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【読書】シナ(チャイナ)とは何か (第4巻) (岡田英弘著作集(全8巻)) その2-1

出版情報

  • タイトル:シナ(チャイナ)とは何か (第4巻) (岡田英弘著作集(全8巻))

  • 著者:岡田英弘

  • 出版社 ‏ : ‎ 藤原書店 (2014/5/24)

  • 単行本 ‏ : ‎ 569ページ

本記事について

 本記事は、本書 シナ(チャイナ)とは何か (第4巻) (岡田英弘著作集(全8巻))の感想についての一連の記事の一つである。

本記事は基本に立ち戻って「シナ文明とは何か」について見ていくことにしよう。

目次


シナとは何か:概要

 下記は、【読書】シナ(チャイナ)とは何か (第4巻) (岡田英弘著作集(全8巻)) その1−1に書いた著者 岡田のシナ観の概要である。
 わかりやすいので、ここで概要として紹介する。

 著者の岡田は圧倒的な漢文、満州語、モンゴル語などの読解力で東洋史家として出発し、モンゴル帝国が世界史を作ったという岡田史観に到達。ある時から中国を『中国』と呼ぶことをやめた。それが本書の題名シナ(チャイナ)とは何かにも表れている。研究を深める中で「中国4000年の歴史」と言う欺瞞に加担する行為であると気づいたためである(詳しくは本書読書感想の予告をご参照ください)。
 そこで、本記事でも、岡田を踏襲して近代中国成立以前の大陸をシナと呼ぶことにする。

 岡田は、シナとは城壁都市の成立、漢字という表音文字によるコミュニケーションの成立、複数の城壁都市を支配する皇帝の存在によって定義され、シナの歴史始皇帝(前221年)による統一から始まるという。そして、「秦の始皇帝の統一がつくり出したシナの本質は、皇帝が所有する城郭都市の商業ネットワークで、それを経営するために、皇帝は多数の官僚を必要とした」p407。出身地が違い異なる言語を話す官僚同士のコミュニケーションは書き言葉であり表意文字である漢字によってなされていた。

 また、岡田によれば「中華民族」という概念が発生したのは、日清戦争で清が日本に敗れてからであって、それまでは現在「漢族」と呼ばれている人々のあいだでさえ、同一民族としての連帯感は存在していなかった。そうした「血」や「言語」のアイデンティティの代わりに存在したのは、漢字という表意文字が通じる範囲であって、それがシナ文明圏であり、そこに参加する人々が漢人であったと述べているp 22。

 岡田はシナ文明発祥の地、古代中原(洛陽盆地)は住みづらい湿地帯で、いわば空白地帯であったとし、そこに四方から夷狄戎蛮いてきじゅうばんが次々に住み着いて古代国家を形成していったと述べている。そして漢人と呼ばれる人々は、先に帝国の商業ネットワークに組み入れられた人々であり、極端な人口減少によって2回ほど民族ごと入れ替わっている、と。

シナ文明とは何か

 シナ文明とは何かを見ていくにあたって、シナの発生地点がどんなところであり、どのような人々に取り囲まれていたのか、を見ていこう。これらの人々が次々に中原=古代シナの舞台の支配者となることでシナの歴史が紡がれていく。

古代シナの舞台:洛陽盆地とデルタ地帯と四夷

 古代シナの都は洛陽であり、黄河が主な川だった(長江文明もあるがそれはもっと古く、城壁都市・皇帝・漢字で特徴づけられるものではなかった)。では、洛陽に都があった、ということは黄河流域の生産性が高かったからだろうか?岡田の答えはノーだ。

黄河中流の渓谷に都市文明が発生したのは、この地方の生産性が高かったからではない。むしろ黄河が交通の障害だったからである。

シナ(チャイナ)とは何か (第4巻) (岡田英弘著作集(全8巻)) p24

洛陽盆地より上流では、急峻で断崖絶壁に囲まれ渡河に適するようなところはなく、開封市(洛陽盆地の入り口)まで来るとやっと大平原が一望でき、渡河が可能になる。しかし、その一方で土砂が堆積しやすくなり過去3000年間に3年に2回の割合で氾濫を起こしていた。そして、現在の黄河の姿は、真の始皇帝から営々と続く治水工事の結果なのだというp25。

古くは黄河の下流は、開封市の北方で多くの細流に分かれて、北は北京市から南は徐州市にいたる河北省、山東省の平原に網の目のごとく広がっていた。これを九河という。…こうした多数の分流を形成するデルタを九州と呼んだ。

