【読書】現代語訳 古事記:蓮田善明 訳
出版情報
まったく古さを感じさせない昭和9年の現代語訳
本書を読んだ印象は、何よりも上品で、何よりも瑞々しい。昭和9年に訳されたとは。令和を生きる我々にとってはちょっと過剰に思える敬語ぐらいかな、気になるのは。でもそれも、神様に捧げる言葉なら、むしろちょうどいいくらいかもしれない。
訳者 蓮田善明は国文学者だ。古事記に関する論文も書いている。訳者あとがきにあたる『古事記を読む人々へ』では「めんどくさい解釈や解説などをみたい人は論文を参照してほしい、それよりもまず、本書を愛読してほしい」という趣旨のことを述べている。
以前にも書いたが古事記が現代人にも読めるようになったのは本居宣長先生のおかげだ。彼がいたから明治維新も成り立った。日本のルネッサンス(=文芸復興、文芸復古)。だから私たちはみな本居宣長に恩義がある。
それを昭和9年に相応しいバージョンにしようと試みたのが本書なのだが、上記文章から察するに想定読者の大きな部分は当時の子どもたちだったのではないか? 当時、日本の歴史は『国史』といった。国史の教科書で一通り神話は学習する、日本の正史として。そして、きっと、もう一歩進んでいわば原典である『古事記』を直接読んでみたい、という意欲のある少年少女がいたのではないだろうか。「子どものように先入観のない感性を持った人にこそ読んでもらいたい」。それが訳者 蓮田の願いだ。
本書の想定読者。当時の少年少女向け雑誌を読むような、子どもたち。純朴で、お行儀もよくって、多分、生き方の芯をしっかり持っているような子どもたち。それでいて、ちょっとおしゃまで、ちょっと生意気さも感じさせる。私自身、当時の子どもたちのありように関心があるせいか、なんだかそんなふうに思えてくる。
戦前、戦後、平成そして令和へと読み継がれる古事記
本書は三度出版されている。最初は昭和9年(1934)に机上社から。次は戦後の高度成長期である昭和54年(1979)古川書房にて。三度目の出版は、平成25年(2013)岩波書店より岩波現代文庫として。
古川書房が当時、どういう位置付けの出版社だったか不明ではあるが、あとがきを書いている高藤武馬は国文学者であり、出版当時法政大学名誉教授であったことを考えると、それなりに見識があり評価も高い出版社だったのでは、と思われる。また岩波書店は言うまでもないだろう、日本を代表する出版社だ。そういう出版社がそれぞれ昭和9年の本を45年後、約80年後に改めて出版する意義を考えると「本書『現代語訳 古事記』は他をもって替えがたい」とその価値を貴重であると認めたからに他ならない。では、何が他をもって替えがたいのだろうか?
以下、本記事では古事記の他バージョンと比較しながら、蓮田版 古事記の特徴と貴重性を明らかにしよう。
物語と歌謡が秀逸
古事記は3つの要素から成り立っている。物語(=散文)と歌謡(=歌)と神名・人名(=系譜)である。以前読んだ池澤版 古事記ではその3つともが現代人の頭に入って行きやすいように、特に神名・人名部分に工夫が凝らされていた。
本書は何より物語と歌謡の訳が秀逸だ。以前読んだ池澤版 古事記と比較してみよう。さらにもうひとつ三浦版 古事記も比較対象とする。
池澤版 古事記の特徴を簡単に述べると…訳者の池澤は人気小説家。太安万侶の心情や古事記が成立した当時の聴衆(元明朝の高官や貴族たち)に想いを馳せている。特に神名・人名部分に工夫が凝らされている。
三浦版 古事記の特徴は…訳者の三浦は古代文学の研究者。登場する動植物などの注釈が充実しており、系図なども掲載されている。ただし「(征服された側の)語り部に語らせる」という少し過剰な左翼っぽい設定も。
物語部分の比較
古事記の最初の名場面は、イザナギとイザナミが国生みをするところだろう。特にお互いに呼びかけあって、天の御柱を廻るシーン。
本書=蓮田版、池澤版、三浦版をそれぞれ見てみよう。
大体同じ内容が書かれてはいるのだが…。
人によって違うのだろうが…私が言われてうれしいのは「おゝ、美しい、可愛いおとめよ!」だ。「美し」くって「可愛い」。特に「可愛い」が乙女心に響く。男性諸氏はどうだろう?「愛しい方」。うれしくはないだろうか?古風かもしれないが。
辛口で申し訳ないが、池澤版はバブル期のシティホテルを舞台にした三文芝居、三浦版はそれを明治時代に移行させたような感じが否めない。「すばらしい」は百歩譲ってありかも、だけど、直接話法の「いい女」は、ない。口説き文句としてあり得ない(主観です)。「すてきな男」はあり、かもしれないが、直接「すてきな殿がた」と言われて萌えるかな?いや。萌える人もいるんだろう、多分。
古事記は所詮大昔の出来事が記述されている空想の彼方のことだ。「神々、なにそれ?」と思っている読者が、読み進めるうちに、ほんのちょっと身近で、自分がその中で生きているような、参加しているような、そんな気持ちになっていく。それこそがストーリーテラー(=神話の語り部)としての腕なのではないだろうか?
