【ドイツ一人旅】ロココの傑作・サンスーシ宮殿にジャガイモをお供えしてきました
こんにちは。
ドイツ・ミュンヘンで留学生活を送る大学生、桜です。
旅行続きで時間が空いてしまいました。
今回はベルリン一人旅の続き、「世界遺産にじゃがいもをお供えしてきた」編。
前回のベルリン旅↓
ジャガイモを手にサンスーシ宮殿へ
朝起きてまず向かったのはホテル近くのスーパーマーケット。
買ったのはジャガイモ一個。
なぜジャガイモなのかは今は内緒。
ベルリンで買ったそれだけを鞄に忍ばせて、ポツダムにある目的地へ向かいます。
途中で通ったのは、ポツダムのブランデンブルク門。
同じ名前の門がベルリンにもありそっちのほうが圧倒的に有名ですが、歴史でいえばこちらが20年ほど古いそう。
門の前の広場ではクリスマスマーケットが開かれていました。
一人で朝からグリューワインを飲むの気にもならず、マーケットはスルーして目的地へ。
やってきたのは、サンスーシ宮殿。
時期は12月上旬、ついこの間大量の雪が降ったこのあたりは今も辺りが白く染まって冬のドイツを感じさせます。
並木道を通ってサンスーシ宮殿へと向かいます。
見えてきました。
主に北ドイツを中心に栄え、ドイツ帝国の成立とともに消滅したドイツ三大王国の一つ・プロイセン王国の最強時代を築いたのが、このサンスーシ宮殿を建てたフリードリヒ2世でした。
大王と呼ばれた彼は、啓蒙専制君主(啓蒙思想:「神様じゃなくて人間中心!」に基づき、絶対王政のもとで合理的な改革を進めた君主)の代表格として、富国強兵政策を行いました。
彼の功績でもっとも称えられるべきなのは、オーストリア=ハプスブルクを打ち負かしたオーストリア継承戦争~七年戦争でしょう。
この時代に世の中を動かした三人の女性、墺・マリアテレジア、仏・ポンパドゥール夫人、そして露・エリザヴェータの「三枚のペチコート作戦」にも屈せず、新興国プロイセンがヨーロッパ屈指の名門ハプスブルクを打ち負かしたことが、彼の強さを示しています。
ハプスブルク好きの私ですらかっこいいと思ってしまうその“大王”っぷり。
そんなフリードリヒ二世ですが、のちのドイツ人に与えた最も大きな影響と言えるのがこの「ジャガイモ」なんです。
七年戦争当時、食糧難に苦しむ国民に初めてジャガイモの栽培を推奨したのがフリードリヒ大王。
冷涼な気候でも丈夫に育つジャガイモはドイツ国民を食糧難から救い、それ以来ドイツ人の食卓に主食として定着したそう。
宮殿の目の前までやってきました。
無憂宮と呼ばれるロココの傑作・サンスーシは、その名の通り王を政治や王という肩書から解放し、彼は一国の王としてではなく一人の人間として音楽などを楽しんだそう。
そして宮殿に向かって右側に歩いていくと、私がジャガイモを持ってきた理由がわかります。
こじんまりとした柵に囲まれたスペースが。
そう、ここサンスーシ宮殿にはフリードリヒ大王の墓があり、訪れた人々はジャガイモで人民を救った彼に感謝の意を込めてここにジャガイモをお供えするのです。
私も前の人たちに倣って、隅っこにそっと置いてきました。
ドイツに来てからと言うもの、ビタミンや食物繊維、カリウムなどを豊富に含むジャガイモに助けられているので、私も感謝の気持ちを込めて…
「地球の歩き方」でお墓のことを知ってからというもの、ドイツでやりたいことリスト上位に入っていたタスクをやっと達成しました。
サンスーシの庭園
世界遺産に登録されているこの宮殿ですが、実は宮殿だけでなく庭園が丸ごと世界遺産に登録されているのです。
庭園はめちゃくちゃ広大で内部を路線バスが走っているのですが、
せっかくの雪景色を楽しもうと、私は歩くことにしました。
12月上旬のサンスーシは、秋の落ち葉と冬の雪で綺麗。
オランジェリー
こちらはイタリア式の宮殿とその庭園。
宮殿自体は公園内で最大級の大きさを誇るのだとか。
チャイニーズハウス
中国茶館と言いつつも、色遣いはすごくヨーロッパ風の建物。
新宮殿
そして新宮殿。
バロック様式が美しい赤レンガ造りの新宮殿は、フリードリヒ2世の命によってつくられた18世紀最大の城。
宮殿がお休みだったのかなんなのか、この日はいずれの宮殿も中に入らず外観だけを見学して終わったのですが、ブドウ畑の綺麗な夏にリベンジしたいです。
ユダヤ人“最終的解決”の現場
続いて、ベルリンからほど近い場所にあるヴァンゼーという湖。
夏は湖水浴、冬はアイススケートなどが楽しめて観光客で賑わうヴァンゼーですが、80年ほど前、そのほとりにある高級住宅地の一角でとある計画が取り決められました。
やってきたのは何の変哲もない高級住宅街。
そこに突然現れたのが、一見見逃してしまいそうな“博物館”。