シナ(チャイナ)とは何か (第4巻) (岡田英弘著作集(全8巻)) p25

そして、黄河デルタの南辺は淮河デルタに重なり、淮河デルタの南辺は長江デルタに重なり、湖沼の複雑に絡み合った水路を上手に利用すれば、黄河と杭州湾の間の内陸部を小舟によって航行することができた。

シナ(チャイナ)とは何か (第4巻) (岡田英弘著作集(全8巻)) p26

 南船北馬というが、この「南船」と「北馬」の出会うのが洛陽盆地を中心とする黄河中流の岸辺なのだ、というp28。
 そして、前221年に秦の始皇帝北は黄河の流域から南は長江の北岸に至るまでを統一し、その地域に散在していた都市を統合した。これがシナの起源だp83。
 大運河は始皇帝から始まり、随の文帝までに営々と治水をおこなり築いて行った。実に数百年かかっている!

 洛陽盆地の外側には漢字を理解しない人々=皇帝の都市ネットワークに入っていない人々=夷狄が住んでいた。それぞれ東夷とうい北狄ほくてき西戎せいじゅう南蛮なんばんという。
 東の平原にいた「」と呼ばれる人々は、低地の平原に住み農耕や漁労を営んでいた。北方山地の森林地帯には「てき」と呼ばれる狩猟民がいた。狄とは貿易の易と同じ意味であり、商売する人を指した。北方の草原地帯には「じゅう」と呼ばれる人々は遊牧民で、羊毛や毛皮を持ってきた。洛陽の西南方には「ばん」と呼ばれる人々がいた。山地の焼畑農民だった。

シナ(チャイナ)とは何か (第4巻) (岡田英弘著作集(全8巻)) p84

そして、

これら「東夷」「北狄」「西戎」「南蛮」の四種族が一堂に接触するところが、洛陽盆地を中心とする現在の河南省一帯であった。この接触点に沿い、交易所ができ、定住民が生まれ、都市が出現した。このようにしてシナ以前の古い都市が成立した。

シナ(チャイナ)とは何か (第4巻) (岡田英弘著作集(全8巻)) p84

さらに、

これらの都市は商業都市で、市場や商品の調達先を求めて次々に枝分かれし、河川の水路を利用して首都から容易に到達できるところに次々と分封がつくられた。これらの都市の住民がのちに漢人になるのだが、これらの都市では「東夷」「北狄」「西戎」「南蛮」いずれかに起源がある、さまざまな種族が混合して都市民を形成した。

シナ(チャイナ)とは何か (第4巻) (岡田英弘著作集(全8巻)) p84

 当時のシナの各都市で使われる言葉は、市場で値切る際の交渉などに使う片言の「マーケット・ランゲージ」だった。このような言葉が基礎になりできたのが漢語であった。したがって、それぞれの都市で話される話し言葉は非常に異なっていたp84。

 シナ文明の基礎はこのような商業都市にあり、シナ文明はもともと農耕文明ではなく、農耕地帯などを背景に発達した商業文明であった。

シナ(チャイナ)とは何か (第4巻) (岡田英弘著作集(全8巻)) p85

改めて漢人とはどういう人々かというと…。

漢人とはどういう人々か

 秦始皇帝以前に洛陽盆地をめぐって興亡を繰り返していた「東夷、西戎、南蛮、北狄」の諸国、諸王。漢人とは、これらの諸種族が接触・混合して形成した都市の住民のことであり、文化上の概念であって、人種としては「蛮」「夷」「戎」「狄」の子孫であるp44-p45。

いかなる種族の出身者であれ都市に住みついて、市民の戸籍に名前を登録し、市民の義務である夫役と兵役に服し、市民の職種に応じて規定されている服装をするようになれば、その人は漢人、「華夏」の人だったのであって、漢人という人種はいなかった。その意味で漢人は文化上の概念だ…

シナ(チャイナ)とは何か (第4巻) (岡田英弘著作集(全8巻)). p46

これで、舞台と主人公たちが出揃った。それではシナ文明とはどのようなものだったか?

シナ文明の三つの要素 ー都市・皇帝・漢字ー

 岡田はシナ文明は、城壁都市、皇帝、漢字で特徴づけられる、としている。では、それぞれの要素はどのようなものなのだろうか?

