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安田茜『結晶質』(書肆侃侃房)

 第一歌集。2014年から2022年に制作した短歌を収める。タイトルから連想されるように鉱石のように硬質な言葉が並ぶ。抽象的な表現の中に現実生活の苦しみが滲む。第4回笹井宏之賞神野紗希賞受賞作を収める。

からだ持つかぎりわたしのなかにあるくるしみ・月のひかり・痛み
 苦しみも痛みも身体があるからこそある。それは精神的なものであると同時に身体的なものでもある。苦しみと痛みに並んで「月のひかり」が配されていることが一首を詩にしている。月のひかりが身体の中から苦しみや痛みを照射しているのだ。結句、句割れの六音。

彼岸花わたしのここにも咲いていて此処が見えないとは言わせない
 わたしの「ここ」あるいは「此処」。それはどこなのか。でもあなたには分かるはずだ、「見えないとは言わせない」という強い口調で相手に迫る。相手に対する信頼とそれを確認したい不安が、彼岸花の逆立つ花弁のように強く立ち上がった瞬間だ。

靴の底ゆるい地面にめりこんで白いつばきのもとまでをゆく
 雨の後、ゆるくなった地面。靴底がめり込むような感触がある。その感触を踏みしめて、白い椿の咲くところまで行く。咲き盛る白い椿は主体の思いが形になったような花なのだ。地面にめり込みそうなのは靴底よりもむしろ心。それでも白い椿のもとまで行く、という意志。

ベランダにタオルは風のなすがまま会えないときもきみとの日々だ
 ベランダで風に吹かれるタオル。「なすがまま」という言葉選びが、制御できない事態に対して、身を委ねているような印象だ。会っていても会えなくても、それは「きみとの日々」。下句の意志的な言葉と、上句の風にあおられるタオルが、それでも、という心の動きで結びつく。

草原という結論にたどりつくどこからきみを思い出しても
 上句下句の倒置なのだが、初句から「草原」という言葉が出ることで、歌が軽い驚きを持って始まる。上句の「結論」という堅い言葉も、一首の柔らかさの中で肝として働いている。草原のような人、と言ってしまっては俗なのだ。

けぶるべき春が来るならそのまえにあなたの息の根にとまりたい
 もの皆けぶるような春の景色。しかし、けぶる「べき」という捉え方が作者独特だ。「息の根を止める」という慣用表現を「とまりたい」とすることで、相手の一番大切なところに手を伸ばしているのだ。これは叶わない願望としての「~たい」ではなく、必ず実行する意志なのだと思わせる。

今日は雨 すでに興味を失ったものが灯りになるときもある
 今、一番大切で、必死でしがみついているものよりも、もう興味も無くなったものが、自分にとって何らかの救いや灯りになるときがある。微妙な心の揺れ幅を描いている。初句の場面設定も、心の揺れを主体が実感する場を表している。これを読んだ者の心にもふと灯りの気配が感じられる歌だ。

かみのけが今夜もすこしずつ伸びる さくらの下にいてもいなくても
 もちろん髪の毛が伸びることと桜の下にいるかどうかは関連が無い。けれどもこの二つが並べられることで、何らかの関連があるかのように思えてくる。「いてもいなくても」と言っているのだから、関連が無いと主体自身も言っているのに、読者の目には桜が見えてくるのだ。

あやうさはひとをきれいにみせるから木洩れ日で穴だらけの腕だ
 「ひと」の腕に木洩れ日が落ちている。それが腕に開いた穴のように見えてくる。穴だらけの腕。その腕の持つ危うさが「ひと」をきれいに見せてくれる。吊り橋効果に近い心理だ。おそらく主体は今、「ひと」の傍にいる。主体自身の身体も無数の木洩れ日で穴だらけなのだろう。

オパールに遊色満ちてわたしからはがれておちる暴言あまた
 オパールの美しさはその石が内包する様々な色にある。オパールにそうした美しい色が煌めくように、主体自身の心の中にも言葉が満ちて、そして剥がれて落ちる。それらは美しい言葉ではなく暴言なのだ。暴言に満ち満ちた心の内側をオパールが象徴する。暴言がオパールの遊色のようにきらめく。暴言の元となる苦しみもそのように浄化されれば。

書肆侃侃房 2023.3. 定価:本体2000円+税


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