蓮田版 古事記は、ごく自然に古事記の物語世界に引き込んでくれる。物語の主人公にさせてくれる。そんな語りなのである。
もう少し踏み込んでいうと…蓮田版は恋に恋する厨二心を全面肯定で満たしてくれる、他二つはそういう少年少女の気持ちからは少しばかり遠い大人の描写、といえばいいだろうか?
今度は古事記の一番最後、推古天皇の項を見てみよう。
この三つに対して、優劣をつけるつもりはないし、好き嫌いをどれかに強く感じているわけでも、ない。ただ三つの古事記の物語の記述の特徴が典型的に出ているので、ここを引用して比べることにした。
本書=蓮田版は、どの天皇に関する記述かがはっきりわかるように項目立てをしている。そして丁寧語が美しい。そのため記述は簡潔でも、物語をゆっくり味わう余韻がある。
池澤版は一番そっけない。なので、古事記を読み終わった余韻が、正直なところ、あまり感じられない。「え、これで終わりなの?こんなにあっさり?」という感じ。だが、古事記を素直に現代語訳すれば、こんな感じなのだろう。
三浦版はところどころに、背景などを語り部が付け加えている。推古天皇の項目の中にも、さらにその後にも比較的長く、訳者独自の語り部の語りが付け加えられている。それによって「ああ、これで古事記が終わるのだな」と読者もはっきりとわかるようになっている。
この三つは古事記の一読者としては優劣はつけられない。訳者の姿勢の違いを感じるのみである。みなさまはどう思われるだろうか?
歌謡部分の比較
歌謡の部分についても、本書は、「あ、これは歌謡なのだ」とはっきりわかる訳をしている。七五調。あえて言ってしまえば都々逸、だ。江戸時代末期に完成した七五調の口語詩。三味線の音色とともに日本人の皮膚と臓腑に響く江戸情緒。(お江戸日本橋の袂で育った母を持つ私はそう思うのだが、若い人はどうだろう?) 厳密な意味で蓮田訳による歌謡が都々逸の形式にそっているか、寡聞な私にはわかりかねるのだが、都々逸はwikiによれば「主として男女の恋愛を題材として扱ったため情歌とも呼ばれる」とのこと。つまり都々逸には、ちょっぴり世俗的でちょっぴり野卑な側面もある。都々逸は戦前レコードが出るほど人気だった。古事記の歌謡は実際にリズムに乗せて当時広く人々に歌われていたものを再録した、という研究もある、という。広く人々に歌われていた、ということは、まさに昭和9年当時の都々逸がピッタリじゃないか!