【皇帝】
 
岡田は、皇帝こそがシナの本質であるという。

 シナの歴史の特徴をなすのはなんといっても皇帝制度である。つまり、皇帝抜きにシナは語れない。皇帝こそがシナの本質なのである。シナはいつの世でも皇帝が中心であり、皇帝が時間を支配した暦をつくるのは皇帝の特権で、民間で暦を発行したら反逆罪と見なされ、死刑に値する重大な犯罪となった。年号をつくるのも皇帝の特権である。皇帝は空間を支配するだけでなく、時間をも支配したのである。

シナ(チャイナ)とは何か (第4巻) (岡田英弘著作集(全8巻)) p118


 そして
皇帝はシナという総合商社の社長である」と岡田はいうp102。

シナは商業文明であると述べたが、皇帝は首都に住み、地方に置かれた皇帝の直轄下にある「県城(都市)」を支配した。そして地方にある県城は首都と同じ構造を持ち、四方には城壁がめぐらされ、そのなかにある長屋に官吏と軍人と商人が住んでいた。皇帝は毎月、満月の翌早朝になると朝廷に百官を集めて朝礼を行った。そこでは神々に犠牲いけにえを捧げ、出御して百官の挨拶を受けた。これが終わると夜が明け、市場が立ち、取引が始まった。このように皇帝と市場は強く結びついていた。また地方の県城においても同様に県知事が皇帝の代理役を果たし、首都と同日同時刻に朝礼が行われ、朝礼ののち、城門が開かれ、市場で取引がはじまった

シナ(チャイナ)とは何か (第4巻) (岡田英弘著作集(全8巻)) p102

皇帝は銀行家でもあり、資金を借りたければ紫禁城の窓口に行き宦官に借用書を出してお金を借りた。磁器や絹織物などの直営工場も数多く所有していて、最高級品は直営工場が製造したものだった。皇帝は鉱山開発や経営にも携わっていたp103。

 官吏はもともと本来皇帝の倉庫に泊まり込んで食料を食べる、皇帝の奴隷であった。皇帝制度、すなわち官僚制度は、唯一の産業、あるいは企業であり、シナでは役人にならなければ、意味がなかった。これは現代にも通じていて国有企業が一番給料が高いとか、役人や共産党員になって出世しなければある種の特権が得られないとか、と同じ原理でできている、とp103。

また、漢人の公に対する意識、公私の峻別は、われわれ日本人のものとはまったく異なる。漢人にとって公とは、私腹を肥やすための手段である。…原則として官吏に俸給はなく、自分の地位を利用していかに利益を得るかが官吏の腕前とされた。その伝統は今でも残っており、実入りのいい窓口に着いた者はあらゆる手を尽くしてコミッションを巻き上げる。…シナ文明の特異性、皇帝制度の特徴は、現在の中華人民共和国にまで引き継がれている

シナ(チャイナ)とは何か (第4巻) (岡田英弘著作集(全8巻)) p103-p104

 官僚のトップクラスは皇帝の秘書になり発令、勅令の作成に携わった。残りは、地方官として県の知事となり2〜3年の業務ののち、他の赴任地に赴いた。これは旨みのある役職で、というのもシナの官僚は請負制であり、一定の税を取り立てて収めれば、余剰分は自分の収入とすることができたp144。市場を安定させ、役所の資本金を上手に運用すれば利益金は自分の収入になる。また各種口利き、斡旋でも手数料などを取ることができたp158。

 日本でもよく知られた、そして日本では制度として取り入れられることのなかった宦官とはどういう存在だったのか?

宦官というのは非常に誤解されているが、その実体は軍隊組織であり、近衛兵の指揮も宦官の将校があたった。ちなみに、シナの社会は父系制であり、縦の系列を重んじる。こうした社会にあって生殖機能を失った宦官は、戸籍も抜かれ社会の中での位置がない人間になる。この宦官は皇帝の命令以外に都を離れることも禁止される。というのは、シナの制度は完全なる中央集権であり、権力の下への移譲もない。したがって、あらゆるデシジョンメーキング(決裁)が皇帝に集中し、書類も全部皇帝の机の上にたまってしまう。…これでは体が続かない。実際に「皇帝日に万機を決裁す」と言われたように、一万件以上の文書が机の上を通過した。そこで、これを分担するために宦官が使われた。つまり、宦官というのは皇帝の体の延長上のような者だったのである。

