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【読書】樋口季一郎の遺訓 ーユダヤ難民と北海道を救った将軍

出版情報

  • タイトル:樋口季一郎の遺訓 ーユダヤ難民と北海道を救った将軍

  • 編著:樋口隆一

  • 出版社 ‏ : ‎ 勉誠出版 (2020/4/2)

  • 単行本 ‏ : ‎ 552ページ

ユダヤ難民と北海道を救った将軍

 樋口季一郎の名を知っている人は、あまり多くないかもしれない。あるいは本稿の読者の方であれば、にわかの私よりよっぽどご存知の方が多いのかもしれない。
 樋口季一郎は本書のサブタイトルの通り、ユダヤ難民と北海道を救った将軍(中将)である。正直なところ、本書をどのように紹介するのがよいか、なかなか定まらなかった。読む中で読み進むことが何度もためらわれ、彼らが今の日本を見てどう思うのか、自分を振り返ることが多かった気がした。

 本書が貴重であるのは、戦中戦後を生き、戦前苦労しながら職業軍人としてエリート教育を受け、その名に恥じない働きをした人が、自身の言葉で、その生涯やさまざまなことを回想していること。お孫さんによる生涯の記録が最初にあり、その人生や人となり、それがどのように育まれ形成されていったか、よくわかるような章立てになっていること。特に終戦時に責任ある立場にあり、職責を120%果たした人が、ロシア専門家として、世界大戦についての回想北方領土のこと、江戸末期を含む我が国とロシアとの関わり戦後憲法のこと、など、現在のロシア・ウクライナ戦争の土台を見据えるようなことまで言及しており、『遺訓』=回想録、エッセイとして、まったく色褪せない内容であること。素晴らしい、の一言に尽きる。本書から現代日本人が学べることはびっくりするくらい多いように思う。
 彼は決して好戦的な人物ではない、不必要な戦いは望まない人だ。人道主義=武士道を貫いた。ただし、戦いへの備えは万全以上、文字通り『敵を知り己をしれば百戦危うからず』を地でいき、ユダヤ人、日本人、人種を問わず命を守り切った人だった。ロシア専門の情報将校だったからこそ、停戦後のロシア軍の進軍をいち早く見抜いて北海道を守ったのだ。
 
 そうそう。さらにびっくりなのは、樋口は源氏の痕跡をウラジオストクから内陸に入ったニコリスクという街に見つけているp323-p325。本当に残念なことに、ソ連軍によって破壊されてしまったが。樋口は源義経がここまで逃げてきたのでは、と言っている。義経=チンギスハーン説が思い起こされた。

ユダヤ難民を救った樋口季一郎

 イスラエル国エルサレムにあるユダヤ民族基金。ここにはユダヤ民族に貢献した人を記す「ゴールデンブック」がある。もちろん樋口も記載されている。樋口が救ったユダヤ人は1万人とも2万人とも言われている。どのように救ったのか? (ちなみに日本のシンドラーと言われて有名になった杉原千畝が救ったと言われているユダヤ人の人数はおよそ6千人。この樋口の偉業がどれほどのものかわかるだろう。杉原によるビザ発給の2年も前のことだった。杉原は有名になり、樋口はそれほど知られていない。これは一方は外交官、もう一方は軍人という違いもあるのではないだろうか? だが少しずつ変化はしている

当時のハルビン:「極東のパリ」

 戦後生まれの我々には、戦前の日本がいかに『国際的』であったか、想像するのはなかなか難しい。当時の人たちには大陸はある種『手付かずの新天地』のように写っていたのではないか?だって『国(満州国)』まで作ってしまうんだから(その是非を問うのは本稿の本意ではないので、機会があればまた別稿で改めて考えていきたい)。ハルビンはそういう大陸にある国際都市のひとつだった。当時のそうした雰囲気を知る方が樋口季一郎への理解が深まるように思う。そこで『極東のパリ』と呼ばれたハルビンがどのようにできていったか見てみるところから本稿を始めよう。

