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『古事記』に書かれている世界のはじまりについて<上>(『古事記』通読②)ver.1.62
※『古事記』って何?(『古事記』通読①)からの続きですが、単独でも支障なくお読み頂けます。
『古事記』を原文に沿って、アタマから読む機会ってそうは無いですよね。ノベライズされた古事記や、古事記の解説本は、たいていがイザナキ・イザナミの国生み神話から書き始められていて、国生み以前、世界の始原について『古事記』の神話がどう書いているかは、スルーされてしまっています。
現代語に訳された古事記でも、冒頭の神々についてはただ神名が羅列されているだけで、その並びが何を意味しているかの可能性についてまで書かれている本は見たことがありません。
訳した人が学者である場合は、学会で定説がないので、どれかの説に偏った訳書を書くわけにはいかないという事情があるものと思います。
訳した人が学者でない場合は、よくわからない冒頭の神々はスルーという意識が働いていたり、日本書紀の本文に出てこない神々だからスルーという意識が働いていたのかもしれません。
でも、それって、連続ドラマの第1話を見逃すようなもの。後々のストーリーを受け取り損ねてしまいかねません。
イザナキ・イザナミの登場前にも、『古事記』には、なんと15柱もの神々が登場するのです。それらの神々が紡ぐ物語について、『古事記』の原文から最大限に情報を引き出して、通読していきたいと思います。
■『古事記』の表記
では、さっそく『古事記』の原文を見ていきましょう。最初の一文は次のとおりです。
[古事記原文 冒頭]
①天地初發之時、於高天原成神名、天之御中主神。
漢字ばっかりです。『古事記』は日本最古の書物で、まだ日本語の表記方法が確立されていないために、原文は、全て漢字で書かれています。
ただ、漢文をベースにしながらも、なんとか日本語らしい表記方法にしようと工夫されています。
例えば、『古事記』4番めの神は、ウマシアシカビヒコヂの神ですが、その神の登場シーンの原文の一部は、次のように書かれています。
國稚如浮脂而久羅下那洲多陀用弊流之時、
これは、
国稚く浮ける脂の如くしてクラゲなすただよへる時、
と読みます。学生時代の漢文の勉強を覚えている人はピンと来ると思いますが、前半部の「國稚如浮脂而」(國は国の旧字体)が、漢文表記なのに対し(「而」は「置き字」)、後半部の「久羅下那洲多陀用弊流之時」のうち、「久羅下那洲多陀用弊流」は単なるあて字です。
「久(ク)羅(ラ)下(ゲ)那(ナ)洲(ス)多(タ)陀(ダ)用(ヨ)弊(ヘ)流(ル)」
ヨロシクを「夜露死苦」と表記しているのとあまり変わりないわけです。
「クラゲ」を「久羅下」と漢字表記するのはいいとして、「ただよへる」を「漂へる」とせずに「多陀用弊流」としているところに、漢文から脱却しようという強い意志を感じます。
ただ、このような漢字だらけの原文を読んでいくのは大変ですし、『古事記』表記を解説したり学んだりすることは本稿の趣旨ではないので、以降は、特に断りのない限り『古事記』「原文」は、漢字表記の方ではなくて、書き下し文(漢字カナまじり文に直したもの)を指すことにします。
★『古事記』マニアック注釈(マニア向け、読み飛ばし可能です♪)★
本稿では、(漢字だらけの)原文は、西宮一民編『古事記』修訂版(おうふう・2000年)をベースにしています(おうふう、もう無いんです。涙。)。
書き下し文は拙訳(私訳)です。書き下し方は、学者によって諸説あったりするので、拙訳が気になる方は、上記(西宮一民編『古事記』修訂版)または
・西宮一民 校注『古事記』新潮日本古典集成<新装版> 新潮社
と、
・倉野憲司/武田祐吉 校注『古事記』日本古典文学大系 岩波書店
・山口佳紀/神野志隆光 校注『古事記』新編日本古典文学全集 小学館
と拙訳とを比較検討されることをオススメします。
そこまで、追求する気はないぜという方は、拙訳を信頼して下さいね。
あと、書き下し文には、センテンス番号(①~)を振ることにします。
ということで、あらためて。
■天地初発の時
[古事記原文 冒頭]
①天地初発の時に、高天原に成りませる神の名は、天之御中主神(アメノミナカヌシの神)。
『古事記』の冒頭は、「天地初発の時」(天地初發之時)から始まります。「天地開闢」ではなく、「天地初発」なんですね。
記紀神話などと言われ、同じような内容だと思っている人も多い『古事記』と『日本書紀』ですが、最近では両者の神話はまったく異なったものであることが次第に知られるようになってきました(どう違うのかについては、「『古事記』って何?」に書いています)。
当然、『古事記』の「天地初発」は、『日本書紀』の「天地開闢」とは全く異なる世界の始原をあらわしています。『日本書紀』の「天地開闢」の記述は、漢籍(当時の中国の文献)からのコピペであり、中国の古代思想である陰陽思想に基づくもので、日本古来の思想ではありません。