シナ(チャイナ)とは何か (第4巻) (岡田英弘著作集(全8巻)) p144-p145


【城郭都市】

シナの都市の特徴は城壁で囲まれていることで、…城郭都市こそが都市であった。「国」の本来の意味は城郭都市のことであり…「中国」とは、もともと首都の城壁の内側のことである。

シナ(チャイナ)とは何か (第4巻) (岡田英弘著作集(全8巻)) p45

のちに「中国」は、首都の直轄地や皇帝の支配の及ぶ範囲にまで意味が拡張されたが本来の使い方ではない、とのこと。

城壁の形は…もっとも基本的な形は四面が東西南北にそれぞれ面した正方形で、土を練って築き上げる。四面にそれぞれ門を開くが、正面は南門で、門にはそれぞれ丈夫な扉をつけ、日没とともに閉じ、日の出とともに開く。城壁の内側は、縦横に走る大通りによって多くの方形の区画に区切られ、もっとも中心の区画は王宮である。各区画は全て高い塀をめぐらし、大通りから直接出入りできる家は一つもない。家はすべて区画の内部をさらに縦横に通じる小路に面して入り口があり、区画にはそれぞれ大きさに応じて一つ、二つ、ないし四つの入り口があり、入り口にはそれぞれ木戸があって、これも城門と同様に、日没とともに閉じ、日の出とともに開く日没後は夜警が大通りを巡回して、夜間、路上に出ているものがあれば拘引して翌朝まで勾留する。

シナ(チャイナ)とは何か (第4巻) (岡田英弘著作集(全8巻)) p45

 日本人のあけっぴろげな都市からは、想像しづらい窮屈さ、だ。奈良の都、平城京にも壁があったのだろうか?
 岡田によれば、この文章を読めば多くのものが「兵営都市」という印象を受けるだろう、という。そして実際そうだったのである。「首都の城内に住む権利があるのは、役人、兵士、それから商工業者で」あったp46。

 岡田は、城郭都市の内部構造を説明しながら、「シナ特有の城郭都市は、市場が原型」であり、「皇帝が犠牲を捧げる神々は、市場を守る神であり」、「王宮を囲む塀は本来は市場の囲いであり、王は市場の差配であり、朝礼は市場開きの儀式だった」と思われる、と述べているp47。朝廷とは朝礼=儀式が執り行われる庭で王宮の前にある。市場は王宮を挟んで北側にあるp46-p47。
 市場に入る際には、手数料が取られた。これが「税」の起こりである。後世でも、入城者には税が課せられたp47。

 城壁を設けたのは、蛮族からの侵入を防ぐ、という意味と同時に、「密貿易(密交易)を防ぐ」という意味合いがあったのではないか?夜警の見回りやあまりに厳重な夜間の外出禁止も、皇帝や県の長官の目をかいくぐった、税逃れの入城や税逃れの取り引き、手続き逃れを防ぐ意味合いが強かったのでは?と感じたのだが、果たして実際のところは、どうだったのであろうか?

【漢字】
 
漢字はあくまで「書き言葉」であって、一字につき読みと音節が一つしかない、という特徴がある。皇帝の商業ネットワークを支える官僚たちのコミュニケーション手段が第一義であるので、出来事を記述するには適していても、感情や気持ちを書き表すには適していなかった。活用や文法がなく、使いこなすためには標準テキストを丸暗記するしかない。そのため、西欧列強がやってきた時には、適切な対処ができず、近代化のために、2200年の歴史の中で初めて日本文明圏に入ることになった。
 詳しくは本書読書感想 漢字について1−11−21−31−4を参照していただければ、と思う。

シナ:皇帝による巨大な営利企業

 シナの本質は、皇帝が所有する城郭都市の商業ネットワークだという岡田。本書には詳しく記載があるが、簡単に述べると、以下のようになる。

シナの皇帝制度自体が、巨大な商業機構だった。中央官庁にも経常費程度の予算しかなく、外交や戦争のような臨時の支出は、皇帝の私財からまかなわれるのが原則だった。そのため皇帝は全国にわたっていろいろな事業に投資したり直営したりするが、貿易港や国内の交通の要衝に置かれた税関からの関税収入は皇帝に入る首都の城門もまた税関であった。北京城の崇文門は、外城から内城に入る通用口であるため税収が多く、門卒は職権を笠に着て、苛斂誅求かれんちゅうきゅう、横暴を極めたという。

