【読書】古事記ワールド案内図
出版情報
タイトル:古事記ワールド案内図
著者:池澤 夏樹
出版社 : 河出書房新社 (2023/5/24)
新書 : 256ページ
芥川賞作家の古事記tips
池澤は1988年に芥川賞を受賞している。御年(おんとし)78歳の大ベテランだ。その池澤が古事記を現代語訳し、雄略天皇(ワカタケル)を主人公に小説も書いた。世界を股にかけて翻訳もこなし、旅行、移住もした著者が、現在は北海道に戻って、テーマも日本、しかもど真ん中の古典、古事記に戻ってきた。きっと本人も意識した晩年の集大成なのだろう。
そして、行きがかりの駄賃とばかりに執筆したのが本書だ。効率いいなぁ。(我ながら言葉がよろしくない💦)
で…本書は『古事記』ってどんな本なのか、大人がその概要を理解するのに、とても役立った。また、この概要に沿って書かれた、あるいは、書きながら、この概要ができあがっていったのであろう筆者の『古事記』は現代人にとても読みやすいものに仕上がっている。
現代人にとって本書もまた、なかなかに便利であるし、読みやすい。手っ取り早く「古事記って何?」「古事記ってどんな文書?」「古事記ってどんな心構えで読めばいいの?」に確実に応えてくれる。『古事記ワールド案内図』とあるが日本語的な意味で絵やイラストで描かれた案内図=地図=マップをイメージしてしまうが、そうではない。本書の『案内図』とあるのは、英語の「map」の意味合いでの手がかりとかヒントとか、古事記に取り組む上でのちょっとした案内といえばいいだろうか。tips(コツや小技)というよりもうほんの少しだけstrategy(大きな枠での計画や方針)よりな感じ。入門書ではない。読み方案内、なのだ。アマゾンの感想付きの評価がびっくりするほど低くて気の毒になった。本書は古事記を現代的な視点で見渡す上で指針になり得る、手に取る価値のある面白い読み物なのである。本書はとてもよくできた古事記ワールドへの道案内だといえるだろう。
以下またまた、個人的な古事記体験が長くなってしまった。具体的なtipsを読みたい方は、もくじで古事記ワールドへようこそまで、読み飛ばしてください。
個人的な古事記体験
正直…私は、この歳になるまで、古事記についてはいろいろ断片的な知識はあるけど、まともに読んだことはなかった。そりゃ御幼少のみぎりには読みましたよ??絵本の古事記を。イザナギとイザナミが天沼矛(あめのぬぼこ)をかき回すとポタポタと雫が落ちて島ができ、日本列島ができていく。荒いタッチの迫力のある絵だった。因幡の白兎は覚えている。国譲り(くにゆずり)もあったかなあ?国譲りのエピソードは理不尽すぎて、あまり頭に入ってこなかったかも。
以前も書いたが、古事記は隠れ人気コンテンツだ。令和の現在でも、児童版、大人版、漫画版、常に誰かが新しく訳し、書き、描いている。
今私たちが曲なりにも古事記が読めているのは、江戸時代の本居宣長センセーのおかげだ。センセーが生涯をかけて万葉仮名を解読し、精読し、漢心(からごころ)を排した大和心(やまとごころ)とは何かを探求した。そのおかげがあったからこそ、明治維新が成功した。今日の日本の繁栄は、ひいては現代の日本人はみな、本居宣長センセーに、そして古事記に恩義がある。
そうして…明治の後、大東亜戦争があり、終戦後は学校教育では神話を教えなくなった。それまでは国史として、一通り古事記に基づいた神話を学んだものだった。(話は違うけど、今、大学でも国文科って言わないんだね、日本語学科だって。変なの)
私の父は「子どもには神話を教えるべきだ」と思っていた人で、母は父のリクエストに応えて、母好みの絵柄の絵本を買ってきた。でも今の漫画みたいなとっつきやすい絵柄ではなくて、子どもには迫力がありすぎた。父も母も子どもに絵本を「与えた」だけで、絵本を通して子どもと対話することはなかった。父母の中にあったであろう、何か伝えたいもの、父母なりの「大和心(やまとごころ)」(いや「漢心(からごころ)」でもいいんだけどね、父母の中にあった何か)を伝えてくれることはなかった。(いやいや、もちろん絵本を買ってくれるだけで、ありがたいことだし、父母には感謝しています)。