『古事記』が書かれた当時は、今よりも、もっと、やまとことばと漢語とが区別されていたので、「天地初発」も「テンチショハツ」と熟語のようには読まれていませんでした。
では、どう読むかということですが、江戸時代の有名な国学者である本居宣長は、「天地初発の時」を「あめつちはじめのとき」と訓みました(『古事記伝』)。
「初発の時」だから、<初めて「発」の時>なんですが、「発」はうまく動詞になってくれません。宣長が生きていた当時は、「発けし」と訓まれていたようなのですが、宣長はこれを否定します。
「発けし」だと、「天地開闢」になってしまう(=からごころ)から否定しなければならないというわけです(「開」も「闢」も「ひらく」と読まれる漢字です)。
はじめ天と地が渾然一体となっていたのが、天と地とに分離したというのが「天地開闢」の意味で、分離することを「ひらく」と表現したのですね。
宣長の主張は、「あめつちはじめてひらけし時」と訓読するのは陰陽思想を『古事記』に持ち込む訳であって全くの間違いだ、陰陽思想は日本古来の思想ではなく中国からの外来思想(からごころ)だからだというものです。
ところが、せっかく「からごころ」と分離されていた『古事記』は、戦中の国家神道により、記紀神話として、いっそう強固に『日本書紀』と混同されてしまいました。そして、残念ながら今もその影響が強く残っています。『古事記』の物語も「天地開闢」から始まると思っている人が今も多いのは、国家神道の名残なんですね。
■「天地初発の時」とは、どのような時なのか
では、「天地開闢」とはまったく異なる「天地初発の時」とは、どのような時なのでしょうか。
結論を急ぐ前に、原文を書き下し文にしてみます。
本居宣長流に書き下すと、
①天と地のはじめの時、高天原に誕生された神の名は、天之御中主神(アメノミナカヌシの神)であった。
となります。ただ、実は、現在ではこのように訓読されることはほとんどありません。
「発」を「発けし」と訓みたくないからと言って、「初発」を「はじめ」と読ませるのは、いささか無理筋だからです(「発」は、どこにいったんだ?ということです)。
それに、「あめつちはじめのとき」では、ただ「はじめの時」と言っているだけで、それがどういう時なのかさっぱりわかりません。
そこで、本稿では、別の書き下しを試みることにします。
①天地初めてあらはし時、高天原に成りませる神の名は、天之御中主神(アメノミナカヌシの神)。
「発はし」という書き下しは私の自説です。なぜ「発はし」という訓みにこだわってオリジナルの書き下しにしたのかの理由は、次の注釈のとおりです。
★『古事記』マニアック注釈(マニア向けなので読み飛ばし可能です♪)★
「初発」の訓みには定説がありません。現在の多数派は、「初めてひらくる時」と「初めておこりし時」ですが、「ひらくる」は前述のように本居宣長が陰陽思想に影響を受けた間違いだと指摘しています。「おこりし」は、漢籍に「天地初起」という言い方があり、「発」を「おこる」と読ませる必然性がありません(「起」とは書かれなかった理由がない)。このため、神野志隆光氏と山口佳紀氏は、「初めてあらはれし時」という訓みを提唱しています(『古事記注解2』笠間書院)。
私の「発はし」は、この神野志-山口訓みを、自動詞から他動詞に変えたものです。
『古事記』の「初」の他の箇所での用例を見ると、次の動作がある初めの動作について「初」が用いられています(例:イザナギの禊ぎのシーン)。
つまり、「初めてあらはれし時」と訓んでしまうと、「二度目にあらはれし時」や「三度目にあらわれし時」があることになってしまうのです。
それはそれでユニークな世界観ですが、『古事記』原文では、天地は一回きり、世界はこの世界しかなく、次の天地のはじまりの記述はありません。私は、『古事記』原文から導けない情報を付加してしまう訳出は避けるという方針をとっていますので、「初めてあらはれし時」という訓みも採用するわけにはいかないのです。
神野志・山口説の「発」は他動詞ですが、「発」があらはすという自動詞であれば、次以降の動作は「発」の主体が決めることになるので、次以降は必然ではなくなります。天地がまた「発」しようとすれば、二度目三度目の「発」があり得ますが、天地が「発」を一度きりとすれば、二度目三度目の「発」は起こりません。どちらも可能世界ですが、『古事記』原文には二度目があるとも無いとも書かれておらず、ただ一度目の天地初発が書かれているのみです。つまり、「発」を他動詞とした時のように、二度目が必然ということにはならないのです。
以上から考えて、「発」は他動詞では無く自動詞の準体法として「あらはし」と訓むのがよいのではないかというのが私の考えです。これは今のところ私だけの自説ですが(時間が無くて論文にはできていません)、文脈から読む限りでは、合理的な訓みだと思っています。
また、「高天原」は、「たかあまのはら」と訓んでいます。これは、『国語史学基礎論』(小松英雄、笠間書院)に従ったものです。「たかまがはら」と訓むようになったのは江戸時代からだそうで、『古事記』が書かれた時代は「たかあまのはら」と訓んでいたそうです。
