【改訂】『古事記』に書かれている世界のはじまりについて<下>(『古事記』通読②)

■『古事記』は世界のはじまりを記述しているか
『古事記』は世界のはじまりについての記述がないという主張があります。
「天地初発の時」を本居宣長のように、「天地はじめのとき」と捉えてしまえば、確かに「はじめのとき」がどのような時だったかは書かれていないことになります(宣長自身は、にもかかわらず『古事記伝』でオリジナルのはじめの時を披露していますが、それはまた別の話)。
 また、「天地はじめのとき」から始まる物語では、どのような経緯ではじめのときに至ったかについて何も書かれていないことになります。

ですが、世界のはじまりについての記述のない神話はあまりに不自然です。『古事記』に書かれていない(と思われる)情報を『日本書紀』の記述をひっぱってきておぎない、「天地初発」と「天地開闢(かいびゃく)」とを混同する読み方は、確かにデタラメではありますが、『古事記』に世界のはじまりを読みたいというニーズに応えたものではあります。

また、『古事記』の最初の神である天之御中主神(アメノミナカヌシの神)が、宇宙の創設神であるという考えも、これもまた無理がある(アメノミナカヌシの神が誕生する前に天も地もあったのですから)のですが、同様のニーズを満たしたものと言えるでしょう。

では、『古事記』に世界のはじまりについてを読むことができないかと言えば、そんなことはありません。「天地初発の時」が、世界のはじまりを表しているとしたら、それはどのような始まりなのかを、『古事記』の他の書物や伝承などを一切参考にせず、『古事記』に書かれていることだけから読み取れば良いのです。


■神学的な読みで『古事記』を読む
そのような読みを神学的な読みと言います。一見、意味の無いように思えるあるいは矛盾するように見える記述から、矛盾の無い意味を読み取る手法を神学と言い、一神教徒の文化圏は、歴史的にその技術を磨いてきました。

そしてその思考法は、社会科学の論理を生み、現代のビジネスにも連なっています。MBAの最高峰でもあるハーバード大学は、キリスト教の指導者を育成するために設立されたことは偶然ではありません。無秩序に見えるマーケットから法則性を見いだしてビジネスに応用する知恵は、神学的思考の延長線上にあるものです。


■日本にもあった神学的思考
日本でも、鎌倉時代の親鸞(浄土真宗の開祖)が神学的思考(日本では仏教には神学的思考という言葉は使いませんが便宜的に)に生きていたことは、『歎異抄』からうかがい知ることができます。『正法眼蔵』の道元もそうでしょう。時代をさかのぼって空海も含めるべきかもしれません。

ただ、残念ながら、日本の仏教は江戸時代に葬式仏教化し、神学的思考は欧米経由のルートしか無くなってしまいました。また、親鸞や道元など神学的思考に生きた人物があまりに宗教的巨人であったためか、あるいは神学的思考は布教の対象とはならなかったために、日本由来の神学的思考は一般には広まりませんでした。

話をもとに戻せば、『古事記』の読解の主流は国文学です。そして国文学は訓詁学の伝統のもとに、「誰が読んでもそうとしか読むことができないような読み方」を追求します。国文学は、最大公約数を求める学問なのです。
国文学の対象はテキストですが、神学の対象はただのテキストではなく、「聖典」(経典)です。聖典は、無限に教えを引き出せるものとして読まれる必然性があります。ただし、無限と言っても原典から紡ぎ出されないものは厳密に排除されなければなりません。神学は、最小公倍数を求める学問と言えるかもしれません。

国文学の手法は聖典読解には不向きなのです。

 『古事記』を聖典として読むためには、論理的に詰めた解釈が重要になります。散文を、論理的に詰めて解釈せずに「文学」として鑑賞することは可能ですが、「聖典」は鑑賞する対象ではないからです。当時の時代性で言えば、道教や仏教も論理的な体系として日本に受容されています。
 『古事記』を論理的に詰めて読むことを避けてしまえば、『古事記』に聖性を追求することは難しくなります。一般的には、聖性は論理と対立すると思われがちですが、聖性は迷信や盲信からの飛翔(離脱・離陸)ですから、その飛翔のために、論理的解釈が不可欠なのです(論理は恩寵)。


■『古事記』の可能性を拓く
『古事記』は、「聖典」として編纂された性格を持つ書物
であり(これについてはこちらに書きました)、同時に「聖典」になり損ねた書物でもあります(「聖典」は外典を許容しませんが、国家神道下でも『古事記』は『日本書紀』と相互補完的に読まれており、『古事記』そのもののみを尊重するという態度で読まれることはありませんでした)。つまり、本居宣長以来、『古事記』は一度もその可能性において読まれてこなかった書物なのです。

