焦り は逆効果だったみたい
今年ももうすぐで終りますね。
取引先とのZoom忘年会で「今年はどんな一年だった?」と聞かれた際に自分の口からポロッと出た心の声と、その背景にあった心境を書いて残そうと思います。
今年はどんな一年だった?
取引先のお偉いさん:「今年一年を振り返ってみて、どんな年だった?」
そう聞かれた時、真っ先に浮かび上がって私の口から出たのは
「今年はなんだか、とてもすごく焦ってしまっていました」
という言葉でした。
その発言の心境
独立して仕事をし始めてちょうど一年ぐらいが経った頃(今年の秋あたり)、日々の仕事に少しずつ慣れてきたがゆえに「自分はこのまま今の生活を続けていて良いのかな」「もっと何か新しい仕事をしたほうが良いんじゃないかな」「収入にも波があってまだまだ半人前の自分はこれからどうやって生きていこう」みたいな感じで、色んな意味で慣れてきたからこそ出てくる焦りがありました。
会社員を辞めた直後、今の仕事を初めてすぐの頃は、請負った仕事を納期までに行うことで精一杯で目の前のことが出来るかできないか、今日か明日の締切に間に合うか否かしか頭になかったのに。
だから良い意味で捉えるのであれば「焦り」が自分に浮き出てきたということは、それだけ余裕が出来てきたってことなんだと思うけれど……。
でも 焦りすぎて 眠れなくなってしまった
そんな焦りがピークに達した時期、私はついに眠れなくなってしまいました。
眠れないというか、寝付けなくなった? つまりは寝れなくなったのです。
身体は疲れていて、たしかに眠たくて明日に備えて寝たい一心なのに頭の中がうるさくて眠れない。街は寝静まって静かなのに自分の頭の中だけがとにかくうるさい。考えが止まってくれない。
寝よう寝ようとすればするほど眠れなくなっていく。
「寝れない」と焦れば焦るほど、眠りからは遠ざかる。
寝付けない夜を過ごすのはただただしんどくて、苦痛の時間でしかありません。
まばたきをする度に薄明るくなっていく部屋、聞こえてくる新聞配達のバイクの音と鳥の声。あぁもう朝だ…と思って区切りを付けることのできなかった延長線上の1日に備えてまた起き上がって。
こういう日があると、普段ふつうに意識せずに眠って朝を迎えることがとっても素晴らしくって、それに憧れるようになります。
すると、このひたすらに眠れなくて頭の中がうるさい状況で気がついたんです。
焦れば焦るほど、手にしたいものが遠のいていってしまう感覚。
これって起きている自分と同じだな、と思いました。
寝れずに始まった朝一からのオンライン会議に出席して、そこで炙り出された修正箇所を訂正してはすぐに送り直して。その後には溜まったメールや問合わせへの返信を次々に書いてく。でも寝れていないからか、返信の文章が頭に思い浮かばない考えられない。頭が上手に使えなくなったような感覚で、シナプスが繋がっていかないような連想ゲームが一切できないような、そんな感覚でした。
やっぱり人間って十分な睡眠を取らないと、こんなにもパフォーマンスが下がるものなんだなぁって思いながら、絶対に徹夜自慢はしないと決心しましたた(それは別にどっちでもいいけど)。
ただ、やっぱりそんな状態で仕事をしていると些細なミスが多くなってしまって。メールの取りこぼしやファイルの間違い、うっかり忘れていた対応箇所。そして極め付けには自分一人が対応して済む業務だけでなく、取引先の代表にまで対応をお願いしなくてはいけないミスを犯してしまいました。
ヘコんだ。
これにはだいぶヘコんだ。
何度も相手先に謝り、対応をしてもらったが迷惑をかけてしまった事実は変わりません。
でもそこでやっと目を覚ますことができました。
目の前のことをすっ飛ばして、どこかに一気に飛んで行こうとすること自体が間違っていたのだと。
今この瞬間を大切に積み重ねた先に未来が出来上がるということを忘れてしまっていました。
つまりは、無いものねだりをしてしまっていたことに気がついたんです。
寝れない寝れないと思うと余計に眠れなくなってしまうのと同じように、焦れば焦るほど手にしたいものから遠ざかっていくこと、それらがリンクしているような経験でした。
現状がもどかしくて、まだまだそこに辿り着けず何も手につかむことのできない状況が苦しいからこそ、またさらに焦って頭がオーバーヒートしてパンクしてしまいそうな、それって逆効果じゃんって素直に思うことができました。
