭だった。まるで腐った肉と卵、汚物、それらが無秩序に溶け込んだような匂いだ。
「……」
 言いようのない気配と共に、我路は、地下鉄の闇へと歩き出す。階段を一歩一歩踏みしめるように降りて行くたび、異様な気配が強くなる。
「これは……」
 そして地下一階まで降りると……地下鉄駅構内全体、いや、線路にまで……呂律の回らず、虚ろな視線が定まらない、ゾンビのような人間の群がいた。全員が痩せ細り、骨と皮しかない体で、力なく横になり力なくもたれかけ力なく座り込んでいた……生ける屍の群れのようだ……ある者は口から泡を吹き、ある者は失禁し、ある者は発狂したように嗤いだし、ある者は壁を叩いたり引っ掻いたりしていた……まともな者など一人もいない。みな生きることを諦めた廃人だ……
「……」
 我路が異臭の中を歩き出すと、彼等の足元には……
「……」
 注射器や錠剤のゴミ、覚醒剤のシートなどが散乱している。
「なるほど……ドラッグ中毒の巣窟か、ここは」
 狂気の果の楽園か? それとも奈落の底か?
「死と絶望に耐え切れず、現実から逃げ、ドラッグに溺れたモノどもの巣窟」
 地獄のようだ。どこまでもおぞましい場所だ。吐き気がするほど。
「現実を諦めたモノたちが最後の救いを求めてたどり着いた終着点……か?」
 我路は線路を降り、歩き出す。生きる屍たちの間をゆっくりと歩いていく……足元に広がる惨状を見つめ、静かにため息をつくと、そのまま線路を辿っていくことにした……いろんな人間が闇にいた。常に発情する女。薬物による禁断症状に耐えられず泣きわめく男。ナメクジのように這う老人に、生理の血を顔にこすり付けて快楽を得る少女。線路の小石をひたすら積み上げる少年。狂ったようにまぐわい嗤い続ける男女。腐敗したまま蛆虫とともに蠢く青年……そのすべてが死を待つだけのモノだった。
「何処に行く?」
「⁉」
 ふと振り返ると、そこには……老人がいた。
「もうみんな死んだよ」
 老人は笑い続ける。虚ろな眼で嗤いながら、うわ言のように語り続ける。
「……」
 我路はそんな老人を背に、我路はハンスを探して線路を辿った。しばらくすると、線路脇に小さなテントが見えた。中には誰もいなかったが、地面に汚れた注射器やら薬の包装紙が散乱していた。おそらくここにいた中毒者のものだろう。
「……ちっ」
 こんな場所に一秒たりとも長居はしたくない。すぐにその場を離れようとした時だった。ふと視線をずらすと……線路脇の壁のそばに何かが見える……近づいてみると……
「!」
 壁にもたれかかるようにして座っていた……ボロボロの外套のようなモノを着た青年は、まるで眠っているかのように瞳を閉じていた。生きているのか死んでいるのか判らないほどに静かに……呼吸しているのかすら定かではないほどだった。
「ハンス⁉」
 我路は思わず大きな声を出すと、そんなハンスの前に立ち寄る……急に心に哀しみが込み上げてきたのだ。何故だろう……? 判らないが何故か涙が零れ落ちそうになるくらい切なくなったのだ。胸が張り裂けそうなくらい苦しかったのだ。こんな気持ち初めてだ……!
(どうして……オレは泣いているんだ?)
 心の中でそう呟いてみた。だが答はない。代わりに感情が漏れてくるだけだ……ただただ胸の奥底から込み上げてくる激情だけしか存在しなかったのである。そして気が付けば、勝手に体が動いていた!彼は無意識にそっと手を伸ばし……ハンスの襟を掴んだ。
「起きろハンス!!!! なにヤクに溺れてんだよぉ!!!! なに逃げてんだぁ!!!!」
 気がついたら泣いていた。泣きながら我路はハンスの肩を掴みながら叫んだ……。
「第三帝国の誇りは何処に行ったぁぁぁ!!!!!!!!!!!!!!!!」
 そんな怒号を浴びせると、ドッと涙があふれてきた。なぜだろう? なぜこんなにも哀しいのか。わからないまま、ただ涙が流れたのだ。すると……
「……ん……」
 かすかにうめき声が聞こえたような気がした。
「……う……」
 聞き間違いではなかった。微かに声が聞こえるではないか!
「キミに言われちゃ……お終いだね」
 ハンス……そう言って笑っていた。その笑顔は、薄汚いにも関わらず美しく見え……今までの彼の笑顔の中で、一番素直に見えた。
「ドラッグはしてない。ちょっと休んでいただけだ」
「ッハ……人騒がせかよ……」
 思わず安堵の笑みを漏らしてしまう我路は、ようやくいつもの調子を取り戻したらしいハンスを見るなり、手を差し伸べた。その手を、彼は掴む。そして……握った手に力を込めた。すると!
「⁉」
 地震だ。かなり大きい。思わず体勢を崩してしまうほどの揺れだった。我路はとっさにハンスの腕を掴む。
「走るぞ!!」
「ああ!!」
 我路の声に呼応するかのように、彼も叫んでいた。そして同時に二人は走り出す……地下鉄駅を出ようと、線路を走り出す。その途中で、何人もの中毒者が景色に過ぎ去っていった。みな一様にして空嗤っていた。まるで総てを諦めたように。光を宿さない瞳で、虚ろに、嗤っていた。その様子を見て我路は思った……これが彼等の望みであり、救済、なのだろうか? と……絶望の果に行き着いた答がこれなのだとしたら……世界はあまりにも残酷過ぎると思った……。
「クソっ……!」
 そんな思いを振り払いながらも走り続けていると……
「ガンバレー」
「⁉」
 か細いけれど、声が聞こえた……それは、
「ガンバレー」
 老人だ。先ほどの老人が、こちらに手を振っている。
「ガンバレー」
 まるで励ますように。孫の運動会でも応援するような微笑ましい表情を向けている。だがその姿は一瞬で落石に呑まれていった……。
「ック……」
 我路とハンスは走った。後ろはもう見なかった。右も左も見ずにただ前へ、ただ地上へ……真直ぐに線路を走り抜け、ホームをよじ上がり、改札を抜け、階段を駆け上り。そしてついに地上に飛び出た……!!
「!!」
 黒い雨はすでに止んでいた。しかし……大地震により、大地は大きく隆起しており、地形までも変化していたのだった……。もうそこに街と呼べるものは存在していなかった。そこにあったモノは総て崩れ去り、瓦礫の山となり、かつての文明の面影は一切消え去っていたのである……。人類が築き上げた都市は、その名残すらも崩れ去った……
「……」
 呆然と立ち尽くすしかない二人だった……もはやなにも言葉が出なかったのである。先ほどまであったはずの街は、影も形もなくなっており、すべてが更地になっていたのだ。だが
「⁉」
 再び大地が揺れ……
「余震か⁉」
 そう言って身を構えていると……
「!!」
 
