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澄田広枝『ゆふさり』(青磁社)

 第二歌集。具体を排し、象徴的な手法で繊細な感情を表現する。固有名詞は使われていないが、主体の背景に豊かな自然があることが察せられる。特に川についての歌に主体の思い入れの深さを感じた。一首一首に箴言性があり、深く引き込まれる歌が多い。比喩的な表現が、読んだ者に「そうとしか言えない」と思わせる力を持っているのも、この作者の特徴だ。
 
手を洗ふ。触れた記憶は梨のはな霧雨のなか剥がれゆきたり
 コロナ禍で手洗いが強く奨励された時期に詠われたと推察する。手を洗うことによって、相手に触れたという、大切な記憶が剥がれ落ちてしまう。記憶をまず梨の花と把握し、それから剥がれゆくと描写するが、その背景に霧雨を配している。読んだ者には、霧雨の中、手から剥がれ落ちる梨の白い花片が浮かぶのだ。

感情を展翅板へと移すときとり落としたり目鼻を口を
 昆虫の標本を作るように、自分の感情を展翅板へと載せる。ピンセットでつまむように、慎重に、息を詰めて。自分の感情をきちんと見つめたいから。けれど、その時、自分の目鼻や口を取り落としてしまう。感情は誰のものかも分からないような茫漠としたものに変容してしまった。悩んで苦しんでいたことすら自分で無化してしまったような、そんな一瞬。

ガラス器にミモザの花をあふれさせ抱へ込まないやうにと言へり
 あふれさせたのも、言ったのも主体以外の人物だと取った。かなり親しい人ではないか。ガラスの花瓶に溢れんばかりにミモザの花を活けて、抱え込まないようにと言った。ミモザのこの花房を抱え込まないように、と言っているようにも思えるが、苦しみ、悩みを一人で抱え込まないように、と言ってくれたのだ。きっと聞く用意がある人なのだろう。ミモザの黄色も相まって、心の屈折が明るくなるような言葉だ。

風折れの水仙にふる雨しづか永遠なんてないと知つてた
 真っ直ぐに伸びるはずの水仙が、風に折れて曲がっている。その水仙に静かに雨が降っている。冬から春へ移る季節の一コマだ。その光景を見つめながら確認する、永遠なんて無いと。前から知っていた、気づいていた。でも今改めて思うのだ。変わらないものなど何も無い、と。結句の口語体が本音がほろりと零れたようで読む者も思わず頷く。

すこしだけこはれてみたい昼月は指紋のやうに空にはりつく
 ぼろぼろに壊れるのは嫌だけど、少しだけなら壊れてみたい。今の自分の生活、自分の存在を少し離れてみたい。そんな気持ちの象徴のような昼月。昼月は指紋のように空に張り付いている。指先のような形。空に押したような指紋。そこに主体の心も一緒に張り付いてしまっているようだ。

雷鳴があとずさりしてゆく真昼ほころびを縫ふ針が冷たい
 雷鳴が次第に遠ざかってゆくことを「あとずさり」という納得できる表現にしている。たしかにあれはあとずさりだな、と思った。二・三句の句跨りで少し間の空いた感を出している。何かの縫物をしていうるだろうが、「ほころび」が布ではなく、人間関係に当たるように感じられる。それを繕おうとする針が細く冷たく指に当たってくるのだ。

そして雨、ただそれだけで満たされる呪文のやうな言葉が欲しい
 何かを洗い流すかのような雨。あることが終わったということを感じさせる。「ただそれだけで満たされる」言葉なんて無い、と分かりながら言っている。無いのは分かっているけれど、魔法の世界の呪文のように、どこか自分の目に見えない世界に、それがあるのではないか、と。言葉に救われたいのだ。

ひき返すすべをもたねば祈り終へ歩きはじめる曼珠沙華まで
 何かに踏み出してしまい、引き返す術は無い。そうであれば、祈ることしかできない。祈り終えて歩き始める。赤く咲く曼珠沙華のところまで。そこまで行ってもおそらく何も解決しない。そしてそこまで行けるかどうかも分からない。けれど行くしかないのだ。祈り、歩むしかないのだ。

傷つけられてゐると思ふ方が楽 突きさしてをり梨の深みを
 人間関係なのだから、どちらかが一方的に傷つけて、他方が一方的に傷つけられるということは無いだろう。主体は、自分が相手を傷つけていると思うより、自分が相手によって傷つけられていると思う方が気持ちが楽なのだ。傷つけるより傷つけられる方がいいかどうか分からないが、楽、というのは分かる。しかし主体に加虐の意思が無い訳では無い。剥いた梨を食べようとフォークで突き刺す時に、自分は梨の「深み」を突き刺している、と意識している。傷つけた人に対して、何か思いがあるのだろう。「深み」が一首の中で核の働きをしている。

やはらかい言葉は怖い噴き出した彼岸花へと火がついてゆく
 やさしく柔らかい言葉の方が、直接的な言葉より怖い。本当の気持ちが奥の方からじわじわと滲み出てくるからだ。彼岸花はいかにも地面から「噴き出す」という勢いで出てくる。そして火が付いたように咲き始める。この歌からはやわらかい言葉の中に、彼岸花を発火させるものがあるかのように感じられる。やわらかい言葉を受けて彼岸花が燃え上がるのだ。

青磁社 2023.1. 定価:本体2400円+税

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