ここ実は、かつてナチス親衛隊が所有した邸宅で、第二次世界大戦中の1942年1月20日に「ヨーロッパのユダヤ人問題に対する最終的解決」を話し合うヴァンゼー会議が行われた場所なのです。
2年ほど前に日本でも公開された「ヒトラーのための虐殺会議」という映画の題材にもなったこの会議でいう“最終的解決”とはつまり、ヨーロッパのすべてのユダヤ人を計画的に抹殺することを暗に意味し、ユダヤ人の基準(血の混ざり度合い)や抹殺の方法などが話し合われました。
建物は本当に普通の邸宅。
ヒトラーの右腕であり親衛隊最高指導者であったハインリヒ・ヒムラーの腹心の部下であったラインハルト・ハイドリヒによって、親衛隊幹部たちがここに召集されたそう。
内部は無料で見学できるにしてはしっかりしすぎているコンテンツ。
演説の天才・ヒトラーの肉声も聞くことができました。
ドイツで暮らしていると、環境団体や労働組合、学生連盟など一致団結して何かを訴えかけることに日本人よりもはるかに熱心なドイツ人の気質を肌で感じることができ、その特徴をよく捉えて利用したヒトラーの賢さがわかります。
そりゃああの時代のドイツにこんな喋りがうまくて扇動力のある(しかも比較的若い)政治家が出てきたら、ドイツ人は皆熱狂するよなあと思ってしまいました。
大前提として、アドルフ・ヒトラー率いるナチスの思想や行為はあってはならないものですが、
前に教養として『我が闘争』を読んだ時、ヒトラーは大衆心理についてめちゃくちゃ研究していた賢い人だったんだなと感じました。
また展示の中には、“処分されるべきユダヤ人”についての定義が定められたイラストもありました。
こういう生々しいものを見ると、国のトップがいち人種の排除について真剣に話し合った場面がありありと想像できて恐ろしくなります。
ちなみにヒトラーは私生児で、彼の祖父はユダヤ人であり彼の血統にはユダヤが混ざっているという噂がありますが、ホロコーストを主導した彼自身がそれを知った時の気持ちは想像を絶するものでしょう。
ナチスの重要幹部のリスト。
このアドルフ・アイヒマンという人物はホロコーストにおける重要な役割を担った人物。
ユダヤ人の収容所までの輸送の方法も、ガス室で殺すという方法を決めたのも、すべて彼。
ちなみにガスを使用する根拠として、それが一“人道的”だからだそう。
そして、ユダヤ人を全員マダガスカルに移送するという「マダガスカル計画」。 それを破棄するという内容の文書も展示されていました。
出たころにはもう空が暗くなり始めていました。
ベルリンの夜の町を少し
夜はせっかくなので、一人でクリスマスマーケットを楽しみました。
色んな所で開催されていたクリスマスマーケットですが、今夜はカイザーヴィルヘルム記念教会のところのマーケットにしました。
正面のクリスマスツリーがとても綺麗でした。
一人でクリスマスマーケットに来ても、特に何か食べるというわけでもないのですが(全部高い)、ふわ~っと見て回ってその雰囲気を楽しむだけで私はおなか一杯(笑)
綺麗なイルミネーションを楽しみました。
チェックポイント・チャーリー
翌朝。
今日の昼過ぎには電車に乗ってミュンヘンまで帰るので、ぱっと行けるベルリンの観光地と言えばここ。
チェックポイント・チャーリーです。
チャーリーとは人名ではなくフォネティックコードでCを表す単語。
すなわち「検問所C」という意味のこの場所は、ベルリンの西側地区と東側地区をつなぐ玄関口だったのです。
当時西ベルリンは米・英・仏の参加国によって分割統治されていましたが、ここはそのアメリカのセクターと東側の境界。
アメリカ側からソ連側を見るとソ連の兵士がこちらを向いていて、
ソ連側からアメリカを観るとアメリカの兵士がこちらを向き、その少し奥にはアメリカ資本主義の象徴「マクドナルド」が見えます。
ソ連側から見た看板↓
「アメリカのセクターに入ろうとしています。勤務時間外の武器の所持禁止、交通ルールには従ってね」
アメリカ側から見た看板↓
「アメリカのセクターを去ろうとしています」
そして当時の検問所跡には建物のレプリカが。
実際の建物はこんな感じで、当時ここは一般市民は通れなかったそう。
本物は近くの博物館で保存されています。
ミュンヘンへ
そしてここからは、国内乗り放題定期券(特急には乗れない)で半日かけてミュンヘンへ。
この雪景色の社葬もあと何回観られるかな・・・なんて考えながらひたすら鈍行で帰りました。
前編・後編でだいぶ時間が空いてしまいましたが、ベルリン一人旅はここまで。
その日の気分で行きたい場所も滞在時間も決められる一人旅、見る場所が多すぎるベルリンにはぴったりでした。
次はどこに行こうかな。
それではまた!
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