 19世紀末に開発の始まったハルビンは清朝領土であるものの荒涼たる原野の広がる寒村だった。だが領土的野心を持つロシア帝国は(ウラジオストクはロシア語で「東方を支配せよ」という意味なのだ)シベリア鉄道と、それに並行するように東清鉄道を施設。モスクワひいてはヨーロッパと極東を結ぶ輸送路が出来上がる。後に日本の権益となる南満州鉄道(満鉄)部分も1901年には完成し、以降ハルビンはT字に敷かれた鉄道の要となり、交易や商業の拠点として急速に発展していく。(この鉄道完成が日露戦争への引き金のひとつになった)。ハルビンにはロシア人、支那人のほか、欧州人、日本人など、各国人が往来、また居住し、ハルビンは国際色豊かな都市となっていった。そういう華やかな都市に、国際的な経験と知見をもつ情報武官(特務機関長)として樋口季一郎はやってきたのだった。

世界史の窓 東清鉄道/中東鉄道 より
オリジナルは原田勝正『満鉄』p.57の図

 有料記事ではあるが『戦後75年・蘇る満洲国(9)「極東のパリ」ハルビン』には当時のハルビンの建物の写真が多数掲載されていて、その華やかさ、国際都市ぶりがよくわかる。

ハルピン交響楽団:ユダヤ人とロシア人の融和

 「極東のパリ」ハルビンに特務機関長として赴任したのは1937年、樋口は49歳であった。満洲国建国から5年ほど経った時だ。
 それまで樋口はロシア専門の情報将校として、シベリア出兵時のハバロフスク赴任を皮切りに、主に東欧、極東、時に国内での勤務を織り交ぜながら、自らの運命を切り拓き、ことにあたっていく。経歴は目まぐるしく、まるで回遊魚のよう。今も日本の官庁のエリートはこういう人材育成方法?出世の仕方?をしているのだろうか? いずれの土地でも、樋口は持ち前の社交性を活かし、印象としては正攻法で人間関係を構築し、正攻法で情報を得ていく。残念なことに本国(=日本陸軍参謀本部)では十分に彼の情報が活かせなかった場面が多かったのではないだろうか? もしかしたら、それだけ彼が有能すぎた、ということかもしれない。いずれの土地でも樋口はユダヤ人に助けられてきた。当時は人種差別が当たり前の時代。訳のわからない東洋人を偏見なく受け入れてくれたのは、自らもまた差別されてきた歴史を持つユダヤ人たちだったのかもしれない。

 特務機関長として樋口がまず行ったのは、ハルビン交響楽団の公営化による立て直しである。ロシア人とユダヤ人の融和を図ったのだ。音楽にはわだかまりを溶かし、人を癒す力がある。ハルビンは国際都市としてロシア人とユダヤ人が混在する街だった。またその軋轢も大きかった。ポグロム(1881年から始まったロシアおよびソ連内でのユダヤ人迫害・虐殺。20世紀初頭まで続いた)によりロシア国内から逃げてきたユダヤ人たち。そうしたユダヤ人には豊かな人が多く、人数としては少数派。対してロシア人は多数派ながら貧しい人が多い。治安が悪化してユダヤ人が上海や海外に流出してはハルビンや満洲国の発展は望めない治安維持はもとより特務機関の本分だ。各国領事やハルビン市長、ロシア人、ユダヤ人の有力者、地元名士を巻き込んで再生したハルビン交響楽団は、1939年日本の各都市、朝鮮、満州の長春をまわり30日間の公演旅行を敢行できるまで成長したのだった。
 文化というソフトパワーを用いた治安維持。それを軍の情報機関の長が行う。これはもっと日本人に知られて良い事績なのではないだろうか?
 もちろん樋口は情報部門のトップとして、諜報活動の指揮もとっている。だが、結論として対ソ防諜は日本の全面敗北だった。日ソ不可侵条約はあったが、樋口には「ソ連は満州を含む日本への攻撃の機会を狙っている」ことがよくわかっていたp144ーp150。残念なことに当時の日本陸軍は、こうした貴重な情報を活かすことができなかった。

