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金田光世『遠浅の空』(青磁社)

 第一歌集。初期歌篇に加えて2000年から2021年の20年以上にわたる作品を収める。ほぼ編年体に一章~四章の構成である。各章の冒頭に「空の断片」というタイトルで五首ずつ置かれているのが構成として興味深い。時間の経過とともに変わるもの変わらないものを映し出そうという意識だろう。歌は、繊細な筆致で日常生活の中の詩的場面をすくい取ったものが多い。比喩も巧みだ。一首一首の完成度が高く、歌の中に長い時間と広い空間が内包されている。柔らかい語彙の中に時々光るように鋭い視線が見えるのが印象的だ。

目に見えるものは空へはのぼれない無口になつたサイダーの瓶(P18)
  ひっきりなしにのぼっていたサイダーの泡がいつの間にか絶えてしまった。今サイダーの瓶は無口に立っている。目に見えない気体は空へのぼって行くが、見えるものは何一つ空へはのぼれない。もちろん主体の身体も、だ。

やさしいとやさしさはちがふやさしいを乾かしてゐる風に触れたい(P23)
 「やさしい」人と、「やさしさ」がある人は違う。やさしい人でなくても、やさしさを見せることはできる。元々のやさしい心が乾いてしまっていても習慣として人にやさしさを以て接することはできるのだ。元々の「やさしい」を乾かしている風はどんな風だろう。主体はそれに触れたいと望んでいるのだ。

身につける言葉がおそろしいのだらういつか女に戻る魚たち(P33)
 不思議な歌。女と魚が逆なら分かりやすいのだが。自由に泳ぎながら自分の身につける言葉をおそろしく感じている魚。この言葉に怖じずに生きるには元の女という環境に戻るしかない。自由を得た女が、自分の言葉に囚われて、自らの意志で自由を捨てる。そんなふうに読んだ。

みつしりと詰められてゐる綿棒を取り出す前の気配、初雪(P51)
 容器にみっしり詰められている綿棒。限界まで密集している。そのうちの一本を取りだせば、回りの綿棒もかすかに動く。その時の気配を、初雪が降る直前の気配に喩えた。白の飽和状態が一瞬でふっとゆるみ、初雪が降り始める。

施錠して別館を出る 学生を終へるは傘を捨てるに似たり(P74)
 校舎以外に、サークル活動用に別館がある大学は多い。授業以上に打ちこんだサークル活動。四年間の授業を終えた後も、冬から春にかけての一、二月を最後までのめり込んだのだ。その最後の日に部室の扉に施錠して別館を去る。去るとなるとそれは使い終わった傘を捨てるのに似た、あっさりとした行為なのだと分かる。役目を終えた傘を捨てるように、主体の学生生活は終わりを迎える。

使ひやうのない時間なり死んだ歌手の声の流れるスターバックス(P85)
 全ての歌手の声は、まだ生きている歌手の声と死んだ歌手の声に分けることができる。死んだ歌手だと言っても昔の人とも限らない。まだ充分ライブが出来る年齢かもしれない。その声に懐かしさはあるが、もう生きた姿を見ることはない歌手。その声を聞きながら主体はスタバで時間を持て余す。初句の「使いやうのない」という切り捨てるような表現が「死んだ」という形容詞に響いて、気怠い、しかし底にかすかな憤りを潜めた、主体の気分が伝わってくる。

マスコットの手足はちぎれ雲のやう女子高生の鞄に揺れる(P93)
 かわいーとか言いながらマスコットを鞄に提げたのだろう。買って鞄に提げるまでが大事で、後はもう無関心。いつの間にか擦れて、マスコットの手足はちぎれ、雲のような布の塊になってしまっている。その無関心に主体は視線を向けている。

悲観とはつまり無用の雨傘とプラタナスたちは風にさざめく(P111)
 未来に対して、ああなったらどうしよう、こうなったらどうしようと悲観して嘆いたところで何かが変わる訳では無い。必ずしも心配したことが起こる訳でもない。雨が降りそうと持ち歩いても役に立たなかった雨傘のようなものだ。主体の頭上のプラタナスの葉が風にさざめきながら教えてくれる。

富士山のふもとのくぼむひとところ灸を据ゑれば気持ちよからう(P142)
 とても大きな景の歌。富士山の山容の一か所にくぼむところがある。富士山をパターン化された形状を通して見ておらず、それだけでも発見だが、そこにお灸を据えれば、という発想は豪快だ。おそらく主体は今富士山と同化している。窪んだ箇所にお灸を据えればさぞかし気持ちがいいだろう、と自らの身体を元にその気持ち良さを想像しているのだ。

ふくらみてゆくパン生地のあたたかさ人間ならば死に至る温度(P172)
 パンを手作りしている場面だろう。パン生地をオーブンに入れて焼いている。ほんわか、のんびりした丁寧な暮らし。楽しい作業の一場面かと見ると、下句で急転直下、パン生地にはあたたかくても、この温度で人を焼いたら、と想像が飛ぶ。この視点の鋭さ、多方向さがこの作者の歌を特徴付けるものとなっている。

青磁社 2024.4. 定価(本体2500円+税)

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