シナ(チャイナ)とは何か (第4巻) (岡田英弘著作集(全8巻)) p159

そういうシナの地方行政は…

皇帝の時代には、シナにはただの一つも純粋の私企業と呼べる企業はなかった。皇帝制度自体が、巨大な営利事業だった…皇帝は全国に県城と呼ばれる四角い城壁をめぐらせた地方都市を設置し、そこに政府からの官吏を派遣して、年貢を集め、首都から送った商品を売りさばく市場を設けた。皇帝はたくさんの都市を直営していた。市場で取引するには入場料を払わなければならない。これが税金になって、皇帝のポケットに入るという仕組みになっていた。また、国内に税関がいくつもあって、その関税も皇帝のポケットに入るようになっていた。…このように、シナの皇帝というのは、とにかく金を稼ぐことには非常に熱心で、これが国家財政のように見えるが、じつはそうではない
 シナ独自のやり方で、地方のあらゆる官庁は独立採算制なのである。それぞれサービスする範囲が決まっており、サービスを供与したらその分だけコミッションを取るというシステムで、官吏は原則として俸給はもらっていない。

シナ(チャイナ)とは何か (第4巻) (岡田英弘著作集(全8巻)) p118-p119

 岡田は、それを現代の台湾に見た。
 大学の先生たちはほとんど現金での給与はもらわず、食料切符をもらい、学生たちから、さまざまな手間賃を取り、学校の図書館にある珍しい本を印刷に回して売り上げをポケットに入れ、官舎を建て直してマンションにして貸出するとか、やっていることが「こりゃ清朝か」と思わせることばかりだったというp119。 

 地方に出かけているシナの役人は、裁判で原告と被告の両方からコミッションを取ったり、口利きをするなどして生活費を稼いでいたので、だから独立採算制と言ったのだが、今でもそうで、中国人民解放軍は万を数えるほどの私企業を抱えているそれは兵隊や将校の生活を支える糧になっているのである。

シナ(チャイナ)とは何か (第4巻) (岡田英弘著作集(全8巻)) p119-p120

台湾有事と言われている昨今。この状況に変化はあったのだろうか?

シナの地方官僚悲話

 169ページから170ページにかけて、典型的な地方官僚悲話が書かれていたので、かいつまんでここに述べておく。
 科挙に受かり、地方への赴任が決まると、金貸しが現れる。官僚には原則的に給料は出ず、赴任手当もない。だが、立場を利用して私腹を肥やすことはいくらでもできるのだ。
 赴任する地方は、自分の言葉が通じない地域である。言葉が通じる地域には親戚もいるだろうし、情も移るだろう。そんなことをして万が一結託でもされて歯向かわれでもしたら目も当てられない。だから、筆談だけがコミュニケーションの地方に飛ばされるのである。
 さて金貸は行列も整え、使用人も集めて服もあつらえてくれる。船を仕立てて何ヶ月も運河を下ってゆく間の金も全部出す。そして任地に着くとそこに居座って貸し付けた金にたっぷり利子をつけて取り立てるのだ。
 役所の半分は私有地なので、そこで畑を作り豚を飼い、足りないものは市場で半額で買える特権がある。
 訴訟が起きればそれが最も儲かるチャンスだ。両方からコミッションが支払われる。租税も、中央に送る分以上に取り立てることができれば、その余った分は全て自分のものだ。こうして、肥やした「私腹」の中から借金を返していく。
 運悪くすぐに更迭されると、借金が返せず、帰れなくなる。途中で死んだりすると、そのまま放りっぱなしになることもある。地方の寺には、おかんに入ったっきり見捨てられた官僚の死体がいくつもある。
 中央でも許認可制度のようなものがあり、所轄事項でおカネをとることが出来る。

つまり施設はおおやけのもので、それを私用に使うのである。その代わり、人件費という概念がない。これはシナのシステムの原則なのだ。私腹を肥やすためにある施設が公---それがシナの官僚制度の根本にあるわけだ。

シナ(チャイナ)とは何か (第4巻) (岡田英弘著作集(全8巻)) p170


シナにおける君臣民

 シナにおける君臣民はどのようなものだろう?