第一回極東ユダヤ人大会

 また、樋口は後々問題となる、1937年12月26日 第一回極東ユダヤ人大会での演説も行った。演説の内容は、私のノート記事【読書】日本とユダヤの古代史&世界史 その4に記載した。あるいはYouTube番組『戦後70周年 奇跡の将軍・樋口季一郎』でも概要を聴くことができる(5分46秒〜)ユダヤ人の気持ちを慰め鼓舞する力強いスピーチであるが、ナチスドイツとの同盟という時節柄である。瞬く間に世界中に報道されたこのスピーチに、外務省も軍部もいい顔をしなかった。もちろんドイツから厳重抗議を受けた。陸軍参謀本部は「以降こういうことはさせません」とドイツに一筆入れている

満洲国入国許可のビザ発給

 さらにその2ヶ月後、1938年3月にソ連領内オポトール駅にドイツでの迫害から逃れたユダヤ難民が押し寄せた。ソ連はユダヤ難民を受け入れない。満洲国はドイツに忖度し、満洲国入国のビザを発給しない。

YouTube番組 戦後70周年 奇跡の将軍・樋口季一郎より

 だが、当地はマイナス30度という極寒の地だ。放っておけばみな死んでしまう。樋口は「関東軍(当時満洲に駐留していた日本軍)に遠慮することはない、ビザを発給したまえ」と満洲国に進言しp54、満洲国は1940年5月までに1万2千通のビザを発給し続けたp62。彼の、この決断により家族なども含め2万人のユダヤ人が救われたという。また当時満鉄総裁の松岡洋右に特別列車を仕立てさせ、部下にはヒグチルートと呼ばれるユダヤ難民脱出ルートを確立させた
 これもまたドイツとの間で問題になった。だが樋口は、

日本とドイツは極度に親善だが、やはり日本はドイツの属国ではないドイツの悪ないし非の行動に同調すべきではない

樋口季一郎の遺訓 ーユダヤ難民と北海道を救った将軍 p147

と論じ、当時の関東軍トップ東條英機も肯首したと言う。後に樋口は東京の参謀本部で対ユダヤの方針を策定する側にまわり、樋口の根回しや説得などもあったのだろう、ドイツに言われるままのユダヤ人差別は日本はしないこととなったようだ。

北海道を救った樋口季一郎

 北海道を樋口はどのように救ったのだろうか?

 その前に…樋口は汪兆銘の日本亡命にも関与していたことについても一言述べておこう。汪兆銘は国民党和平派で同じ国民党蒋介石と対立していた。この時、樋口は参謀本部第二部長という要職にあり、本書では、国民党和平派の汪兆銘を日本はどのように使う(と言っては聞こえが悪いが)べきだったかを、論じているp241-p243。

  1.  和平派である汪兆銘が日本にいる間に、戦線を満洲国などに集結し、守りを固めるか(戦線不拡大か

  2.  さらに戦線を拡大するか

同じ頃、張鼓峰事件ノモンハン事件が起きているp238-241。いずれもソ連との間の国境線が曖昧であったために起きた事件である。樋口によれば、どちらもソ連が「日本の出方や戦力など」を見極めるために起こした事件であるという。この時から遡ること十年前、樋口はソ連を視察する機会を得ていた。その樋口にとってソ連は敵に回したくない相手であり、ロシア・ソ連の専門家としてソ連が日本に牙を剥く機会を窺っていることは、自明の理であっただろう。樋口としては、前述の問いは1の戦線不拡大、一択であったが、理解を得ることはなかった。「日ソ不可侵条約」などという薄紙一枚に委ねている日本の命運は危ういものに見えていたに違いない。
 
