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𠮷澤ゆう子『緑を揺らす』(青磁社)

 第一歌集。2008年から2022年までの461首を収める。自分自身が緑の森と一体になっているような体感を感じさせる歌に個性がある。子育ての歌、父や祖父のルーツを探る歌、また祭礼や神社の行事などの歌に具体があり、迫力がある。チェロを演奏する歌からは主体の心の声が聞こえてくるようだ。また、具体に寄らず、心境を象徴的に表した歌に深く惹かれる歌があった。

森として分け入るときにひかるもの鞄に入れて歩き出ださむ
 巻頭の一首。さほど大きな木群ではないのだろう。それを森として捉え、森として分け入る。その時に、光るものがある。希望のようなものの象徴だろうか。それを鞄に入れて歩き出そうとしている。光るものは森の中にあると取ってもいいし、分け入る時の主体の心の中にあると取ってもいい。

生きものの声がなにかを呼ばふとき生きものの吾の振り返るなり
 最初の「生きもの」が何かは分からない。おそらく鳥であろうが、分からないままの方がこの歌は良い。その「生きもの」が「なにか」を呼ぶ。同じ種の生きものを呼んでいるのだろう。「生きもの」という点では人間も同じだ。自分が生きものであることを普段、多くの人間は忘れている。しかし主体ははっきりとそれを意識している。「生きもの」の呼び声に「生きもの」として振り返るのだ。

山に添ひ山を越えくる雲のこと隔てある世のものと見てゐつ
 山に添いながら、山を越えて来る雲。的確な描写で雲の姿が読者に眼前する。ここからは主体のものの見方で、その雲を「隔てある世のもの」と感じている。この「隔てある世」という言葉に惹かれる。目の前にあるはずの雲なのに、自分とは隔てられた世のもののように見える。「見てゐつ」という長い時間を感じさせる結句も情感がある。

少年がほそき声もて呼ばふときわが裡の〈母〉が顔を上げたり
 少年は幅広い年齢に対して使われる語だが、「ほそき声」から変声期前の小学生ぐらいの子を想像した。母を呼ぶその細い声。反射的にはっと顔を上げたが、それは、われとして私として、顔を上げたのではなく、自分の裡にある〈母〉が顔を上げたのだ。抽象的に見えるが、とても共感のできる表現だ。

話すこと話さぬことの総量を収めてひとは夜を眠るなり
 父は硫黄島の出身であった。祖父が漁師であり、父は八歳までそこに住んでいたらしい。家族の歴史を綴った一連「いわうじま」より。太平洋戦争の激戦地になり、『硫黄島からの手紙』等、小説や映画の舞台になった島だ。しかしこの一連を読むと、激闘の行われる以前の島では、庶民が普通の暮らしを営んでいたことが分かる。軍事利用のための強制疎開で島を追われたのだろう。父も伯父も言いたいことを言わずに世を去って行った。挙げた歌はこうした背景を入れても入れなくても読める歌だ。誰もが思っていることの全てを話すわけではない。言葉が伝えられないことの量の多さを思わせる一首。

てのひらの線深くして子は受ける卵(らん)の透けたるくろき川海老
 少年の少年らしさが滲み出た歌。この一連の少し前の歌で子が変声期であることが分かる。中学生ぐらいか。しかしこの年代の少年はまだまだ幼さを持っている。生物に対する興味などにそれが顕著に現れる。卵を持つ川海老を誰かからもらう子。手のひらを窪ませて大切にそっと受け取っている。生命に対して本能的に持っている恭しさ。「てのひらの線深くして」の巧みな描写、「卵の透けたるくろき川海老」という正確かつ美しい写生。感情語を排して、生命の神秘を覗き込む少年の姿を描き出す。

しまひきてまたしまひたる感情は波打ち際を持つ湖(うみ)である
 感情を露わにすることの少ない主体。感情はずっとしまい込まれていたままだった。そしてまた再びしまい込んだ。その感情を湖に喩える。波打ち際を持ち、主体の内側から波となって、身体の内部を打つ湖なのだ。きっといつまでもその湖は身体から溢れることは無いのだろうと思わせる。どんなに内部で高い波が主体自身を打とうとも。この二首あとの「身体はさみしい袋ひと知れず入れてこぼしていつも揺れゐる」と呼応していると取った。

遠くから木菟に見られてゐるやうな夜だあなたの腕(かひな)に触れる
 夜行性の木菟の視線が遠くから自分に届くような夜。誰かに見られているような。誰かは木菟かもしれないし、自分自身の別の目かもしれない。どこか怖いような気持ちのする夜。あなたの腕に触れ、心を落ち着かせようとする。木菟に心の底を覗かれたことにより、あなたの腕に触れたいという自分の気持ちに気がついたとも取れる。

風花の加速するさまを見てゐるも痛みがわれをからだに戻す
 何らかの病いにより、身体に痛みがある。それを忘れるぐらいに風花の舞う様子は主体の心を捕らえている。風に吹かれて加速するその様子。しかし心の浮遊するような瞬間にも痛みは身体を襲う。身体から彷徨い出ていたような心が、痛みに呼ばれて身体に戻って来る。痛みを身体に感じることをかくも美しく語った一首。

呼んでゐるこゑは梟 神無月だから通れる扉はありて
 主体の心には、梟と呼応するものがあるのかも知れない。二首前に取り上げた歌も木菟の歌だ。梟の声に呼ばれている主体。扉を通って梟の傍に行くのだ。その扉は神無月だから通れる扉。理屈ではない。しかし読む者を説得する下句。季節が秋から冬に変わる時にだけ開く扉。それを通って森へと紛れ込む主体の気持ちが、読者にも間近く感じられる。

青磁社 2023.6. 定価(本体2500円+税)


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