で…本書は『古事記』ってどんな本なのか、大人がその概要を理解するのに、とても役立った。また、この概要に沿って書かれた、あるいは、書きながら、この概要が練られていった筆者の『古事記』は、現代人にとても読みやすいものに仕上がっている。
ただ…文章としては、三浦佑之の『古事記』が圧倒的に好きだ。しかし…だ、三浦の古事記は「聴きたい」古事記であって、読みたい、とはまた別なのだ。いわば、三浦の古事記は、木でできた古びた御堂の匂いと共に聴きたい、磁器ではなくて陶器や土器の味わい。筆者の古事記は、なんだか味わいがプラスチックなのだ。「plastic(プラスチック)」という英単語には「偽物」という意味がついているが、著者の『古事記』の、このプラスチックさ加減は「偽物」という意味ではない。透明でツルツルなんだけど、もっさり、という感じ。決して偽物ではないけどどうしても人工物感はぬぐえない。でも、つるつると読めれば、それでいい、とも思う。いや、そういう古事記こそ、求められているのだ。今まで古事記を全文通して読んだことがなかった私が、曲なりにも全文読めた。それだけで作品としての使命は十分全うしている。優れた文学書として立派に成立している(芥川賞作家に対して言いたい放題ですね、ホント失礼の段、申し訳ありません)。
実は筆者の『古事記』には三浦佑之も携わっている。筆者である池澤は人気作家、三浦は古事記を専門とする学者、ともに同年代だ。個人的に知り合いなのかもしれないし、古事記が縁で知り合ったのかもしれない。筆者の『古事記』の謝辞に「三浦佑之さんにはぼくの訳と脚注に目を通して素人ゆえの無数の基礎的な間違いを正していただき、かつ貴重なご意見を賜った」とある。また、三浦は筆者の『古事記』の「解題」も書いている。
TOLAND VLOG のサムもいう通り、物事、ここでは『古事記』は文字通り球体で、さまざまな切り口で、さまざまな視点で見てこそ、何か本当のことに近づける、ということなのだろう。
では実際に、筆者 池澤による古事記tipsを見ていこう。
古事記ワールドへようこそ
古事記の構成
古事記の読みづらさは、登場人物の多さ、だ。神様なり、人なりの名前がてんこ盛り、なのだ。また、ところどころに詩というか歌が挿入されている。きっとその昔は、この歌の部分は実際にメロディをつけて歌い、そしてもしかしたら身振り手振り付き、あるいは踊りさえしていたかもしれないらしい。
レヴィ=ストロースもいうように古事記は何より王朝の正当性を権威づける書物、だ。「この時代の人たちにとって、いや後の世でも名門とか名家と呼ばれるような人たちにとって、系図はとても大事でした」p18。当時の人たちにとって、歌は外せない楽しみの部分だったのかもしれないが、現代人の私たちが読むときには、「物語性のある地の文の中に紙が入ってくるとどうしても読みのリズムが狂う。ストーリーの流れに乗り切れない」。
こういう点にも筆者の古事記は筆者なりの工夫があり、私はだいぶ「読みやすい」ように感じた。
太安万侶の功績
太安万侶(おおのやすまろ)は実在の人物で、奈良の茶畑の中からお墓が見つかったという。1979年のことだp25。
この方法がのちに整備されて万葉仮名になり、のちにカタカナとひらがなになったという。現在にまで続くこの表記法には表現力が、ある。
これによって世界最古の長編小説と言われる源氏物語も生み出されたのだ。
「なる」という発想
旧約聖書には絶対神がいて世界のすべてを創っていった。では、古事記はどうだろう?
では、一神教の神は?