 樋口は、次に金沢に赴任し、自分の師団を率いて牡丹江を警備。さらに東京経由で札幌へ。1942年、北部軍司令官(後に北方司令官)に着任する。その直前の1941年12月、日本海軍は真珠湾攻撃を行う。しかし真珠湾のみが攻撃され、更なる追撃がなかったことに樋口は落胆している。つまり一発叩いて終わり、は戦争のイロハから外れている、ということだ。
 下記図を見てほしい。大東亜戦争の戦域だ。このような戦域の拡大は、今の人々から見ると無謀なことがよくわかる(領土の拡大ではない、戦域の拡大が無謀なのだ)。樋口のような心ある人々も少数ながら軍部にいて「戦線拡大はイケナイ」と何度も説いて回っていたのではないだろうか。だが同期で親友の石原莞爾も「戦線不拡大」を唱えたことが理由で東條英機の不興を買い、左遷されてしまう。樋口は「それならそれで戦い方を考えよう」というタイプの軍人だったのかもしれない。

YouTube番組 オオカミ少佐のニュースチャンネル 占守島の戦い より

キスカ脱出作戦

 大東亜戦争を始めた日本軍は、南方に戦線を展開するとともに、北方(アリューシャン列島)にも展開した。米軍がアリューシャン列島からもやってくる、と仮定していたのだ。
 北方の守りを任された樋口は、北海道はもとより、南樺太、千島列島、アリューシャン列島を視察。現場の将兵を激励した。また「今やたらに動いても消耗するだけ」と「敵が動いた時に、一気に殲滅する」方針を固め、その時のために、飛行場を30箇所も増設p180。参謀本部から「不可侵条約のはずのソ連が動くかもしれない」との連絡があった時には、今さらそんなことを言われても、という気持ちが強くあったのだろう「そんなことを今言われても何の励ましにもならない、我々を励ますならば『米国だけに集中せよ』という言葉じゃないのか!」と怒りを露わにしている。樋口はそれまでに何度もソ連との不可侵条約について、いつ破れてもおかしくない薄紙だ、と上層部に上申していたに違いない。
 アッツ島(キスカ島のそばにある島)に実際に米軍が襲来した時に、樋口は援軍を要請した。参謀本部は「今は南方に集中しているので援軍は遅れない」と回答した。それはアッツ島の将兵をすべて見捨てることを意味する。樋口にとっては身を切られるような思いだっただろう。その場で「では代わりにキスカ島の全員の退避は確約してくれ」と参謀本部に迫る。
 アッツ島は初めての玉砕の地となった

 キスカ島脱出については映画にもなっている。米国は日本軍の撤収に気づかず、脱出後のキスカ島に何千トンもの爆弾を落とした。脱出作戦として大成功、パーフェクトゲームだった。1943年7月のことである。どのように脱出したかは、ぜひ本書を読んでほしい。

占守島の戦い

 戦況は悪化の一途を辿る。1945年、広島長崎に原爆が落とされると、樋口は北大の教授からどのような爆弾なのか、レクチャーを受けるp193-p194。概ね正しい情報で、終戦への覚悟ができたのだろう。ソ連はいよいよ日本に牙を剥いてくる。この時の解説は、Youtube番組 オオカミ少佐のニュースチャンネル 占守島の戦い がわかりやすい。そしてこの戦いの結果が、日本の命運を分けたとも。

YouTube番組 オオカミ少佐のニュースチャンネル 占守島の戦い より

 戦後、樋口季一郎は孫の隆一に「ベルリンは東西ドイツのどこにあるか書いてみろ」と尋ねる。中学生だった隆一は、東西ドイツの境目にベルリンを描いた。「そう思うだろう?だが違うんだ。東ドイツの中にあるから厄介なんだ」と言い、何だかうれしそうだったようだ。それは「オレは日本を東西ドイツのようにはしなかった!」という祖父の自負だったのだろうと、後に隆一は推測する。