『古事記』が、どのような可能性を内包しているかを探究するのが、本稿の狙いです。それは、『古事記』から飛翔して自由に思考する二次創作や「宗教的な」読みとは異なります。あくまでも『古事記』そのものの可能性の発掘にこだわるからです。

図2


■ダイアローグ古事記
 話がすっかり硬くなってしまいました。楽しくいきましょう(反省)。

ここから先の解説は、稗田阿礼と一番の読み手であったであろう当時の皇子とのダイアローグ(対話)を想定したものとします。いきなり、くだけた調子になります。すみません。

(現代語訳再掲)
世界の始原。天と地とがあった。
天は、天として自らを意識し、地は、地として自らを意識し、世界は世界となった。
時が、動き出した。
広大な天に、高天原(たかあまのはら)という場所があった。そこに、最初の神が誕生した。
名を、天之御中主神(アメノミナカヌシの神)と言った。


■はじまりの語り

稗田阿礼(ひえだのあれ) 私は文字が読めません。ですが、文字というものは、それを読むことができる者には、等しく書かれた内容が伝わってしまう恐ろしいものであることを知っています。
 また、文字は、それが書かれたものが、燃えたりして無くなってしまわない限りは、永遠の命を持つものだとも聞いております。
 元明天皇様は、それゆえ、天皇家以外に伏せるべきことが、うっかり書かれてしまわぬよう、細心の注意を払い、秘さずともよいところのみオオノ様(太安万侶のこと)へ語り謡(うた)へと私に命じられました。

皇子 そうなんだ。

阿礼 はい。なので、イザナギとイザナミが国生みされるまでのところは、知らぬ者が読んでも分からぬようにしております。そして、そこがわからなければ、そこから先の意味も全てはわかりません。

皇子 ふーん。

阿礼 私も天武天皇様に28歳のときに正しい古事(ふること)を覚えるよう命を受けてから来年で30年、もう若くはない年でございます。こうして生きているうちに、皇子様に、『古事記』に書かれていることの意味を、余すところなく伝えておくよう、元明天皇様に仰せつかり、本日、ここに参じました。

皇子 わかった。

阿礼 これから先、わからないところがありましたら、何でもお聞き下さい。全てご理解なされましたら、書き物の『古事記』をお読みになるときに、私から聞いたことをすべて思い出して下さい。それが、やがて天皇になられる皇子様のお勤めであり、天武天皇様と元明天皇様との願いでございます。
 それでは、はじめさせていただきます。

★『古事記』マニアック注釈(読み飛ばし可能です♪)★
『古事記』は、その序文によれば、天武天皇(第40代天皇)が諸家に伝わる記録(帝紀と旧辞)に誤りが多いのを危惧して選録を決意し、よく調べて誤りを正し、稗田阿礼(ひえだのあれ)に正しいとされる帝紀と旧辞とを誦(よ)み習わせたのが始まりです。

しかしながら選録は天武天皇の存命中には完成せず、元明天皇(第43代天皇)が太安万侶(おおのやすまろ)に、稗田阿礼の誦む正しい旧辞を選録して献上せよと命じて『古事記』が完成します。
『古事記』は天武天皇の御代にほとんど出来上がっており、それを稗田阿礼が暗記し、太安万侶は文字化を担当しただけという指摘があります(青木和夫『古事記撰進の事情』)。「序」と本文とに不整合があることを考えると、この指摘の妥当性は高いと思われます。

また、元明天皇は、来たるべき未来の天皇のための教育用に『古事記』の完成を急がせたという研究もあります(これも、青木和夫『古事記撰進の事情』)。

私は、更に、稗田阿礼の年齢問題もあったと思っています。当時57歳の稗田阿礼が、12歳の皇子に、『古事記』の意味を語ったという本稿の設定は、(当時の寿命の長さから考えて)死期を意識していた稗田阿礼の行為として、十分ありえたことなのではないかと思っています。


■世界のはじまりは気づき

阿礼 天地(あめつち)はじめてあらはしし時、つまりは、世界のはじめの時に、天と地とがありました。 
 そして、高天原に成りませる神の名は、天之御中主神(アメノミナカヌシの神)。天に高天原というところがあり、そこにはじめての神さまが誕生されました。その神さまの名前を、天之御中主神(アメノミナカヌシの神)と言いました。

皇子 おや? さっそく質問するけど、世界のはじめには混沌があって、それが天と地にわかれたんだよね? オオノや他の者もそう言っている。「天地開闢(てんちかいびゃく)」というんでしょう。なぜ天と地ができる前を言わないの?

