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古事記をもう一度あたまから読んでみる(現代語訳『古事記』では分からないこと 1)



■はじまりの古事記

天地初發之時、於高天原成神名、天之御中主神。

『古事記』冒頭の一文

「天地初発之時、」から『古事記』は始まる。

「あめつち(天地)はじめてあらはしし時」である。

「天」は「あめ」、「地」は「つち」とそれぞれ読む(む)のが慣わしだ。

大和ことばは、全身の感性を呼び起こす。

にわかに降り注ぐ雨と、土の匂いが、鼻の奥に入り込んでくるような感じ。

足裏に感じる柔らかい土と、はるか上空から打たせ湯のように身に注ぎ重力の存在を思い知らす雨の、柔と剛の触感。

淡い景色が段々とはっきり見えてくる様が、「あらはし」(*1)という言葉からうかがうことができる。

天と地とが、始めてその姿をあらわした時、我々はその場にいる。これが、『古事記』の冒頭だ。


■感性と理屈

『古事記』は、耳から聞いた時には大和ことばとして感性に訴え、目で字を読んだ時には擬似漢文(*2)として理性的な解釈を必要とする。特に、イザナギ・イザナミの国生みの物語りが始まる前の、「天地初発之時、」から始まる冒頭部分はそうである。

『古事記』の冒頭は、天之御中主神アメノミナカヌシのかみから始まり、宇摩志阿斯訶備比古遅神ウマシアシカビヒコヂのかみなど全部で17の神々(図1)が羅列されるだけ(ほぼ)で、耳で聞いてもさっぱり意味がわからない。

それとは逆に、国生みの物語以降は、漢字だらけの文字を見るより、大和ことばで耳から聞いた方が断然分かりやすい。だからか、一般的な古事記の物語は国生み以降の話ばかりである。国生み前の古事記の物語は、誰の目にも触れるようになっているのに隠されている。

『古事記』の冒頭は、敢えて、文体を変えている。なぜそうであるのかについては後に語る。

図1


◎今回のあとがき

キリスト教の世界には天使が居て、必要な人に必要なタイミングで神の声を届けてくれるらしい。

神道の世界では、神さまがたくさんいらっしゃるので、親切な(?)神さまが直接人に話しかけてくれます。もともとのキリスト教の世界では、無限の神が有限の人間に感じ取れるはずがないとして、神が直接人に話しかけることを認めない発想も強いようですが(ルターやカルヴァンの時代にはそれで教派が分かれています)、神道にはそういうこだわりはありません。

江戸時代の末期から昭和の戦前までの神々は、女性に語りかけることが多かったのですが、戦後はどうも男性に語りかける神さまが多いようですね。

ところで、神道の神さまは一柱(一般には、あまり馴染みがないけれど、日本の神々を数える単位は「はしら」です)ではないので、届けられた言葉は、必然的にその神さまのポジショントークになってしまいます。それを受け手が一神教的に解釈してしまったら、神さまはきっと迷惑だろうと思うのだけれど、神のことをおもんぱかった神の声の受け手というのはあまり聞きませんね。

『古事記』の冒頭は、感性だけでは意味がわからず、理性と感性が両輪で働かないと意味がわからないように書かれています。理性がポジショントークを許さない構造になっているのです。『古事記』冒頭の神々は、まるで、感性だけで神の声を聞けると思うなよと教えてくれているかのようです。

一柱の神の発声を唯一絶対神化しないということでは、女が神の声を聞き、男が審神さにわするスタイルは、感性と理性のバランスが取れたすぐれた技術だったように思います。審神さにわとは、神懸かりした神の神意を解釈することで、その神がどの神かあるいは神でない別の霊的なものなのかを判定することです。
でも、このスタイルは、日本の伝統というわけではなく、それに戦後にはほとんど廃れてしまった。

『古事記』冒頭をひもとけば、最初にあらわれてくるのは女や男を超越した独神ひとりがみと呼ばれる神々です。

男女というくくりより、個を見る意識が一般的になってきた令和の御代は、『古事記』の世界が溢れ出す準備が整った時代と考えることができるのではないか、私はそんなふうに思っています。

ただし、LGBTQの意識と独神ひとりがみの世界観とは、西洋の甲冑と武士の鎧兜よろいかぶとのように、似て非なる存在なパラレルワールドかもしれません。スパイダーマンシリーズなどパラレルワールドを舞台にした映画では、要となる物語は必ず異なる世界の接点でつむがれます。社会のギクシャクや生きづらさを和らげたりするのには、現実にあるパラレルワールドを意識してその接点に立ってみることが有効かもしれません。
西洋的なありようと、今も残る『古事記』的なありようとを審神さにわするには、『古事記』の原文を冒頭からたどるのが確実です。

神が一つの世界では、神の声はたくさんの天使が運んできます。神がたくさんいらっしゃる世界では、どれかの神の声が入ってくるのを待つ必要はないように思います。耳を澄ませば、神々の声が、声の集まりとして聞こえてくるからです。せっかく多神教の世界に暮らしているのですから、一柱の声にこだわらなくてもいいんです。
もし耳を澄ましても一柱の声も声の集まりも、何も聞こえてこないなら、言語として聞こうという先入観があるからかもしれません。

それに、声が聞こえなかったら、理性をその分多く働かせて、目で読んで声を取りに行ってもいいわけです。『古事記』は最初から、感性と理性の両方をフルに使うことを要求しています。『古事記』を、当時のままに受け取るような読み方で、『古事記』を読んでみたいと思いませんか?

