プロ野球賢者の書③【背番号3「ミスター」の輝きと葛藤】
長嶋茂雄『野球は人生そのものだ』
2021年2月に85歳を迎えた長嶋茂雄は日本プロ野球における背番号の持つ意味を根本から変えた人物。
華麗なプレーと破格のキャラクターで単なる数字に一種の光背を付与した。そして約60年間「ミスター」として好悪や世代を超え、野球ファンの興味を惹き続けている。
本作は2007年7月に日本経済新聞朝刊文化面の「私の履歴書」欄に連載した内容の書籍化。
「はじめに」と「おわりに」が記され、章ごとに増補改訂された。
また現役時代の略年表、大学時代の恩師・砂押邦信と長嶋一茂のインタビューを収録。
なお2020年12月の文庫化(中公文庫)の際、本文掲載写真が一部変更され、長嶋一茂のインタビューは無くなった。
生い立ちから6大学野球での活躍、ジャイアンツの主軸としての栄光や苦悩、起伏に富んだ2回の監督時代、突然の大病を潜り抜けた現在…波乱の人生をよどみなく率直に語り、独特の口調が頭に浮かぶ。
学生時代に抱いたメジャーへの憧れ、天覧試合のホームラン、その相手投手である村山実との思い出、「天才」「燃える男」と言われる影での真摯な努力、打席における心構えなど興味深いエピソードの宝庫。
現役時代の「うっかり」もさりげなく織り込まれ、時折「ピッチングスタッフ」といった「長嶋節」が飛び出すあたりは微笑ましい。
一方で随所に表れるファンを大事に思う心とジャイアンツへの愛着の深さには胸が熱くなる。
活躍、逸話の数々はあえて記すまでもないと思うので前回の稲尾和久同様、監督としての歩みに焦点を当てる。
最下位から優勝そして「男のけじめ」
長嶋茂雄は1971年12月にコーチ兼任となり、引退する1974年の開幕前にはロッカーも監督・コーチ用に移された。野村克也の『無形の力:私の履歴書』(日本経済新聞出版社)によればホークスの兼任監督時代にジャイアンツとトレード交渉した際、川上哲治監督から「次期監督である長嶋にトレードのやり方を教えたいので同席させて良いか」との申し出があり、実際川上監督は長嶋を連れてきたそうだ。
とはいえ、選手の方向付け、フロントとの闘い、試合のコントロールといったコアな部分の修業は殆ど積めぬまま、1974年11月21日に長嶋はジャイアンツの監督に就いた。いわゆる第1次政権である。
就任当時の状況を長嶋はこう回想する。
「クリーン・ベースボール」を掲げ、「哲のカーテン」と言われた川上色を排して颯爽と船出するつもりだったが1年目の1975年はジャイアンツ空前絶後の最下位に沈んだ。また川上哲治が勧めた牧野茂、森昌彦(祗晶)のコーチ就任を長嶋がフロントの意向を汲んで断ったことが川上の不興を買い、後に「確執」と取りざたされて長嶋を苦しめる事態となる。
翌1976年を迎えるにあたり、投手陣の立て直しのため「フォークボールの神様」杉下茂を迎えるなどコーチ陣を一新。
トレードも複数行い、特に注目されたのはV9の左のエース高橋一三と長嶋の控えだった富田勝を放出してファイターズの主砲張本勲を獲得し、王貞治にマークが集中する事態の解消を図ったこと。
またレフトの高田繁をサードにコンバートする大胆な策を打ち出した。
シーズンが始まると「チャレンジ・ベースボール」のもとにオフの流れそのままの積極野球を展開。最終戦で前年優勝のカープを逆転、史上初めて同一監督による前年最下位からの優勝を成し遂げる。
攻撃面では王貞治が蘇り、張本は打率2位と主軸が安定、コンバートの高田繁は鮮やかな守りに加えて打撃もいわゆる「高田ファウル」が減って打率3割5厘でダイヤモンドグラブ賞。投手は小林繁が18勝、太平洋からトレードで移った加藤初が厚みを加えた。
翌1977年は開幕からほぼ独走で連覇。
しかし1976年、1977年ともに日本シリーズは上田利治率いる阪急ブレーブスに屈した。
そして1978年はかつての同僚広岡達朗率いるスワローズの勢いにのまれ、セ・リーグ3連覇を逃し、2位にとどまった。