阿礼 「天地開闢(てんちかいびゃく)」は、諸外国への建前でございます。『淮南子(えなんじ)』や『三五暦紀』など漢籍には、そのように書かれているそうですが、それは陰陽思想でありまして、日本古来の言い伝えにはありません。世界の最初に天も地もあったのでございます。

皇子 それはおかしいよ。天と地が生まれる時が本当の世界のはじまりなんじゃないの?

阿礼 世界のはじまりは、天と地の気づきであり、それによってはじめて天と地とは天と地になり、時が動き出したのです。時がはじまった時がはじまりであり、時が動きはじめていなければ、天と地とがあろうと無かろうと世界は始まっていないのです。

皇子 時のはじまりが世界のはじまりなのか。だから、『古事記』の書き出しは、「天地初発の時」なんだね。世界は「時」から始まるんだ。その時がどんな時かっていうと「天地初発の時」なんだ。

阿礼 さようでございます。

皇子 でもさあ、時が動きはじめた時が、世界のはじまりというのはわかったけど、時が動き出すのと気づきとどう関係があるの?

阿礼 このあいだ、石でキジを撃ち落とされたことを覚えていらっしゃいますか?

皇子 なんだい唐突に。もちろん、覚えているけど。

阿礼 あれは本当に見事でございました。皇子の一投一撃のもとにキジが落ちて参りました。

皇子 うん。

阿礼 その時、皇子が投げた石は狩りの道具でしたが、石の飛礫(つぶて)で鳥を落とそうと思って手に取られる前は、その石はただの石で狩りの道具ではなかったでしょう。

皇子 それはそう。鳥を落とすのにちょうどいい石を見つけたから、それで撃った。

阿礼 つまり、皇子はちょうどいい石に気づいて、その気づきによって石は狩りの道具になったのです。
 世界のはじめには、天と地の他には何も存在していません。誰かが気づいて、天と地にしたわけではありません。ということは、天と地が、自分で天と地にふさわしいと気づいたことによって、天と地は、天と地になったのです。
 中国の神話が言うように、何か別の混沌としたものがあって、それが天地に変化していったのではありません。世界のはじまりに、存在としての天地はあったけれども、それは天地ではなかった。それがどういうことかは、石のたとえが示すとおりです。
 それが世界のはじめの時なのですから、気づきの前に、時は動いておりません。はじめの前に時間は無いからです。つまり、世界のはじまりは、天と地の気づきであり、その気づきにより何ものでもなかったものが天と地になり、気づきと同時に、時が動き出したというのが、いにしえより天皇家に伝わる世界のはじまりの話なのです。それが、天地開闢とは違う天地初発です。

皇子 なんだか、分かったような、分からないような。難しい話だね。
 要は、意思を持たねば、時は動かぬということだろう。覚えておくよ。

阿礼 んー。まあ、今はその解釈でよいでしょう。天皇としての思考の準備ですから、多少難しいのは仕方ありません。けれども、難しく思えるのは最初のところだけです。それに、聖徳太子様が打ち込まれていたような仏典解釈に比べれば、よほどわかりやすいはず。そのうちに慣れてわかってくることもあるでしょう。

 そもそも「初発」という語は、漢籍にはなく、つまり、当時の普通の中国語(漢文)ではありません。
 「初発」は、漢訳仏典にのみ典拠が求められることば
です。漢訳仏典では、「初発心」のように心の気づきに対し「初発」が使われます

 『古事記』が書かれたときに日本にあった漢訳仏典に『法華経』(聖徳太子が注釈本『法華義疏』を615年に完成させたと伝わっています)があり、「令初発道心」(初めて道心をあらはしむ=自分が歩むべき道を進む心を起こさせる)という表現があります(『妙法蓮華経』従地涌出品(じゅうじゆうしゅつほん)第十五)。

 『古事記』は、「天地初発」において、漢文(中国語)に翻訳できない日本独自の思想を表現するために、漢訳仏典に用語を求め、その用語に新たな意味づけをしたものと思われます。

アメノミナカヌシの神の話につづく)

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ありがとうございます!理解者に出会えて大変嬉しいです!!
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IT企業勤務を経て地方創生支援に従事してます。月刊HiViで映画評を連載していました(現在は休載中)。Twitterはhttps://twitter.com/kanbe310

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ユダヤ教やキリスト教やイスラム教にあって、神道や仏教に無いのは「神学」的な思考です。神学的思考は社会科学やマーケティングなどの思考を生んだのですが、そのことに意識的な日本人はあんまりいません。そのせいで欧米の行動の先を読むのは苦手なニッポン。政財学界のトップにクリスチャンが多いのは偶然ではありません。このマガジンは、洗礼を受けなくても神学的思考が身につくように『古事記』を読んでみるという荒唐無稽!?なチャレンジですが、トンデモになるのを避けるため、一次資料にあたり二次資料も極力学術論文かちゃんとした学者の書いた論考にしています。

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