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あえて聖なる書として『古事記』を読む(現代語訳『古事記』では分からないこと 2)


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■『古事記』の封印を解く

『古事記』を聖なる書物として読むこと。現代の日本においては、それは『古事記』を神聖視する態度からの解放からはじめなくてはならない。とても逆説的だが仕方ない。
なぜなら、『古事記』の神聖視は、国家神道の影響が強く、それは、「記紀神話」として『日本書紀』と併せ読みする態度とあまりに強く結びついてしまっているからだ。

『古事記』は聖なる書物であり、『日本書紀』は国家公認の歴史書である。この2つを一体視することは国家を神聖視することを意味し(問題はそれが唯一絶対神的神聖視であることだ)、それゆえに国家神道では「記紀」は別ちがたい存在となるが、その一体視は『古事記』の神聖性を毀損する。

国家神道のご神体は国家であるため、「記紀神話」においては、『古事記』は『日本書紀』を神格化する奉仕者の役割を担うことになってしまうのだ。『古事記』を聖なる書物として読むためにまずは、『古事記』を脇役の地位から救い出さなければならない。


■『古事記』のメッセージは封じられた状態にある

『古事記』が『日本書紀』の奉仕者であることのどこが問題か。今日こんにちの保守派の諸兄諸姉は、そう思われるかもしれない。

問題は二つある。

一つめは、それではいくら真摯に読んでも『古事記』のメッセージに届かないという問題である。聖なる書物というからには、時代を超えて生き方のヒントとなるようなことが書かれているはずであるが、「記紀神話」という目的が決まっている読み方では『古事記』から様々な可能性を読み取るような読み方は封じられてしまう。

二つめは、それでは日本の国のあり方の可能性を読み取れないという日本という国家の可能性の問題である。『古事記』が書かれたのは、日本という国のあり方が、中国の影響を受けて律令国家として歩みをはじめたころである。
『日本書紀』は、中国に恥じない国家としての体面を保つための書であり、『古事記』は逆に、国が律令国家として整備されていく、すなわち中国化していくことによって失われてしまうことを書き留める意図を持った書である(後日書く)。それが、「記紀神話」という律令国家前提のくくりでは、『古事記』の意図は封殺されたも同然である。

現代は、AIやバイオ、通信などのテクノロジーの発展や、国際社会の枠組みの変革で、人々の生き方や社会や国のあり方がゆらいでいる時代である。言いかえれば、『日本書紀』以来の日本という国家のありようが、バージョアンアップを重ねるだけでは耐用年数を超えることができなくなった時代である。

他の聖なる書物がそうであるように、『古事記』は、人の集団と個々人の双方に働きかける。

『日本書紀』に始まる国家の衣を脱ぎ捨て、どのような新しい国家の着物を身につけるべきかを考えるためにも、本来の裸の日本を知っておくべきだ。
そして裸の日本とは、日本列島に暮らす我々ひとりひとりの心のあり方そのものでもある。

これから、聖なる書物として『古事記』に向き合うことで、はじめて立ち現れてくる、隠れ/隠されてきた『古事記』の姿を明らかにしていきたいと考えている。

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