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上澄眠『苺の心臓』(青磁社)

 第一歌集。短歌を始めた2005年から2017年の作品を収める。「塔短歌会」へ入会後は転居するごとに章をまとめて、Ⅳ章仕立てになっている。
 ちょっとした心の揺れや、気分を摑むのが上手い作者。ぴりっとした比喩などでその気分を表わす手腕は平凡ではない。読後感は、明るく、やわらかい。作者の生活への向き合い方を反映しているのだと思う。タイトルにもセンスを感じる。

日本にさくらの花がモザイクをかけて今年も美しい春
 自分の住んでいる日本は、嫌なことも辛いこともある国。けれども桜の花が咲くと、嫌なことや辛いことにモザイクがかかったようになる。楽しいことだけ、心躍ることだけが見えてしまう。また今年も、美しくないものが美しく見える春がやってきた。これは桜の花効果でそう見えているだけなんだ、と分かっている。けれども桜のシーズンには見たいことだけ見て、明るい気持ちで過ごしたいのだ。

泥まみれになって死にたい 今日もっとどうでもいい服着ればよかった
 投げやりになって、泥まみれになって死にたいと口走ってしまう。そんな気分になることは誰でもあるだろう。それなら下句は何だろう。泥まみれになってもいいような服を着て来ればよかった、それはまさにその後のことを考えているから。どうでもいい服なら、泥まみれのまま捨てられたのに。そして服を捨てて生き直せたのに。今日のちょっといい服ではそれが思い切りできない。本当は死ぬならどんな服でもいいはずなんだけど。

じぶん自身の説明しにくい悲しみにしか涙が出ない たかく木蓮
 分かりやすい悲しさや、自分と関係のない悲しみには涙が出ない。自分の悲しみにだけ、それも言語化しにくい、自分でもつかみにくい悲しみにしか涙が出ない。それ以外の時には目線が上を向く。高く咲いている木蓮に今は目をやっている。

読みかけの、つまり未完の物語かばんの底にしずめたら 行く
 読みかけ、ということは自分の中でまだその物語は終わっていない。もちろん本として書き上がっているという意味では完結しているのだけれど。その未完の物語をかばんの底に沈めたら出発だ。「しずめたら」がいい。いったん沈めるのだ。その後、一字空けで「行く」が強い決意を表している。自分自身の今日もまだ未完。本を読みながら並行して自分の今日を完結していくのだ。

傘をさすまでもない雨 顔にあたるこの感じ微微微微微炭酸
 漢字でオノマトペ。音だけで無く、意味も持つオノマトペ。とてもフレッシュだ。歌の内容もフレッシュ。傘をさすまでもない、弱い小雨。顔にぱらぱらと雨粒が当たるこの感じは、弱めの炭酸水の発泡のようだ。小さな泡が当たる音を微炭酸の「微」を繰り返して表している。「タン」「サン」は一音節で発音したい。文句無しに楽しい歌。状況描写が的確なので、この歌を読んだ者は、小雨を受けるたびにこのオノマトペを思い出すだろう。

きみは他者 せっけんばこの石鹼がスライスチーズみたいになって
 初句が全て。この言い切りの強さに惹かれる。「他人」ではなく「他者」という言葉選びが距離の遠さを知らせてくれる。石鹼がどんどん薄くなってスライスチーズのようになる、というのは一つの事象だが、それと初句の間には一見、飛躍がある。薄くなって最後は無くなってしまうことが示唆される。おそらく、関係性の希薄さの喩だろう。「せっけんばこ」という、平仮名で少したどたどしい言い方が、全体の鋭さを弱めて、バランスを取っている。

はやく我に返らなければそれが過ぎたら電気をつけるたぐいの夕焼け
 不思議な認識の仕方だ。もう我に返ってるのではないか、と言いたくなる初句二句、しかも我に返った後の行動まで見えている。我に返ったしばしが過ぎたら、暗くなった部屋に電気をつけるのだ。そして三四句の認識が全部「~たぐいの夕焼け」と夕焼けの比喩に落とし込まれている。何をしていたのでもないのに、はっと気がつくと辺りが暗くなっていた。その一瞬の気づきと自分の現状とのずれが詠われているのだ。六七七七八、と全体の重めのリズム。上句は少し早口で読みたい。

金米糖(あなたが生きているかぎり飽きたりしない)ひとつあげるね
 ( )の外側が発話で、内側が心の声だと取った。一首通して読んだ後、もう一度、外側を読み、内側を読みたくなる。ドラマなどと違って、現実の生活では人はそれほど心の中の思いを発話しない。言いたくない、言えないこともあるが、上手く意識に昇っていないことも多いのだ。短歌にする時、それが意識化される。自分はこんなことを思っていたのだということが韻律に乗って出て来た歌のように思った。

「俺もそう思う」、といって雨音と窓を背にして横にならんだ
 雨の降る日、窓を背にしている主体の横に、相手が並んだ。「ならんだ」という語から横に立った(座ったのではなく)ように感じる。その時、「俺もそう思う」と主体に同意してくれた。その時の、相手に対して心強いと思った感覚が伝わってくる。おそらくあまり他の人には同意が得られなかった事なのだろう。「そう」の内容は分からない。けれど現実の会話は常にこんな感じ。その場で理解しているから何も説明しない。そしてストレートに心に入って来る。

そうだったホームはずっと岸だった 開かない方のドアにもたれて
 電車に乗って、駅で開かない方のドアにもたれて、開いた方のドアからホームを見ている。その時、気づく。プラットホームはずっと自分にとって岸だったのだ、と。線路が川ならホームは岸。自分はその岸にたどり着こうとしていた、時々は岸にたどり着いていたのではなかったか。まず初句で気づいたことを述べ、二句三句で気づいた内容を述べる。下句は状況説明だ。初句と二句三句の語順が、思考の臨場感を担保している。

青磁社 2019.2. 定価(本体1500円+税)



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