監督就任以降、長嶋は顔ぶれを見渡して「全部9連覇の残り火」と感じ「勝つことはもちろん重要だが、一方ではまず大事なことは育成」「次の世代の選手をもっと将来の長期的なプランで作ることだ」考えてドラフトに精力的なアプローチを重ね、定岡正二、篠塚利夫(和典)、中畑清などを指名、獲得した。
だが、期待の若手の戦いぶりは歯がゆいものだった。そうした状況で1978年オフに発生したのが「空白の1日」「江川事件」である。
事の詳細はここでは省くが、第1次長嶋政権の歩みと重ね合わせて考えると、既成パワーと「9連覇の残り火」の組み合わせにより優勝した上でじっくり若手を育てようとした長嶋に対して、性急に「日本一」を欲する正力亨オーナーをはじめとする球団フロントが強引な戦力補強に出たと感じる。
長嶋自身、
と記している。
鈴木竜二セ・リーグ会長はジャイアンツと江川卓の契約を却下した。
これにジャイアンツは猛反発、「新リーグ構想」をちらつかせ、ドラフト会議もボイコット。当事者不在のドラフト会議ではタイガースが江川を1位指名する事態にまで至った。
結局、コミッショナー金子鋭はいったんタイガースと契約後にジャイアンツへトレードするよう「強い要望」を出し、ジャイアンツの身勝手な行為を事実上認めた。そしてジャイアンツのエース小林繁がタイガースへトレードされる形で江川はジャイアンツ入りを果たした。
「事件」の余波が響いてチームバランスの乱れた1979年のジャイアンツはタイガースの一員となった小林繁に8連敗を喫するなど波に乗れず、夏から急降下して5位。
打撃陣では4番王貞治の衰えが表面化、張本勲は原因不明の眼病に見舞われ、V9の切り込み役柴田勲や高田繁のスピードも落ちた。
投手陣は新浦壽夫、西本聖が成長した一方、かつてのエース堀内恒夫は新人からの連続2桁勝利が止まり4勝と低迷。また江川は9勝10敗に終わった。
長嶋は若手を鍛えるべく1979年秋にジャイアンツとして戦前の「茂林寺の千本ノック」以来の秋季キャンプを張った。
それがいまなお伝説となっている「地獄の伊東キャンプ」だ。
当時を自らこう振り返る。
勝負の世界は非情である。短い期間で結果を求められるプロ野球監督の場合、育成に取り組んでも若い力が花開き、ともに優勝するところまでその地位にとどまれるケースは少ない。
第1次政権の長嶋もそうだった。「伊東キャンプ」の手応えを持って臨むはずの1980年シーズンは開幕前に躓く。
前年患った眼の回復が思わしくない張本勲は自由契約となり(ロッテへ移籍)、その際にフロントと長嶋のズレを指摘した。さらに「伊東キャンプ」で主体的役割を果たした青田昇コーチが自身の交友関係に関する取材で失言し、舌禍事件として報道される事態になり辞任に追い込まれた。
シーズンが始まるとベテランの衰えは想像以上、長嶋は「伊東組」を押し出して戦おうとするが、ジャイアンツの看板を背負うには実力不足は否めず、接戦を落とすケースが目立った(1点差ゲームで16勝33敗)。
監督人事のきな臭いうわさが流れるなか秋風が吹く頃にチームは走り出した。10月に10勝2敗とチャージして何とか3位を確保する。正力亨オーナーは長嶋に「勝率5割とAクラス確保がなれば続投」と約束していた。しかし、川上哲治からの助言で「長嶋更迭」に傾いた読売新聞本社の務臺光雄を前にしてオーナーは何も言えず、長嶋は解任された。
翌1981年、藤田元司監督の下で「伊東組」は「実力者」に成長、大型新人原辰徳の加入やベテラン加藤初の復活もあり、ジャイアンツはリーグ優勝と日本一に輝く。
勝利のために礎を築きながら、その場に立ち会えなかった虚しさ。解任事件は長嶋にとって野球人生最大の無念だった。これは一種のトラウマになり、後の第2次政権の性格に大きな影響を及ぼした。
「十二浪」ほほえましい花との関係
1981年から1992年までの12年間、長嶋は様々なスポーツイベントのテレビ中継でレポーターを務めるなど多彩な活動を取り組んだ。もちろん球界復帰の憶測はしょっちゅう流れたが本人はどこ吹く風、「華麗なる浪人」を満喫しているように見えた。実際のところはどうだったのか。
うがった見方をすればトラウマを癒しながら古巣が頭を下げて迎えに来るのを待っていたということか。それにしても野村克也の例え通り長嶋がひまわり好きとは何とも面白い。