 ドーーーーーーン!!‼!!!!!!!!!!!!!!
 
 巨大な轟音が地球を揺らす。まるで、大地そのものが怒り狂っているかのような轟音だった……それは、
「⁉」
 遠くから炎の龍が見えた。富士山だ……富士山が、まるで浮き出る血脈のように赤黒いマグマの亀裂に覆われ……巨大な火の柱を噴き上げた!! 大噴火だ!! 火柱が上がる、天を貫くような業火が立ち上る……!! それから、爆弾のような火球がドス黒い空から地上へ降り注ぐ。大地を揺らし、轟音を響かせながら降り注いだ無数の火の塊は、次々と地面に激突し、その度に大きな爆発を起こしていた……そして火山灰が空を覆いつくす! 灰色に染まる世界、太陽を遮る厚い雲によって、辺り一面真っ暗闇になる!絶望の闇に……溶岩の赤みを帯びた光が不気味に照らす中、炎の龍が富士山の火口から空へ舞い上がり、大いなる力が総てを滅ぼす。
「生きてやる!!」
 我路はハンスの手をギュッと強く握って叫んだ。
「生きてやる!! オレたちは!! 生きてやるぞ!!!!」
 絶望という未来への恐怖を吹き飛ばさんとするほど、激しく、熱く、そして雄々しく叫びを上げる! 燃える赤い瞳を輝かせ、胸を張り力強く前進して行く!! 世界が闇に包まれる中、唯一の光として輝く太陽のように、彼の眼だけが輝いていた!!