目の前のことに一生懸命取り組む。それが出来るようになって初めてまた次のステップが徐々に見えてくる。そして見えてきたとき、自然と足が進んで登ることができる。本来のステップとは、おそらくそんな感じのものだと思いました。
それに気がつけたとき、心のなかで「必要なことは必要な時にもたらさられるものだから大丈夫」と自分に言い聞かせて。
そしたら自然と眠れるようになったんです。
やはり過度な「焦り」は禁物だったみたい。
焦るけれど、焦らずに、目の前のことに集中して「今ここ」を楽しんで、そうしたらもうちょっと心が軽くなって、気軽にポンッと次のステップに飛べるかもしれないなと。だから焦るけど、焦らないことにしてみました。
「焦り」の原因
でも、この強烈な焦りの感情は一体どこからきているのかなと考えてみて、自分がその感情が湧き上がる瞬間に意識を向けてみたら。
すると、その正体はやっぱり「比較」でした。
他人と比べて自分はどうか、同い年の友人と比べて自分はこうか、SNSを見ているときにこれらを無意識に、でも強く何度も考えてしまっていることに気がつきました。
おそらく少し前までの時代では「比較」というものがある程度、必要だったのだと思います。例えば クラスで自分はどれだけ勉強ができるか、あの子に比べて私は点数が下だからもっと頑張ろうなんて。
でも社会人になったり大人になってくると、そもそも「比較」がとてもナンセンスなことになってくるように感じます。だって誰とも何も同じ基準では測れないから。
幸せの定義も、成功の定義も、全てが人によって異なるから。
それなのに、同い年の友だちがすでに家族を持っていたり子どもがいたり、はたまた仕事で出世していたり、もしくはインフルエンサーのようになっていたり。
そういったそれぞれの姿の一番良い部分を抽出して、全てを自分と比べてしまっていたことに改めて気がつきました。
だから自分の芝生をどれだけ耕しても隣の芝生はいつまでも青く、そして「向こうの品種のほうがよく育つのかも」なんて考えて、今まで大事に自分が好きで育ててきた芝生を刈ってしまう。
そしてまた別の家の庭を見ては「あぁ、やっぱり花を植えた方が見栄えがいいのかも」なんて考えて、自分の芝生をお花畑に変えてしまう。自分の趣味でもないのにも関わらず。
だからいっそのこと、SNSの個人アカウント全てからログアウトしてみた。いわゆるSNSデトックス。これが個人的にとても良かったです。
無意識に見て搾取されていた時間も減り、その分 自分が好きな映画や本を読んだりするようになって。そして何よりもスマホで頻繁にチェックして無意識に刷り込んでいた他人の価値観や、他人から発せられる "魅せたい自分" のようなものを見なくなった影響か、自分からも"魅せたい自分" を見せる欲求がなくなりました。
つまりは、外に向かって自分をよく見せたい or 見られたいと変に飾る必要も、その欲求からも解放されました。
これがとても楽で。
だって一番大事なのは、外側ではなく自分の内側だから。
幸せを感じるのはいつだって自分の内側なのだから、その内側を守ることをしたい。
その内側までもを、他人の「外側」に支配されたくない。
「焦り」のパラドックス
色々書いてきたけれど、今回気が付いたことを一言で表すのであれば
「焦り」は今を生きていないことだ と感じました。
焦っている時というものは、いま目の前にある現状ではない何かを探し求めていることで、もちろん、その焦りの感情が必要な時もあると思うけれど。
そしてその焦りが正しいと感じる時、それはその人にとって必要なタイミングでもたらされているとも感じます。
でも今回の私の状態は
今すべきこと = 目の前の仕事、きちんと眠ること
をせずに(できずに)、
どこにもまだ存在していない何か特別なものを追い求めてしまっていた。
でも睡眠をきちんと取らなかったら日常で何もできないのと同じように、いま自分の目の前にもたらされていることを全部すっ飛ばして未来の何かが手に入るなんてことはまた違うのだと、知りました。
だから今はとりあえず焦らず、比較せず、目の前のことに一生懸命に取り組むようにしました。
取り組んで繰り返していくうちにまた新しい次のステップが見えてきて、自然と足が進んで登れるような、そんな階段のようなスターダムを目指して今日も私は仕事をする。
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