シナの階層は「くんしんみん」の三つに分けられるが、「臣」とは本来、家庭内奴隷の意。シナの官僚にまさしく皇帝の私的使用人だったわけだ。ちなみに「官」は、もともと倉庫という意味である。…つまり官吏とは、皇帝の財産を管理する者なのである。…最初に官僚養成システムをつくった孔子も、李氏の蔵の出納係だった。

シナ(チャイナ)とは何か (第4巻) (岡田英弘著作集(全8巻)) p172

上で、宦官が皇帝の手足であり戸籍もなく移動の自由もない奴隷であった(学力もあり体力がありたとえ近衛兵の将軍であっても)と書いたが、普通に科挙を受けた官僚でも、元々は家庭内の奴隷である、と。

 君は皇帝とそれを取り巻く人種現在で言えば北京の中央ということになる。同様に臣は共産党の幹部ということになる。つまり、中央の意を受けて人民を管理するグループがこれである。最後に民が来る。民は君臣に搾取される対象である。この民も自衛策を講じることがあった。すなわち、地方ごとに団結をしたケースがあるし、貧乏ななかをやり繰りして、優秀な子供を学校に入れ、御触れなどを読めるようにして、それから帳面なども付けられるようにして、年貢などを誤魔化されないようにしたわけである。

シナ(チャイナ)とは何か (第4巻) (岡田英弘著作集(全8巻)) p146

 君臣民は、きっちりとした支配のミラミッド構造が出来上がってしまっている。もちろん、民は自衛策や対策を講じたかったし、実際できる限りの対策を講じたりもしたのだろう。だがお互いに思いやりや尊敬を持ち合う関係からは程遠い。

 このように、シナにおいて君臣と民というのは水と油のようなもので、民衆の海の上に浮かぶ油の塊がシナの統治者ということになる。この意味でシナの王朝は絶対に国民国家ではない。 地主はどうかと言えば、これはだいたいは中間的な存在だが、一般に体制側である。科挙官僚がお金をためて田畑を買い、地主になるケースが多い。

シナ(チャイナ)とは何か (第4巻) (岡田英弘著作集(全8巻)) p146


シナにおける国家観・歴史観

【シナの国家観:天下の外は|人外の地】
 岡田は何度も「現代の私たちが思うような『国家』というものができたのは近代に入ってから、特にフランス革命後であり、それ以前は世界のどこにも今日的な意味では『国家』というものはなかった」と言っている。
 それでついつい「国家観」という言葉を使いがちであるが、正確にいうなら「世界観」ということになるのだろうか?皇帝や漢人たちが、自分たちがいるところをどのように捉えていたか、ということである。
 昔は日本でも「天下」といった。戦国武将の「天下統一」とか。シナでも事情は同じであった、というp120。天下とは自分たちが認識できる世界の範囲、ぐらいの意味だろうか?

それはシナでも同じことで、秦始皇帝が天下を統一したというのは、世界を統一したという意味ではなく、皇帝が営利事業を営む範囲なのである。商業圏なのだ。
 天下の外、つまり北方アジアの遊牧地帯は、天下ではない。南方の南蛮の地域も、天下のなかには入らない。天下とは、皇帝が経営する直営の都市が置かれている範囲なのである。…万里の長城は「ここから向こうに行ったら皇帝の管轄外だ。保護は及ばない」ということで、あちらの方は野蛮人の世界で、天下ではなく、人間の世界ではないということである。

シナ(チャイナ)とは何か (第4巻) (岡田英弘著作集(全8巻)) p121

 皇帝が営利事業を営む範囲が天下であり、それが世界のすべて。そしてそれより外は、人外の地に住む夷狄という位置付け。だからチベットの人々にもウイグルの人々にもあれほどのことが出来るのか…。安易に近世以前の事情と現状を結びつける必要はないし、安易に結びつけるべきではない。と理屈では理解できるが、が現状の酷さを見ると、どうしても結びつけてしまいたくなる…

  では、一方で日本はどうだったのだろう?日本は近現代になるまで、化外の地、人外の地を想定する必要はなかった。海に囲まれていたから。いわゆる植民地とされるところも、投資をしインフラを整え、教育を施し大学まで作った。同じ日本人として扱おうとした。(この「扱おうとした」にもう上から目線が現れてはいるのだが)。その当時、できるだけのことをして欧米諸国に比べて、非常にマイルドな統治だった…。

【シナの歴史観:皇帝=現政権の正当化が「正確な歴史」】 
 では、歴史観はどうだろうか?
 岡田は、日本人は歴史というものを、事実の集積、記録の集積だと思っている、というp111。一年ごとに起きた出来事、データの集積が歴史である、と。一方、シナでは、どうだろうか?岡田は、

