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嶋稟太郎『羽と風鈴』(書肆侃侃房)

 第一歌集。都会の風景を描きながら、その底に郷里である石巻への思いを潜める。都市を描く歌に、目や耳の感覚が冴えている。自分の住む町、郷里の町、恋人の郷里の町などを丁寧に描き出す。また、自然を描写する歌からは、遠い場所へと連想が誘われる。都市の小さな自然から、遠くの大自然へと歌が跳躍する。落ち着いた筆致、落ち着いた感情が一冊を貫くトーンとなっている。

屋久島の森に置かれたマイクから配信される雨音を聞く
 屋久島の森に収音マイクを置いて雨の音を拾っているのだろう。ひと月に雨が35日も降る、などと言われる屋久島。その雨の音は遠くの大自然を伝えてくれる。配信される雨音を聞くとき、主体の心はひと時だけでも屋久島にあるのだ。古代からの森・雨音の配信、という古代と現代をショートカットで結ぶ行為が一首の眼目だ。

せいめいせんエスカレーターに捺している明日のことを考えながら
 掌をエスカレーターの手摺に当てている。それを掌の生命線を手摺に捺す、と把握した。エスカレーターの手摺に生命線の筋が模様のようにつくイメージだ。そのように自分の掌を意識しながら、明日の予定について考えている。どちらに意識の軽重があるのだろう。「せいめいせん」と平仮名で書かれると、そちらの意識はゆっくりと丁寧に動いているようだ。さらに意識が二つに分断している自分を外から見ている視点もある。

夕立の終わりは近く二輪車の音は二輪の線を引きつつ
 夕立の中、二輪車の音が聞こえる。雨音をついて聞こえる他人のバイクか、あるいは主体の乗っている自転車か。夕立をついて聞こえる「音」に注目すればバイクだし、二輪の「線」に注目すれば自転車だ。どちらであっても、一つの車輪の音が一本の線のように続き、二輪車だから二つ分の線を引きつつ走って行くのだ。耳で聞く音を脳内で線に可視化している。夕立の音も遠ざかりつつある。聴覚の冴えが一首の中心にある。
 
月の夜の白い砂丘を閉じ込めた塩のボトルが卓上に立つ
 実は塩の瓶が卓上に立っている(だけ)。その白い塩の粒々を砂丘の砂と見た。しかも月の夜、月の光に照らされて白く照り返す砂だ。一つの瓶の中に一つの砂丘がある。無限の広がりを持ちながら。

空洞がわれにもありや鉄塔は空の青さに貫かれたり
 空の青さが鉄塔に貫かれているという縦方向の視線ではなく、鉄塔の空洞部分が空の青さに貫かれているという横方向の視線で見ている。鉄塔を塊として見るのでなく、一本一本の鋼材とその隙間である空洞を見ている。そんな空洞が自分にもあるのだろうか、という自問。身体的な空洞、あるいは精神的な空洞。読んだ者も同じ自問へと誘われるのだ。

それぞれの町の祭りに前夜あり海の花火が今日は聞こゆる
 日本全国の町にある祭り。どこの祭りもそれぞれに前夜がある。祭りそのものの高揚感を先取りして、空気自体がわくわくと盛り上がるような前夜だ。今、主体がいる町は明日の祭りを控えて、海に花火が揚がっている。見に行っているのではなく、音で花火を感じている。町の住民の熱気も肌感覚として伝わって来るのだろう。

車椅子を降りようとして美しい筋肉きみがマルボロを吸う
 辞令を受け、東北に戻る友人を囲んで数人の友と集ったことを詠った一連。初句二句と三句の間に微妙な切れがある。三句以下は、美しい筋肉イコールきみ、が主語、マルボロを吸う、が述語と取った。車椅子の友の、車椅子を使うゆえに発達した筋肉。車椅子を降りようとしたその瞬間、筋肉の美しさに目を奪われた。そしてそのあと、車椅子を降りた君がマルボロを吸っている姿を主体は見ているのだ。

火の文字のように両手を上げたままわが子は眠るわたしの前に
 わが子、というにわかには信じられない存在。これがわが子なのだ、と繰り返し自分に言い聞かせなければならない。そんな気持ちが感じられる下句。上句はそのわが子の描写。乳児は両手を上げたまま寝ることが多いが、その可愛らしい姿を「火の文字」に喩える。納得の行く視覚的比喩だが、赤子自身のこれからの生を切り開く、生命力に満ちた内面も、火の連想に繋がるのだ。

遠いほど眩しく見えるゆっくりと流れる河を渡り切るまで
 大きな河を光とともに描き出した一首。ゆっくりと流れる河を渡る時、渡る側の動作もゆっくりとしているような気分になる。河を渡っている間中、上流か下流に目をやっていたのだろう。眼前の河の流れより、遠く離れた箇所の流れが眩しく見える。その光を見つめながら、河を渡ってゆく。前後の歌から、おそらく電車で渡っているのだろうが、徒歩であっても、車であっても情景は通じると思う。

似ているとは違うということ河口からそう遠くない空気の匂いも
 上句の把握にはっとする。似ているということは、同じということではない。「違う」からこそ似るのだ。しかし人には、似ているということを元に、その二つに同じであることを求めてしまう心理がある。この歌は前後から今住んでいる川崎とどこか、おそらく郷里を、似ていると思っている歌と取った。二つの町の河口に近い空気の匂いも、似ているが違う。似ているからこそ、その微差に敏感になるのだ。そうした原理的なことが根底を貫いているが、一首を覆うのは土地を見る愛着に満ちた視線だ。具体的な土地への愛があるから、一首を貫く発見が生きてくる。

書肆侃侃房 2022.1. 定価:2000円+税

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