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三井修『天使領』(角川書店)

 第十一歌集。2019年から2023年までの467首を収める。社会的には新型コロナウイルスの世界的流行、ロシアのウクライナ侵攻などがあった。作者は中東への関わりの深い歌人であるが、その地域に戦の絶えない様子にも憂慮の思いを持っている。また個人的には故郷能登とそこでの幼少時代、特に実母と継母、家じまいをした土地についての愛惜の感が詠われる。自らを「能登の少年」と、しかし「棄郷者」「まれびと」と規定する歌もあり、複雑な思いが滲む。ところどころに現れる「わが少女」「我の少女」は孫だろうか。深い慈しみの視線が感じられた。
(2023年10月のハマスとイスラエルの武力衝突、2024年1月の能登半島地震はいずれもこの歌集がまとめられた後に起こっている。)

いずこかの壺に共鳴しておらん我が落としたるスプーンの音は(P25)
 自分が床に落としたスプーンが音を立てた。その音にどこかの壺が共鳴して鳴っているのではないかと直観する。時空を超えて何かと何かが響き合う。そしてそれを感知する主体。

城塞をいくつも巡り丘の上(え)のアーモンドの白き花に会いたり(P27)
 マルタ島を訪れた際の一連から。十字軍時代にエルサレムで発祥した聖ヨハネ騎士団の島であり、歴史的に中東とも縁が深い。城壁に覆われたような島に咲き誇るアーモンドの花。城壁巡りの後、丘の上に登った時に、アーモンドが一面に咲いているのを見たのだ。満開時は日本の桜にもたとえられる花の様子に、様々な思いが触発されて浮かんだのだろう。美しい一連の中の特に美しい一首。

起き抜けの熱き珈琲ゆっくりと我が胸鰭を展(ひら)かせてゆく(P37)
 起き抜けでまだ本調子でない身体と頭。一杯の熱い珈琲を飲む。その珈琲によって自分の身体の「胸鰭」が展いていくような体感を持つ。人間にはもちろん胸鰭が無いのだが、熱い珈琲が喉を通って行く時の感覚と身体が目覚める感覚がこの比喩から伝わる。

その着物覚えておれど顔ははやおぼろとなりぬ 手をつなぎいし(P41)
 コンサートを聞きに行った一連。ステージの楽器中のオーボエに焦点を当てた一連となっている。オーボエの一部に葦の茎が使われ、そこで音を出すことから連作タイトルは「葦」。一連中、
 オーボエの温(ぬく)き調べは夭折の母の声なり身を湿らする(P40)
という歌から母を思い出す歌へと連作は展開していき、掲出歌に至る。夭折した母と、その若き日、主体は手を繋いで歩いた。幼かった主体にとって、母の着物の色柄は覚えていても顔はおぼろにしか浮かばない。はかない記憶がオーボエの旋律に乗って思い起こされる。

春の夜のシフォンケーキはほぼ空気 ほろほろ空気を零しつつ食む(P56)
 「春の夜の」と王朝和歌風に切り出して、二句目に現れるのは「シフォンケーキ」。春の夜でなくても、空気をたっぷり含んだほろほろの食感だ。ただこの淡くてはかない食感のケーキが春の夜とぴったりなのは間違いない。「ほぼ空気」の「ほぼ」がいい。「ケーキ」と「クーキ」も音が連動する。ケーキの気泡中の空気を零しつつ食べる主体。春の夜特有の物憂さ一歩手前でとどまった、明るく軽く優しい読み心地の一首。

人間が渡り終えたるのち橋は再び風を渡らしめおり(P82)
 橋の上を風が通っているのだが、それを橋が風を「渡らしめ」ていたと表現する。視点の転換だ。常に橋は風を渡らせる存在なのだが、たまさかに人間が来て渡って行く。それは橋にとっても風にとっても常態ではなく、人間がいなくなったら、再び、橋は風を渡らせる。穏やかな日の光を受けた橋が目に浮かんだ。

美しき計算式に従いて月は昨夜(よべ)より僅か痩せおり(P116)
「天体の運行は全て力学で計算できる」という詞書のついた一首。天体の運行を全て計算できる人にとっては、目に見える天体は、既知の運行ルート上のものだ。計算式の苦手な人間の中には、気が付いたらある日ある方角に突然のように現れる天体の姿を美しいと思い、その運行ルートを計算することを無機質で味気ない行為のように思う人もいるだろう。しかし計算できる者にとってはその式そのものが美しいのだ。数式を美しいと取る感性が、実際の天体の美しさにさらに深味を加えている。

内側に向きて開くということのいかなる思い 無花果の花(P119)
 花は普通外に向いて開くのだが、無花果は内側に向って開く。実の中に穴があってその中に咲くのだ。外からだけ見ていると、花が無いのに実がなるように見えるだろう。一体、内側に向いて開くというのはどのような思いなのか、と主体は無花果の花に問いかける。それは、人に見られず、見せずに、自らの内に向かって開く花を持つ人のみがなせる問いなのだ。

薄闇に躑躅の暗紅溶けきれず 人は未練を引き摺り止まぬ(P167)
 一首前に躑躅の花の色を「暗紅(あんこう)」「深紅(しんこう)」「淡紅(たんこう)」と色分けした歌がある。掲出歌はその「暗紅」の躑躅を、薄闇の中ではまだその紅さが残り、闇に溶け切っていないところを見つめる。薄闇の中に濃い赤の躑躅が溶け残るように浮かんでいる。そのように人は何らかの未練を自分の中に揺曳させている。それは溶け切ることなく意識の底にあるのだ。

火竜いま昏き空へと昇りゆく善悪愛憎などの彼方へ(P195)
 日本三大火祭の一つである、能登島向田の火祭を詠った一連。歌集後半部の一つのピークともいえる、高揚感とそれに伴う思考が描き出された一連だ。30メートルもの柱松明伝いに火が空へ駆け上がる豪快な火祭。主体はヨーロッパのサラマンダーという、蜥蜴あるいは竜のような姿の火の精霊も、思い浮かべながら祭を見ている。単に見て熱気を楽しむだけでなく、能登を故郷として持ちながら今そこを離れている者として、複雑な心境も詠われる。
 ひといきに太き炎は駆け上がる湿りを帯ぶる能登の夜空を(P194)
 夜の闇にその身捩りて昇りゆくいま一頭のサラマンダーが(P195)
 これら二首に続いて、掲出歌がある。単に火を拝むだけでなく、火に心を一体化させて、空の高みへ解き放つような瞬間だ。そこには善悪や愛憎といった人間同士のしがらみは無い。人の苦悩を浄化させる炎なのだ。 
 コロナ禍で2020年21年、この祭は中止であったらしい。22年23年は開催されており、歌集の時間経過から見ると、主体は23年の火祭を見たのではないか。その約半年後、能登を大地震が襲うことを考えると、祭への主体の心寄せがより鮮明なものとして読者に伝わってくる。

角川書店 2024.1. 定価:本体2800円(税別) 

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