YouTube番組 オオカミ少佐のニュースチャンネル 占守島の戦い より
もしかしたら北海道は…

 8月15日の玉音放送があり、8月17日、樋口は全将兵に「一途に時期日本の堅実なる礎石建設に邁進」せよとの訓示を発したp80。18日未明、占守島にソ連が無警告上陸を開始した。武装解除は同日16時からの予定であったが、樋口は「断固反撃」と檄を飛ばし占守島の将兵はこれに応え、4日間も応戦。この戦いでソ連は「日ソ戦で最大の犠牲者を出した」と報道した、という。9月5日までに南樺太と朝鮮半島北部、千島全島まで侵攻し、ようやくソ連は戦闘を止めた。ソ連は侵攻できるところまで侵攻し、日本を分割する気満々だった。占守島での戦闘によって、そのソ連の野望を防ぐことができたのだった。一方ソ連は生き残った戦闘員の多くをシベリアでの強制労働に使役した。そういう日本の先人たちの知恵と戦い、尊い犠牲の上に今の私たちの生活が成り立っている…。

北方四島と南樺太、千島列島

 ソ連は、終戦間際の1945年2月ヤルタ秘密協定で英米と戦後体制また日本の領土について密約を交わしていた。大陸の日本側の利権(満州や満鉄など)や南樺太、千島についてソ連を対日参戦させる見返りにソ連が得る、という内容のものだった。実際ソ連の対日軍事侵攻直前に、米国は戦艦や航空機、兵器などを多数ソ連に譲り渡し、戦闘に使用させた。だがソ連は日本が主権を回復する(つまり日本の領土が確定する)1951年のサンフランシスコ講和条約に調印していない米国は早くも1945年のマッカーサーのGHQによる日本統治の時点で北方四島は日本の領土であるとし(ソ連が実効支配中)、サンフランシスコ講和会議では、私約であると断じてヤルタ秘密協定を排除した(「日本もソ連もこれに縛られるものではない」と宣言した)p292-p295。火事場泥棒よろしく、南樺太や千島に対して法整備までして実効支配を続けていたソ連にとっては面白くない、もっと言えば怒り心頭だったであろう。(逆に米国側から見れば、年月をかけ多数の将兵や兵站の犠牲を出し、また莫大な予算を注ぎ込んで開発した原爆を落としてまで無条件降伏を勝ち取ったのに、自ら武器も与えて引き込んだとはいえ、数日の戦闘で弱り目の日本から領土をかっさらっていったソ連は目の上のたんこぶとして写っていたに違いない。おりしも朝鮮戦争が1950年から始まっていてソ連への警戒心は大きなものだったと想像できる) サンフランシスコ講和条約では日本は南樺太や千島列島(北方四島をのぞく)を手放したのだが、日本側から見れば国際法上、ソ連がこの講和条約に調印していない以上、南樺太や千島列島(北方四島をのぞく)の領有権はどの国とも確定していない現に現在も高校の地図帳では、南樺太や千島列島(北方四島をのぞく)を白く抜いており、どの国にも領有権がないことを表している(下記地図は内閣府のもの南樺太と千島列島(北方四島をのぞく)はロシアとは別の色で区別されている)。

日本政府 内閣府ホームページ 北方領土の姿より


 樋口はサンフランシスコ講和条約にソ連が調印しなかった理由

ソ連代表グロムイコをして忿懣たえざらしめた。「…すでにソ連の主権下にある樺太と千島に関する主権的権利をはなはだしく侵害せん…」。ソ連は忿懣に絶えず、その調印を拒否したのである。

樋口季一郎の遺訓 ーユダヤ難民と北海道を救った将軍 p294

と述べている。(コトバンクに掲載されている山川 日本史小辞典 改訂新版を見れば、樋口が会議内容を参考にし論考していることがわかる)。
 また、樋口はソ連がサンフランシスコ講和条約に調印しなかったために生じたソ連側の不利益は大きいと論じている。

この条約に調印せざるソ連のごとき当事国にあらざる国に対しては、なんらの発言権も与えなければ、また反対になんらの義務をも負担せしめないことである。それは「条約は第三者を害せず又利せず」という普遍的国際法の大原則より生じるものである。
 右の原則を応用すれば、「ソ連に関するかぎり千島、樺太は依然日本の領土主権下」にとどまっていることになる。…ソ連の会議脱退は近年の大失態であったと筆者は考える。