結果にこだわりぬいた「第2次政権」の功罪
長嶋は自身の「更迭」を決めた務臺光雄の死から1年後の1992年オフに読売新聞本社社長渡邉恒雄から要請されてジャイアンツの監督に復帰した。就任にあたって以下の目標達成を求められたという。
初仕事のドラフト会議では4球団競合の注目株松井秀喜の交渉権をくじで引き当て、入団にこぎつけた。長嶋は松井を球界の4番に育てるべく、このあと2001年に退任するまでマンツーマンで素振りと向き合うことになる。
しかし、育成や底上げで大人のチームを目指す考えは早々に挫折した。かつて「伊東組」を鍛えた厳しい集中練習は選手会パワーで難しくなったし、何より12年の間に選手気質が様変わりしていた。もちろん真面目に野球はするのだが、指導者の背中を見てひたむきに取り組み、自らが局面を切り拓く存在になろうとするタイプの選手は殆どいなかった。
3位に終わった1年目の1993年、長嶋の脳裏には前述の「トラウマ」がよぎったと推測する。このまま優勝できず、せっかくの松井が4番に座る前に監督の座を追われる・・・あんな思いは2度としたくないと。
招聘した側も焦ったはずだ。頭を下げて、編成担当の常務取締役兼任で球界の宝を呼び戻したのに沈没させては、球団どころか本社の存亡にかかわる事態にもなりかねない。
そこで既成パワーを集めて優勝、日本一を勝ち取る戦略に出た。同年オフにジャイアンツ主導でFA制度やドラフトの逆指名が採用され、中日から落合博満をFAで獲得。1994年はシーズン終盤失速したが最終戦のいわゆる「10.8決戦」で落合の古巣中日に勝ってリーグ優勝、日本シリーズではかつての同僚森祗晶が率いる西武ライオンズを破って日本一に輝いた。
悲願の日本一奪回を果たし、そこから育成といくはずだったが結局長嶋ジャイアンツは既成パワー主体のチーム強化を続けたことは周知の通り。それゆえ補強の成否が成績と連動する状況に陥り、おカネをかけた割にはリーグ優勝計3回、日本一は計2回にとどまった。同時期大リーグでトーリ監督率いるヤンキースがやはりオーナーの号令による金満補強を行いながら、生え抜きのスターも作り常勝軍団になったのとは対照的。しかも唯一、育った大スター松井秀喜は後年皮肉にもそのヤンキースへ去ったのだから。
当の長嶋は「カネにあかせた補強ばかり」という批判にこう応える。
些かもってまわった表現から第1次政権の「トラウマ」を抱え、結果を求めてもがいた「ミスター」の影の部分が浮かび上がる。
そしてジャイアンツは長嶋退任後も積極補強を続けている。特に同じセ・リーグの球団の主力を「買う」ケースが多い。長嶋の言葉から転じれば相手の戦力を削ぐのが優勝の近道なのだろう。
しかし、例えばこの2年ジャイアンツはリーグ優勝したものの日本シリーズでは資金力を育成に振り向けたソフトバンクホークスに1勝もできずに敗れた。
相対的な強さばかりを追いかけたチームでは基礎から積みあがったチームには歯が立たないのだ。
近年セ・リーグが日本シリーズで勝てないことを巡り様々な見方があるが、第2次長嶋政権以降のジャイアンツの補強がセ・リーグの地盤沈下の遠因だと筆者は考える。
また長嶋は次代の監督として原辰徳を送り出した。その後現在までのジャイアンツは、長嶋の下で過ごした現役晩年にベンチを温めた間にしたたかさを身につけた原の手腕で成果が上がる反面、高橋由伸の一件に象徴されるように原の思惑により球団が動く状況となった。
トータルで見た時、第2次長嶋政権は功罪相半ばだろう。
今も昔も日本のプロ野球ではヒーローを監督に据えたがる傾向が強い。
確かにその時は観客動員が伸び、一種のカリスマ性で成果が上がる可能性は十分ある。
他方、失敗した場合の双方が負うダメージ、長期的にチームの成績安定に繋がるのかなどの負の要素も存在する。もう少し複眼的な視野で監督人事、補強や育成の戦略を練ることが日本の球団には必要だ。
※文中敬称略
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