「……」
 終わる世界の中……分厚い火山灰に覆われ、今が昼なのか夜なのかも判らなくなってしまった中、二人はひたすらに南へ南へ……アマノイワトへと向かっていくのだった……。枯れた彼岸花……焼けた草花、濁った水面、焼け落ちた家々、崩落する道路……死だけが平等の世界でただひたすら歩き続けるしかなかった……この絶望の世界の中で……希望の光を探し求めるように……。
((絶対に……生き延びてみせる……必ず生き残ってみせる……!!))
 そう心の中で叫ぶふたりであった………………………………やがて、
「⁉」
 黒い雨が……また降り注ぐ。
「っクソ!!」
 我路とハンスは慌てて雨をしのげる洞窟を探し、走った。彼らは急いで穴の中へ入って行った。
「いつ降るともしれねぇからな……常に雨をしのげる場所を探さねぇと……」
 彼等は洞窟の中で息を潜め、身体を休めた。黒い雨が世界を覆う。闇黒(あんこく)に覆われた世界の中で、二人だけの時間が流れた……。
「……」
「⁉ ハンス、お前……」
 そこで我路は見た。ハンスの……黄金色の髪が、抜け落ちるのを。
「……いつから」
「……中毒者巣窟のちょっと前」
 二人の間を沈黙が狂う。長い沈黙だった……。静寂に包まれた洞窟の中で、ふいに風が吹いた。ひんやりとした冷風に身を震わせながら、ふたりは言葉を交わし合うのだった……。
「……ふふ、美貌も声色も、ボクの中では利用していただけの代物だが……こうして朽ち果てると、なんだか寂しいモノだね……」
「……」
「……心の中の柱まで朽ち果てるようだ。誇りも、正義も、信念も……」
「バキャロ、オレの女はな」
「……」
「自分(テメェ)の身体傷つけられて、それでも奪えない心がある……オレの言葉に支えられたとか言ってっけど、選んだのは自分(テメェ)だ。自分(テメェ)の力だ。心だけはな」
「っふ……自分の女を話の盾にする辺り、キミもズルいね」
「……」
「その薄汚いなりのようだ」
「……」
「そういえば……」
「?」
 ハンスはふと我路の姿を見てみた。ボロボロになった布切れを全身に巻き付け、汗と埃、汚れにまみれた肌は浅黒く、髭と髪は伸ばしっぱなしのボサボサで、眼だけは異様にギラギラしている。まるで野生の狼のように美しく勇ましく見える……。
「……キミはなぜ平気なんだ? 放射能汚染に個体差があると考えても、元気すぎる」
「⁉ そういえば……」
 我路は自分の頭を触ったり、身体を叩いてみたりして調べるのだった。彼は不思議そうに首をかしげるバカリだった。
「……まさか……」
「ん?」
「我路……“カン”なんだが……もしかしたら……」
 ハンスは微かな力を振り絞るように、我路にある事を話し出す。すると我路はハッと眼を見開かせて、自分の身体を見てみた。
「……試してみる価値はあるかもな」
「構わないか?」
「ああ……来い」
 我路はクイっと笑みを見せると、自分の首筋を差し出した。それを見たハンスは眼を細めてニタリと嗤った。それから、そっと彼の首筋に舌を這わせて舐めてみる。少し塩辛い汗の味と、ほのかな鉄の匂いが鼻をくすぐる。舌に触れる滑らかな感触が心地いい。
「……」
 そして……そのまま歯を立てて、一気にかぶりついた……!!
「ック!」
 鋭い痛みが身体中を駆け巡る!! しかしそれは一瞬の出来事であり、痛みはすぐに和らいだ……まるで心地よい微睡みの中にでもいるかのようだった……。身体の芯まで響くような甘酸っぱい刺激と、とろけるような官能的快感……それらが全身を貫く……!! 全身に痙攣するような震えが起き……血が吸い取られる。意識が遠のきそうになる中、さらに強い快感が訪れる……そして……何かが脳髄の奥で弾けて爆発し、爆発した中から快楽物質が溢れ出してくる……その瞬間、全身に雷のような電撃が走った! 頭の中が真っ白になり、視界が歪み、何もかもわからなくなり……気づいた時には……我路の身体はもうすでに再生されていたのだった……。

つづく


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