サー・エドワード・ヒースと音楽【「ザ・クラウン」の陰に】

ネットフリックスのドラマ「ザ・クラウン」のシーズン3に登場したかつての英国首相サー・エドワード・ヒース(1916-2005;首相在任1970-1974)は、オックスフォード大学ベリオールカレッジで近代政治などを学び弁論部に属する一方、オルガン奨学生の試験に合格して音楽を専門的に修めた。
第二次世界大戦を経て1950年の総選挙で下院議員に当選、政界入りした以降もクリスマスは故郷ブロードステアズのクリスマスキャロルのコンサートをほぼ毎年指揮。1970年の首相在任中も訪米から帰国後直ちに向かい、出演したという。
そんなヒースが首相退任後に著した『Music:A Joy for life』(1976年、邦題『音楽-人生の喜び』〔日貿出版社;1980年〕)は、音楽との関わりや大音楽家との邂逅がテンポよく綴られ、味わうほどに堪能できる。

本人が「この上もなく大切な、いつまでも残る思い出」と記すのは1971年10月28日、英国のEC(現在のEUの前身)加盟に関する投票が賛成多数で通った夜、バロック時代に隆盛を迎えた鍵盤楽器クラヴィコードにひとり向かい、J.S.バッハの平均律クラヴィーア曲集から第1曲のプレリュードとフーガを弾いたエピソード。
約半世紀を経て英国のEU離脱が決まり、その後の新たな協定作りで合意した状況を泉下のヒースはどう思っているか。
ちなみにスタインウェイのグランドピアノもダウニング街10番地に運び込んだ。お昼時などに弾いたそうでピアノの音色が漏れると側近たちは暫く呼びつけられないと一息ついていたとヒースは推測する。

共通の趣味であるヨットで意気投合したカラヤンとはこんなやり取りが。

1976年5月のアルバート・ホールのコンサートで、カラヤンとベルリン・フィルは、ベートーヴェンの第8とリヒャルト・シュトラウスの「英雄の生涯」を演奏して、前者では劇的な胸を打つ表現を見せ、後者では、英雄の一生のさまざまな面を、よもやこんなことができようとは思われないほど、豊かに甘美に一つの模様に織り上げたが、そのあとの夜食会で私はカラヤンにこんな質問をした。
「今晩は、オーケストラの誰にも出のきっかけを出しませんでしたね。」「そんなのは私の仕事じゃありませんよ。演奏会では、曲の構造と流れに注意するだけです。」「あなたはそれでいいでしょうけれど、誰か入りそこなったら、おいできぼりでしょう?」カラヤンは笑って答えた。
「いや、みんな自分が入るところくらい知っていますよ。私が教える必要なんかない。」

サー・エドワード・ヒース『音楽-人生の喜び』

結果的に指揮者の役割やオーケストラとの関係の核心を端的に表現するカラヤンの至言を引き出したヒースはその5年前、つまり首相在任中の1971年11月25日にロンドン交響楽団と共演し「オーケストラ指揮者デビュー」した。そこに至る心境を記した一節はなかなか考えさせられる。

音楽家として、有名なオーケストラを指揮してみたいと思わない人、客席にすわっているときに指揮棒をふりたくて指がむずむずしない人、オーケストラの自分の席から指揮台の上を眺め、こいつよりおれの方がよっぽどうまくできると思わない人は、世界中どこにもいないだろう。
指揮者がほんのちょっと加減が悪くなれば-もちろん大した病気ではない。ステージに出られないくらいの病気で結構なのだ-このおれが穴うめをしてやるんだが。
オーケストラはみごとに反応し、聴衆は自身にみちた指揮ぶりに感心し、批評家はほめそやし、年来の願いがかなって人びとに認められ、未来はバラ色に輝く・・・たしかに、そのとおりのことが起こってはいるのである。
もちろんそう多くはない。しかし、すべての若い音楽家の夢をかきたてるだけの数はある。トスカニーニはある夜、チェロの譜面台に向かうかわりに演奏の責任をたまたままかされた。彼の事だからいずれ世に出たではあろうが、トスカニーニはこのチャンスをのがさず、おそらく世界でもっとも有名な指揮者になった。
15歳でブロードステアズで混声合唱団を指揮するようになって以来、私にとってもそれはいつも見果てぬ夢だった。オックスフォードのオルガン奨学生のときには、コーラスとオーケストラの指揮に私も加わり、以後毎年クリスマスに、故郷のタウン・キャロル・コンサートで指揮をしてきた。近年これがラジオやテレビを通じて全国に知られるようになり、私たちの土地を遠く離れた人びとにも喜ばれている。
というわけだから、ロンドン・シンフォニーの常任指揮者アンドレ・プレヴィンに、特別コンサートで棒をふってくれないかといわれたときに、いやとことわれるはずがない。一も二もなく承知して、さっそく演奏曲目をきめた。

前掲書

特定の楽器で名を成したソリストが指揮者の道に進むケースがある。
バレンボイムのように素晴らしい成功例がある一方、正直「やめればいいのに」と感じるできばえのひともしばしば。
なぜ、このひとは指揮したいと思ったのか首をひねる際に浮かぶのは上記の最初の段落。
きっとこうした思いが積み重なって指揮台に気持ちが向くのだ。

「デビュー」の機会にヒースが指揮したのはエルガーの「コケイン」序曲。オーケストラの能力が全て発揮され、見栄えが良く華やかに終わることに加え、当時度重なるストなどで沈滞していた英国の雰囲気に活力をもたらす一助にしたいという希望を込めて選んだ曲だった。
「首相の指揮」の評判は悪くなくライヴ録音がレコード化されたほど。
残念ながら1974年の総選挙で保守党は敗れ、ヒースは首相を退任するが、逆に指揮活動を本格スタートさせ、名誉理事長に就いたロンドン交響楽団を度々指揮した(演奏旅行にも帯同)ほか、ヨーロピアンユース管弦楽団の発足に尽力し、自らタクトをふり、ひとかどの指揮者となった。

ヒースに関しては没後私行上の問題やロッキード事件への関与が判明し、評価の難しい人物となったが音楽ファンにとっては文字通り夢の存在と言える。生業で名を成しつつ好きな音楽に携われたのだから。

日本にはここまでのひとはいないがクラシック音楽好きの政治家は意外といる。ただ有権者に知られると特に田舎では気取り屋とみなされて不評を買うらしく殆どの政治家が伏せている。公言している(いた)のは小泉純一郎元首相、細田博之元国務大臣、志位和夫氏くらい。亡き小渕恵三元首相は生前コンサート会場で見かけたが常に身を潜めており、クラシック好きや音楽家との親交が明かされたのは没後だった。

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