樋口季一郎の遺訓 ーユダヤ難民と北海道を救った将軍 p295

つまり、せっかく日本の領土に関する取り決めの会議に参加していたのに、ソ連は怒りに任せて会議から降りてしまった。そういうソ連との間に限って言えば日本の領土は、戦前のままにとどまり、依然日本の主権下にある、と述べているのである。なるほど。そういう考え方もあるのか! それにしてもソ連の火事場泥棒ぶりが際立つなぁ。結局80年近く実効支配されてしまっている。とりあえず、日本政府の公式見解では、千島(北方四島のぞく)と南樺太の所有権は宙に浮いている、ということは日本国民として頭に入れておくほうが良さそうだ。

戦後の樋口季一郎

天国と地獄

 終戦後すぐは、樋口の業務は「方面軍司令官の作戦任務解体」となり引き続き「北部復員監」となるp84。その職も解任されると、もはや札幌に住むところはない。小樽の山奥の、水道も電気もない小屋に暮らしたという。冬ともなれば台所には氷が張ったp85。家族7人が暮らす小屋。それまでは「閣下」と呼ばれ、国を背負い、部下を鼓舞する生活。暮らしぶりは大きく変わった。晩年、樋口の妻 静子は孫の隆一に「お祖父ちゃんのおかげで天国から地獄まで体験できた」と語った。『天国はもちろんワルシャワの社交界であり、地獄はこの時のことであっただろう』と隆一は本書で述べている。(樋口季一郎はワルシャワの駐在武官時代、社交界でモテまくったようだ。中年老年のマダムから妙齢のご令嬢まで、ダンスの誘いがひっきりなし。このままでは道を誤る、と妻 静子を呼び寄せ、過度な誘惑は収まったようだp17-18)

ユダヤ人に救われる

 樋口に野望を阻まれたスターリンは、何とか季一郎を戦犯として引きずり出そうとしていたp87。しかし樋口がビザ発給を許可したことでハバロフスク経由で多くのユダヤ人が助けられたことはユダヤ社会では共通の理解だったのだろう。米国に渡ったユダヤ人も多数いたに違いない。結果として樋口が戦犯となることはなかったのだがユダヤ人ロビイストの働きかけが大きかったのでは、と樋口は思っていたようだp87。またGHQの取り調べても樋口の配下での捕虜虐待は一切なかったというp85。

アッツ島玉砕者に手を合わせ、手記を書く日々

 晩年の樋口は毎朝毎晩アッツ島玉砕者たちに向けて遥拝していたp175。「その様子を見るだけで、とても当時のことを聞ける雰囲気ではなかった(祖父の心の中の重いものを思うと何も聞けなかった)」と孫の隆一は語る。
 本書に収められている樋口の手記は、世界大戦についての回想北方領土のこと、江戸末期を含む我が国とロシアとの関わり戦後憲法のこと、など、現在のロシア・ウクライナ戦争の土台を見据えるようなことまで言及しており、『遺訓』=回想録、エッセイとして、まったく色褪せない内容である。ぜひ一読をお勧めする。