次に、書き下し文を現代語に訳してみますね。
世界の始原。天と地とがあった。
天は、天として自らを意識し、地は、地として自らを意識し、世界は世界となった。
これがはじまりの時である。
そして、広大な天に、高天原という場所があった。そこに、最初の神が誕生した。
名を、天之御中主神(アメノミナカヌシの神)と言った。
あれ? 短い書き下し文が、現代文になったら長くなったぞ、と思われたでしょうか。
実は、この現代語訳は、いわゆる「超訳」とは逆の方向性で、逐語訳ではなく本来なら註釈とすべきものも含めた訳にしています。
逐語訳をはみ出たところについて、なぜそのような読みになるのかについては、次回以降にしっかり「解説」していきますのでどうかご安心下さい。
■脱訓詁学的読みの可能性(マニアック注釈)
★『古事記』マニアックだけど読んで欲しいです★
国文学では、必ずしも『古事記』の文脈を論理的に詰めて読むことはしません。
『古事記』が書かれたときに論理的思考があったと証明しない限り、必要以上に『古事記』を論理的に読むことは避けるべきだという学問態度を尊重されている国文学の先生が、少なからずいらっしゃいます(この「必要以上」がどこからになるのかは、ガイドブックがあるわけではないので、暗黙の線引きを把握することになるんですよね)。
そうした先生方が大切にされている国文学の論理は、一次資料に直接参照できるもののみで構築しようとする論理(訓詁学的論理)です。
・Xという記述があり、Yという記述がある。
・XとYとは矛盾する。
・つまり、矛盾するXとYがある。
・もしXとYとが矛盾しないという仮定を持ち込むならば、XとYとの間にXとYとを矛盾無くつなぐAが原資料から欠落していると考えねばならない。
という論理が訓詁学的論理です。
訓詁学では、一般に次のような自然科学や社会科学では一般的な論理の積み重ねは避けられます。
・Xという記述があり、Yという記述がある。
・XとYとは矛盾する記述だが、Zという解釈を導入するとXとYとは矛盾しない。
・したがってZという解釈の可能性がある。
でも、私は、このような社会科学的な論理の積み重ねで『古事記』を読んでみたいんですね。
というのも、私は、『古事記』は訓詁学的手法のみでは読むことはできないだろうと思っているからです。
で、実際にそのように論理的に読んでみたのがこの連載なのです(「スサノオは、なぜ母を思って泣いたのか」を読んでいただけると両者の論理とその帰結の違いがわかりやすいかと思います)。
ただし、誤解のないよう言っておかなくてはなりませんが、それは国文学的手法の否定ではありません。緻密な国文学的調査の積み重ねの上に、国文学では通常やらない社会科学的な論理での読みをやってみたいのです。そのことで見えてくる『古事記』の物語世界をのぞいてみたいのです。
後世の話ではありますが、例えば『歎異抄』(鎌倉時代・親鸞)や道元などの思考を見れば、日本がギリシア論理学や一神教神学を輸入しなくても、遜色のない論理的発想を獲得することができていたことは史実です。
鈴木大拙は、『日本的霊性』で、日本人の真の宗教意識(=日本的霊性)は鎌倉時代に親鸞と道元により始めて明白に顕現し現在に至ると指摘しました。
親鸞や道元が極めて論理的思考を行っていたその日本的霊性の源流に、論理的思考があったと考えてもおかしいとは言えないのではないか。『古事記』の論理的探求は、日本的霊性によった読みであるなーんてことを私は考えているわけです。
『古事記』に書かれている世界のはじまりについて<下>(『古事記』通読③)につづきます。
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ver.1.1 minor updated at 2020/9/29 (一部読みにくかった日本語をあらためました)
ver.1.2 minor updated at 2020/11/1(「■『古事記』の表記」を加筆)
ver.1.3 minor updated at 2021/2/10 (一部読みにくかった日本語をあらためました)
ver.1.4 minor updated at 2021/3/31 (目次追加。「マニアック注釈2」を一部加筆修正)
ver.1.41 minor updated at 2021/7/31 (項番を①→②に採番し直し)
ver.1.5 minor updated at 2021/8/4 (初発の訓みについての注釈を分かりやすく改訂しました)
ver.1.6 minor updated at 2021/10/25(一部よりわかりやすく加筆しました)
ver.1.61 minor updated at 2021/11/15(ルビ機能を適用)
ver.1.62 minor updated at 2021/12/17(一部日本語として適切でないところを修正しました)
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