  • シナでの歴史は第一義に現政権や皇帝の「正当性」を証すること

    • シナの歴史で現政権や皇帝の「正当性」とは

      • いかに正当な権利を天から受けて天下を統一しているかということ

    • シナにとって「正確な歴史」とは

      • 現政権や皇帝の「正当性」を証すること

    • そのために歴史は政治そのものと化す

      • 現政権にとって都合の悪いことにはいっさい触れない

      • 都合の良いことは思い切り誇張する

    • 歴史の記録悪い奴を懲らしめるためのもの

      • 道徳的な批判の材料が歴史

と言っているp112-p113。それに加えて、

  • 現政権が正当な権利を天から受ける、とは

    • 前の政権の不正=天から見放される

    • その状態を悪と見做す

    • 悪を倒した現政権に天下を統一する正当な権利が与えられる

があるのではないだろうか?

 極端にいうと、シナ史においては、今の日本語の意味でいう正確なことは、何ひとつ書かれていないと言っていい。

シナ(チャイナ)とは何か (第4巻) (岡田英弘著作集(全8巻)) p112-p113

どんなに古くさかのぼっても、シナの正史はそういうものなのである。

シナ(チャイナ)とは何か (第4巻) (岡田英弘著作集(全8巻)) p112

こういうのを読むと、それだけで、なんだかがっかりしてしまう。そういう日本人は私だけではないだろう。歴史が出来事を「正確に記録」していないなんて!(もちろん、素人の私には、本当にそうかどうかは確かめようがない。外語大名誉教授で研究者の岡田の実力と努力を信じるだけだ)。

 だから現代史でいうと、日本は悪い国で、中国は良い国だ、日本のしたことは全部侵略で、中国のしたことは正当な国民的利益の保護である、というのが「正確な歴史」の認識である、ということになる。だから中国人が「日本人が、中国人と同じように、中国だけを唯一の道徳の源泉と見なさないのはけしからん」という結果になるのである。

シナ(チャイナ)とは何か (第4巻) (岡田英弘著作集(全8巻)) p113

 ここに現代中国の反日的な態度の理由がはっきりする
 「歴史とは何か」が違い、
 「正確な歴史とは何か」が違う。
岡田のこの説明によって、近隣諸国と歴史的な見解を同じにする必要などまったくないことが改めてはっきりしたように思う。

 「歴史とは道徳的な批判の材料だ」というシナと、「過去から学び、未来へと活かすものが歴史だ」という日本と。
 私は日本的な歴史への態度の方が、誇りに思えるのだが、みなさんはどうだろうか?

古代から続くシナ都市民の朝

 さて、そろそろ本記事も終わりに近づいてきた。少しお口直しといこう。
 岡田は現代中国の漢人の都市生活について記述している。

 おもしろいことに、漢人の都市生活のリズムは、今日でもむかしからの伝統を保っている午前四時ごろから漢人は公園や空地に集まり、太極拳や剣術、棒術、ラジオ体操、テニス、バトミントンに汗を流し、小鳥を鳴かせ、雑談に興じ、やがて日の出と共にその日の労働に散っていく。路傍の屋台店で軽い朝食を摂るのはそのときである。これが市場の開くときでもある。これがかつての朝廷での、市日の夜明け前の朝賀の集会の変形でなくてなんであろうか。

シナ(チャイナ)とは何か (第4巻) (岡田英弘著作集(全8巻)) p160

その土地で繰り返されてきたことは、2000年もの時が経っても、繰り返されてしまうもののようである。このように平和な日常の繰り返しであれば、大歓迎だ。


まとめとして:シナの国体、日本の国体

 見てきたように、シナ文明は、日本のものとはかなり違う。特に国家観、歴史観の違いは顕著であるように思える。
 同じく漢字の国ではあるのだが、君臣民が示すところもかなり違う。これはつまりシナと日本では国体がかなり違う、からなのではないか?
(左翼思想に染まっていると、え?違う?そうなの?違うと思えないないけどとなるが、違うのだ)