本書を読んで

 いろいろな感想がありうると思うが…

 私は初めて第二次世界大戦(大東亜戦争)を通史として読んだ。(戦後生まれ、私たちの世代は(今も??)近現代史はさーっと読み飛ばすようにしか学んでこなかったのだ)。当時の当事者、しかも豊富な知識と経験を持つ人が書いたものは、読み物として単純に面白く、理解が深まった。また多くの有名無名の人々、人材が失われてしまった悲しみの深さも胸に迫るものがあった。
 樋口は自衛隊についても言及しており、特に「自衛隊の士気をどのように保つべきか」という趣旨の論考が心に残ったp460-p525。私の理解では、戦前の日本軍は「国体護持」によって士気を高めた。この言葉に身近な人々の幸せを守ること、日本という国土を守ること、天皇陛下に身近な大切な人全員を象徴させ、日本人として守るべき道徳観や価値観、崇高な善きものすべてを象徴させていたのであろうと。一方、樋口の分析によれば、ソ連の士気の高さは、ロシアから受け継がれた何でも飲み込んでしまう貪欲さ全世界を赤化しよう(共産主義・社会主義化)という野心からきておりp343-p347 & p482-p488(これは少しばかり私の主観に傾いた要約であることをお断りしておく)、米国の士気の高さは契約関係からきているp488-p499、という。つまり体や命を捧げる代わりに、大きな褒賞を与える、というものだ。これは米国という豊かな国だからこそできることで、では日本の場合はどのように士気を高めるのが相応しいのだろうか、ということを論じている。
 明治以降、戦前の日本では、人々、国土、理念を例えば教育勅語や天皇陛下という目に見える形で示すことによって、国民皆兵、民族国家としての意識を高めた。では、現代は? 米国流の価値観(契約主義やマネー主義)を持つ人々がいる一方、潜在的な形で、守るべき人々、守るべき国土、守るべき崇高な(あるいは日本的な)理念を抱えながら、国を守りたいと思っている人々がいるというグラデーションの中にいるのでは、と推測する。
 樋口は軍隊は天皇陛下の直轄にすべき、と論じているが、それは現代には馴染まないように思う。また軍隊という権力を持つことはかえって天皇という『権威』を傷つける危険性が増すように思う。
 では、どうすれば?
今は、答えが出ないが、我々はそういう問題を抱えているのだ(どのように自国を守るための士気を上げるのか、これは自衛隊員に限らず、一般国民も。自国領土・文化・自国民を守る、という強い意志をどう醸成するのか)、ということを共有するところから始めるのが相応しいように思う。YouTuber オオカミ少佐(元海上自衛隊幹部)は「戦うことへの国民からの支持がなければ(自衛官個人として、また自衛隊という組織として)士気を保つのは難しい」といった趣旨のことを度々述べている。
 共通の価値観を持つ人々、多様性、と言いながらも、理解し合える土台を持つ人々と幸せに暮らしていく、その暮らしを守る。
そうしたことを言葉にするところから始めるのが相応しい、というところだろうか?

 あ、それから…樋口は下記のようにも述べており、これは三島由紀夫や、「原爆は日本人には使っていいな」の著者の父、岡井藤志郎の言葉と重なるものがある。戦前の日本はこの言葉通りに善きものだけではなかったかもしれない。けれども彼らは共通して「あの善きものは永久に失われてしまった」という哀しさとある種の悔しさや痛みを抱えている。

昔の祖国日本には理想があった。その理想には多少の行き過ぎがあったにしても、ともかくも一定の進むべき目標があり、少なくとも酔生夢死(すいせいむし)ではなかった。
 現在はそれが全く喪失せられ、ただ獣類のごとく、はたまた鳥類のごとく、その日その日を生つかつ楽しめればよいとされている。それは全くもメンタリズム【刹那主義】の、ヘドニズム【快楽主義】の生活である。そのような民族が、はたして存在の価値があるか。

樋口季一郎の遺訓 ーユダヤ難民と北海道を救った将軍 p445

私たちは、戦前の日本人が共通して持っていた何か「善きもの」を取り戻せるのだろうか?それは、ある種の生きる指針のようなものだろうか?あるいは私たちは失ったものの代わりとなるものを見出したり、生み出したりできるのだろうか?

 

おまけ:さらに見識を広げたり知識を深めたい方のために


ちょっと検索して気持ちに引っかかったものを載せてみます。
私もまだ読んでいない本もありますが、もしお役に立つようであればご参考までに。




 樋口季一郎が生まれた淡路島。その島にある伊射奈岐神社に、樋口季一郎中将の銅像が建てられた。除幕式。南あわじ島市長など大勢の人たちが祝辞を述べられています。この番組のナレーターは英語で喋っていますが、ほとんどは日本人が日本語で(もちろん!)喋っています。


樋口季一郎中将顕彰会についての情報。この会そのもののサイトは今は閲覧できないようだ。

有料記事ではあるが、当時のハルビンの様子を現在と織り交ぜながらわかりやすく描いている。


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