一神教の絶対神は、進化論を否定する。すべては神の計画である、と。だが、科学が暴く実際は、例えば「神の計画により精巧な眼という器官が創られた」という言説を認めない。環境に適応し、徐々にそのような仕組みになっていったのだ。
おや、これは田中英道と同じ結論だ。筆者 池澤夏樹は左翼を自認し、田中は右翼と見做されているのに。つまりは2人とも日本人である、ということなのだろう。
神から人へ
日本の神話では、天と地がはじめて開かれた時、高天原に最初に生じた神様は「天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)」「高御産巣日神(タカミムスヒノカミ)」「神産巣日神(カミムスヒノカミ)」といい、この三柱を造化三神(ぞうかさんしん)という。タカミムスヒノカミはおもてに立って働き、カミムスヒノカミはそのサポートをして、アメノミナカヌシノカミは至高の存在にして両者のバランスを取る。この三柱は目に見えず、独神(ひとりかみ)である。ということは、のちに生まれる神様は目にみえる神様もいるし、パートナーのいる神様(双神(ならびかみ))もいる。さらに神様はどんどんと生じていき、神代七代(かみよななよ)といわれる中で、最後に生じたのが伊弉諾(イザナギ)と伊奘冉(イザナミ)だ。この二柱(ふたはしら)は双神(ならびかみ)で、もちろん目にみえる神だ。このイザナギとイザナミが国生みをして日本列島を産む。イザナギとイザナミは他にもどんどん神様を産んでいく。
造化三神から神代七代までは、どちらかといえば崇高な神から直線的に次なる神が生じていく、という印象だが、イザナギとイザナミからは、二人の関わり合いによって、並列??に多くの神を産んでいくことになる。また神様にも「感情」、「思いや考えがあり、行動するし、怒り、泣き、愛し、嫉妬もする」と人間らしくなっていくp48。そして…
子孫が生まれなければ、共同体の死活問題。性交に誘うことは重要なことだった。(現代日本も少子化で日本という国の存続の危機なのだが…)
このお二人によって最後に産まれた神様がホノカグツチで、火の神様。産んだイザナミは焼け死んでしまう。
イザナギはパートナーの死を悲しみ、黄泉の国にイザナミを迎えにいくが、結局死の醜さに耐えられずイザナギは逃げ帰る。
そして黄泉比良坂(よもつひらさか)という場所で、イザナミは「あなたの国の人々を毎年1000人死なせます」というとイザナギは「じゃあ私は1500人が生まれるようにしよう」と言って、この時から命はかぎりあるものになった。
イザナギは死の穢れを川の水で浄めていく。一番古い、日本で初めての禊(みそぎ)だ。その最後に産まれたのが天照(アマテラス)、月読(ツクヨミ)、素戔嗚(スサノオ)で、三貴神(さんきしん)という。以降、アマテラスとスサノオを巡って物語は展開していく。あるいは天津神と国津神といってもいいし、高天原と葦原中国(あしはらのなかつくに)(あるいはその一部の出雲)といってもいい。そういうある種の対立軸がある。そして出雲から高天原へ国譲りが行われ、瓊瓊杵命(ニニギノミコト)による天孫降臨以降は、大和と出雲、あるいは大和と他の国へと対立軸が移って行く。あるいはその軸はもっと個人的なものになる。
スサノオは八岐大蛇(ヤマタノオロチ)退治をしたけれど、どちらかといえば相手を酒に酔わせて騙し討ち!?のようだった。その婿のオオクニヌシも戦うには戦うけど、優しさや知恵で弱いものを味方につけて、国作りの担い手として認められて、さらに婚姻関係で領土を広げていく。
その中ではたくさんの恋の歌、誘いの歌が詠まれることになる。本当はたくさんの戦闘があり、人死にがあり、悲しみや憎しみ、痛みもあっただろうと推測されるのだが。だけどそれは見えなくなるように?見ないように?遠景に溶けてでもいくように、男女の歌が前面に出て編み込まれていく。確かに恋や男女の出会いや駆け引きも、実際にあったに違いはないのだろうが。
それとも…そんなに省エネの戦いで本当に済んだのだろうか?一万年も続いた平和な縄文時代をバックボーンにして?
古事記ワールド案内図はまだ続くのだが、案内、というより古事記のダイジェスト版のような印象なので、これ以上は、古事記本編を読むことをお勧めしたい。あるいは本書 古事記ワールド案内図を、ぜひお読みいただきたい。
おまけ:さらに見識を広げたり知識を深めたい方のために
ちょっと検索して気持ちに引っかかったものを載せてみます。
私もまだ読んでいない本もありますが、もしお役に立つようであればご参考までに。
池澤夏樹の古事記
三浦佑之の古事記
絵柄がかわいいととっつきやすいと思ふ
本居宣長の大著、古事記伝
やっぱり手引書がないと。