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調剤喫茶farmatería【2021】

こんにちは!
在宅専門薬局に転職しました。薬剤師いしまるです。
なんだかご無沙汰になってしまいましたが、調剤喫茶についての記事を改めて見直し、現在の想いをここに記事にしてみようと思います。

私がはじめて調剤喫茶の構想を文字に起こしたのはこちらの記事でした。(もう1年以上前になるんだと思うと、感慨深いですね。)

ぜひ今回の記事との見比べながら、この一年間での想いの変化などを感じ取っていただけると嬉しいです。

◆目的 と 手段

正直に言うと、これまでの私の発言や記事を振り返り、自分自身で「薄い」と感じていた。もちろん自身が考えていたことなので言いたいことはわかるが、何しろ薄い。イメージはあるけど想いがない。力強さがない。
(ある日から1on1企画などをやめたのは、これが原因だったりする。)

まだ答えは出揃っていないが「手段」にとらわれていたのだと思う。
「目的と手段を混同してはいけない」なんて社会人一年目に言われるようなこと。だけども全然わかっていなかった。(...恥ずかしい)

手段とはこれまで考えてきた、喫茶併設や栄養指導、ハーブ、アロマ、社会的処方などがあげられる。ではそれらの手段を用いて、私が本当の意味でやりたい事=「目的」とは何なのか。ここを再考するところから始めようと思う。

◆「社会の痛み」から考える

私の夢は、たくさんの笑顔の友人に囲まれて余生を過ごすことだ。
(欲を言えば誰より先に死んで葬儀にはみんなに参列してもらいたい)
何も特別ではない、一般的な夢だと思う。

けれど、それを成せない何かが世の中にはある気がしている。
それが「社会の痛み」なのではないだろうか。
目の前の誰かが笑顔でない理由はきっと何かある。
それは社会的な痛みを背負っているからに違いない。

その社会の痛みを考えるうえで、自分が大きいと感じること。
それが「寂しさ(孤独)」だった。

家庭医として活躍されながら、「YATAI CAFE」や「だいかい文庫」などの活動を通して地域づくり、コミュニティ運営などを手掛けている守本先生の記事の中でも「孤独のリスクは煙草15本/日に相当」という論文に触れられている。

◆だれも寂しくない町をつくる

私がやりたいことは「だれも寂しくないまちづくり」だ。(突然何を言い出すんだというご意見は是非コメント欄にいただきたい)

私が望む世界を阻むものが寂しさなのだとしたら、それを払う他ない。
そこで、一度「寂しさ(孤独)」について考えてみたい。
あなたの周りにはどのような孤独があるだろうか。

一つこんな事例がある。

・資本主義社会における中央集権的な経済社会が上京や出稼ぎなどで家を出る若者を増加させ、核家族化が進むと、家を出た側と送り出した側では双方に寂しさが生まれる...

歴史的なありふれた話しをしたついでに、
私の身近にあった寂しさについても一つ。

・彼は学年きっての不良少年だった。
同級生の半数は彼を避けていたし、彼自身もそれをわかっていた。
彼と出会たのは中学に入ってから。教室にはほとんどおらず、保健室か職員室、または学校の脇道にあるベンチに座っていた。喧嘩や警察沙汰の話も尽きない。
けど彼は同級生と話すとき、時折目をキラキラさせて話しているのを一部の友人たちは知っていた。根からの悪ではなかったのだと思う。
そんな彼の家に一度遊びに行ったことがある。団地の一室が彼の家だった。平日の昼間にも関わらず、父親がおり、酒を飲んでいる。狭い家には4人いただろうか。兄弟の多い家だったが、上2人は血がつながっていないらしかった。おもむろにテーブルから煙草を手にすると、ベランダに誘われた。「ケホッ...ダメだこれ」なんて笑いながらくだらない話をしていた時の彼の目はとてもキラキラしていた。

一見孤独とは違う話に聞こえるかもしれない。
けど彼の身にまとった雰囲気には寂しさが溢れていた。

もっと身近なもので言えばSNSに過度な自己肯定感を求めてしまうことも現代の寂しさが故かもしれない。かくいう私もそんな自己肯定感を求める寂しい現代人の一人だったりする。一方でそんな私だからこそ「だれも寂しくないまちづくり」はできるのではないかと思っている。

◆これは、私の‟使命”だ

以前記事に書いたこともあるが、私は東京都足立区のさらに端の花畑という名前だけ聞けば実にハッピーな町の都営住宅(団地)で育った。

都内とは思えないほど不便で貧しい地域だった。
当時のクラスメイトの多くが片親だったり、親が病気だったりして、小学生にして夜まで独りぼっちなんて友人も少なくなかった。当然寂しかっただろうと思う。

幸運なことに我が家は彼らに比べれば恵まれていた。
両親は父母ともに健康で、貧しかったが、寂しくはなかった。
近所付き合いを大事にしている両親だったので、団地のいたるところに近所の目があり、それもまた寂しくない理由の一つだった。

でも、いざ社会に出てみるとどうだったか。
クラスメイトのような孤独に苛まれた人間は皆カーテンの向こう側で、通りの人間は見て見ぬふりをして歩いている。もしかしたら見えていないのかもしれないが、私の目にはとても冷たく残酷に映った。私が当たり前のように享受していた「寂しくない」は当たり前ではなかった

もしも本当にこのカーテンの向こう側が、通り行く人々に見えていないのであれば、それを捲った先にある痛みに関わるのは、見えている人間の責務なのではないだろうか。だから私はだれも寂しくない町をつくる。

◆おわりに

今回の記事は少しテイストが違ったかもしれません。
あれこれ方法や手段、いろんな取り組みについて考えてきましたが、何をどう考えたところで埋められない何かに気が付き、今回この記事を書きました。最後まで読んでいただきありがとうございます。

少しでも共感していただけた方は、スキを。もっと話を聞いてやっても良いよという方は、コメント欄に「読んだよ~」とコメントください。

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