 日本の国体、日本の国とはどういう国か、を古典をもとに紐解いていくときよく言われるウシハクとシラス。みなさんは知っておられるだろうか?
 大日本帝国憲法を作るときに井上こわしは西欧の憲法と共に日本の古典、古事記なども参考にした。そこでは、人々を大御宝おおみたからと呼び、力による支配をウシハク人々のことを知ろうとする権威のあり方をシラスと呼んでいた。日本の国体(=国のあり方)は伝統的にシラス国であり、大日本帝国憲法にもそのように記載しようと、上司である伊藤博文に提案するも、最終的には「それを西洋語に翻訳することはできない」とウシハクとシラスの区別がつかない「統治す」が採用された。
 ウシハクとシラスの違いは下記図がわかりやすかったので、引用させていただいた。
 上記シナの君臣民のあり方はまさにウシハクではないだろうか?
(日本は伝統的にシラス国)。

YouTube動画 古賀真【ひまそらあかね応援動画⑤/ワクワクな未来を描いて選挙へ行こう!】より

 具体的な例で言えば聖徳太子の十七条憲法では、以下のように裁判において賄賂を取ることを戒め勝手に徴税してはいけないと説いている。シナの地方長官らには俸給がないところから、少し極端に言えば裁判ではコミッションという名の賄賂を取り放題税も取り放題であることはすでに述べたとおりである。

第五条:役人たちは飲み食いの貪りをやめ、物質的な欲をすてて、人民の訴訟を明白に裁かなければならない。…訴訟を取り扱う役人たちは私利私欲を図るのがあたりまえとなって、賄賂を取って当事者の言い分をきいて、裁きをつけてしまう。だから財産のある人の訴えは、石を水の中に入れるようにたやすく目的を達成し、反対に貧乏な人の訴えは、水を石に投げかけるように、とても聴き入れられない。…こんなことでは、君に使える官たる者の道が欠けてくるのである。

第十二条:もろもろの地方長官は多くの人民から勝手に税を取り立ててはならない。国に二君はなく、民に二人の君主はいない。全国土の無数に多い人民たちは、天皇を主君とするのである。官職に任命されたもろもろの官吏はみな天皇の臣下なのである。公の徴税といっしょにみずからの私利のために人民たちから税を取り立てるというようなことをしてよいということがあろうか。

十七条憲法wiki 現代文部分抜粋

シラスとウシハク
 きっとこれは「どちらがいい、悪い」で判断しても仕方がないことなのかもしれない。シナという大陸の気候や風土にはウシハクがあっていたのだろうし、日本の気候風土には断然シラスがあっていた。シナも一時期「」という王朝が儒教に基づいた政治をしようと試みたが、まったくうまくいかずあっという間に滅びてしまった。
 ウシハクもシラスも、どちらにも2000年程度の歴史があるのだ。ただ、こういう違いがある歴然とある、ということは心に止めておく必要があると私は思う。
 そして、今日本は、シラス国から強力にそして知らぬ間にウシハクへと移行しつつあるように見えてしまう。だからグローバリズムとは何か、グローバリズムから日本を守るにはどうしたら良いか、をみなで考える時に来ているように思えて仕方がないのだ…。






引用内、引用外に関わらず、太字、並字の区別は、本稿作者がつけました。
文中数字については、引用内、引用外に関わらず、漢数字、ローマ数字は、その時々で読みやすいと判断した方を本稿作者の判断で使用しています。

おまけ:さらに見識を広げたり知識を深めたい方のために

ちょっと検索して気持ちに引っかかったものを載せてみます。
私もまだ読んでいない本もありますが、もしお役に立つようであればご参考までに。

本書『シナ(チャイナ)とは何か (第4巻) (岡田英弘著作集(全8巻))』

『皇帝たちの中国 始皇帝から習近平まで』
お手頃価格で、お手頃サイズだが、私はあまり面白いと思わなかった。あまりにダイジェストすぎる。本書ですら、読んでみればダイジェストのように感じてしまう。どれだけ深いんだ、岡田史観…。


弟子で妻の宮脇淳子氏はモンゴル研究の専門家。結構YouTube番組に出演している。検索すれば、他にもたくさんある。面白く視聴できるものばかりである。オススメします。


近代中国は日本がつくった
この本は3回出版されている。2002年、2005年、2020年。普通に購入しようとすれば、下記2020年版が手に入りやすい…のだが、私は図書館で借りたので、2002年版を参考にした。本のボリューム(ページ数)は2002年版が一番大きい。本記事の引用ページは2002年版であることをご了承ください。


聖徳太子:地球志向的視点から
 東洋思想の第一人者、中村元による聖徳太子。この聖徳太子像が一番ニュートラルで一番基本的に感じられる。







noteにお祝いしていただきました。

よかったら読んでみてください。



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