『古事記』の冒頭部分については、以前に、「『古事記』の原文を論理にこだわり1文字目から読んでみる」というのを、3年くらいかけてnoteに書きました。ついつい熱が入って、毎回長文になってしまい、思いがけず、かなり好評をいただいた一方、長すぎるので読む気がしないという感想も何人かから受け取りました。

暗号解読の意識が強かったため、理屈っぽくなりすぎたことも、読みにくさを増してしまったように思います。

そこで、今回は、肩の力をやや抜いて、そして、ふたたび耳を澄ませて、音楽アルバムのセルフカバーのように、もう一度『古事記』の冒頭を読み直してみることにしました。お付き合いいただけたら、ありがたいです。


◎註釈

*1 「天地初発」の「発」をどう読む(む)かについては諸説あり現時点で定説となっているものはない。神野志隆光と山口佳紀は、「発」をはじめて「あらはれし」と「あらは」と読ん(ん)だ(『古事記注解2』笠間書院)。慧眼と思う。ただし、ここは「あらはれし」ではなく、「あらはしし」と読む(む)べきと考える。詳しくは拙稿に書いた。

*2 古事記は漢文表記のところとあて字のように漢字をあてはめただけのところがあるため、漢文ではなく擬似漢文である。専門的には、「変体漢文」や「和化漢文」などのように言うが、一般用語にはなっていないので、擬似漢文とした。


◎一部参考にしたもの

参考文献を書くと、スピリチュアルな方々に敬遠されそうなのですが、本シリーズはスピリチュアルな方々にこそ読んでもらいたいと思って書いています。

大学時代に(卒業して就職してからも若いうちは)ちょくちょく宗教人類学の先生とお話しさせていただく機会があり(自分が部長をしていた部室の、隣の部室の部の顧問をされていて、それで知り合ったという縁がありました)、スピリチュアルな追求と文献渉猟が、自分の中では違和感なく両立、というかむしろ不可分になっています。一部の学者に降りてくるインスピレーションは、限りなく神懸かりに近いと思うし、そんな場合、文献渉猟は審神さにわの役目を果たしていると思っています。

ちなみにその先生は、教派神道(明治時代に国に教派として公認された神道系のいくつかの新興宗教)の流れを汲む当時わりあいメジャーだった新興宗教の教祖の相談相手(もちろんスピリチュアルな)なんかもしていたのですが、ハーバードにも籍を置くゴリゴリのアカデミシャンでもあったので、怪しい雰囲気はありませんでした。ごくごく稀に、キレのある術を使う方ではありましたが(こう書くと誤解されそうですが、人類学者は我々の文明以外のプロフェッショナルなので、そういう文脈で理解してもらえたら幸いです)。

さて、今回扱ったのは「天地初発之時、」だけなのですが、これをどう読む(む)か、いちおうメジャーな出版物や論文などには一通り目を通しました。最も参考になったのは、前述の

・『古事記注解2』(神野志隆光・山口佳紀 編著・1993年・笠間書院)

です。参考にはしましたが採用しなかった書物や論文について列挙することは割愛しますが、原文のリファレンスとしたのは、

・『古事記〈修訂版〉』(西宮一民編・2000年・おうふう)

です。ソフトカバーで、かつ薄くハンディなので、とても重宝しています。ただし、出版元が倒産してしまい、もはや古書でしか手に入れることができないことが残念です。

本書は、書き下しの流儀がとてもしっくり来る点でも、愛用の書なのですが、すべてを受け入れているわけではありません。例えば、同書では「天地初發之時、」は、「あめつち(天地)はじめておこりし時に」と書き下していますが、私はその説を取っていないことは前述のとおりです。

『古事記』について書くときは、手元に原文と現代語訳の対比がされている書物を置いておくのが便利です。現代語訳だけの本では、訳に訳者の考えが入っているので、自分の感覚や思考の妨げになります。原文の掲載されていない『古事記』は、『古事記』の二次創作に等しい存在です。二次創作には二次創作の価値や良さもあると思いますが、その魅力は『古事記』そのものの生の魅力なのではありません。

あまり書くとまた理屈っぽくなってしまうので、このくらいで失礼します。


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