実際に歌謡部分の訳を比較してみよう。
以下の歌謡は、神武東征の勝ち戦の折の宴会で歌われた、というもの。
ざっくりとした意味は…
宇陀の砦で、しぎ(ハトぐらいの大きさの鳥)を獲ろうと罠をかけたら
クジラが獲れたよ。思いもがけず、獲れちゃった。
タチソバをしごいても、実がほとんど取れないように
古女房に「クジラをおくれ」と言われたら、ほんのちょっと分けてやれ
イチサカキをしごいたら、実がいーっぱい取れるように
新妻に「クジラちょうだい」と言われたら、持ちきれないほど分けてやれ
わははは、やっつけろ
わはは、こりゃ楽しいな
まったく男子ってやつは…こんな古代から「女房と畳は新しい方が」をやらかしてやがる…
やってみればわかるのだが、素直に手拍子を打ちながら読めるのは、蓮田版だけだ。三浦版は、ときどき裏拍を取りながらであれば、手拍子を打ちながら読める。池澤版は残念ながら音楽の才能のない私にはこれを歌謡として読むことはできなかった。それに「ざまあみろ」とか「こんちくしょう」とかもいただけない。多分、そういう概念自体、当時なかった、あるいは薄かったのでは、と思うから、だ(単なる思いつきと言われても否定はできません)。
ここからは研究者ではない私の妄想タイムではあるが…
これは戦歌ではありながら、実際誰もやっつけていない。描写としては、鳥を獲るために罠を仕掛ける、とか、思いもかけずクジラが獲れちゃった、とか。しかも海ではない、山城で。どちらかといえば、狩猟採集民の収穫の歌だ。それを、戦の後の宴会の歌として転用したように、見えてしまう。
有名な「撃ちてし止まん」という言葉が出てくる歌も、粟に生える雑草を引っこ抜いたら気持ちよくみんな抜けた、とか、磯を這い回る貝をみんな取っちゃえ、とか、「やっぱこれ、縄文の狩猟採集じゃね!?」「せいぜい焼畑じゃね!?」と、妄想が出てきてしまう。多分ある種の悔しさを思い出させる描写も「山椒の痺れる辛さを忘れない」と。熊の肝を舐め続ける古代大陸とはだいぶ違う。口に入れれば拭いきれない生肝の苦々しさと、ピリリと痺れるとはいえ清々しささえ感じる山椒の食味。山椒はどちらかといえば初恋の失恋や望郷の念を感じさせる味ではないだろうか?(山椒の新芽は春の味、山椒の実は初夏の味だ)。「ざまあみろ」とか「こんちくしょう」とかの気持ちからは少し遠い心情のように思うのだが。「やっつけろ」ぐらいが適切では、と思うのは贔屓目が過ぎるのか?
切り捨てられた格好の神名・人名:残念〜
一方で切り捨てられた格好となったのは、神名・人名の部分である。三貴神(天照大神、月読命、素戔嗚尊)のほかは、ほぼすべてカタカナ表記。便利なのは、天皇のお名前によって項目立てがなされているところだ。項目立てについては、当時のお名前ではなく、すべて〇〇天皇と表記されている。
なにしろ訳者 蓮田自身が「片仮名の砂ぼこり」p269と表現しているのだから、ま、しょうがない。それでも…生意気盛りの少年少女のメンタリティを満たす読み物を、という心意気で訳したものだとしたら、妥当なのかもしれない。
神名・人名を大事に読みたいのであれば、池澤版一択である。あるいはかゆいところに手が届く注釈を望むのであれば三浦版一択となる。
一方、本書は神々を記述する上品さと、歌謡の都々逸っぽい野趣。その両方があいまったバランスの良い読み物となっている。それは万人が感じるところなのでは、それこそが他をもって替えがたい価値であると思うのだが、みなさまはどう感じられるだろうか?
終わりに
なかなかどのニーズも満たす古事記って見つからないものだなぁ、というのが率直な感想だ。だが蓮田善明による本書 現代語訳 古事記は、物語と歌謡の訳が秀逸!読んでみる価値のある古事記だと感じた。手元に置いて愛読されることを訳者は望んでいる。
訳者 蓮田善明は三島由紀夫に影響を与えた人物としても有名だ。それについては別記事を書いたので、そちらを参照してほしい。
引用内、引用外に関わらず、太字、並字の区別は、本稿作者がつけました。
文中数字については、引用内、引用外に関わらず、漢数字、ローマ数字は、その時々で読みやすいと判断した方を本稿作者の判断で使用しています。
おまけ:さらに見識を広げたり知識を深めたい方のために
ちょっと検索して気持ちに引っかかったものを載せてみます。
私もまだ読んでいない本もありますが、もしお役に立つようであればご参考までに。
今回比較した現代語訳、口語訳の古事記
昭和初期の少年・少女雑誌
昭和54年版であとがきなどを書いている人々
高藤武馬に関しては著作権者に連絡が取れないので、連絡ください、と岩波文庫が。
坂本勝の名前を検索してヒットしたのがこの人。(もし別人と判明すればこれは削除します)
なぜ、あやふやだけど記載することにしたのか、といえば、この人の書いた解説が、どこか宮崎駿の世界観に通じる、というか古事記が上程された頃にはとっくに終わっていた縄文の香りを嗅ぎとった、と言う内容だったので。(ちなみに宮崎駿の縄文を感じさせる映画はもっと後に世に出た)。私にとって今後も注目したい人だったので、記録として。
noteにお祝いしていただきました。よかったら見てみてください。
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