小さくても傷があったら誰かに伝えて、誰かが聞いてほしい
傷に気がつかない、ふりをしてはいけない。
小さい傷が静かに広がることがあるから。
爪が割れていた。
毎日何度もアルコール消毒をするので、ハンドクリームはこまめに塗っていた。でも爪をきちんとケアしていなかったと気づく。
私の爪は弱いのに。
ああ、もっと気をつけていればよかった。
そんなことってたまにある。
いつの間にか、自分の傷に気がつくこと。
別に何でもないって思っていたのに、いつの間にか私の中にゆらゆらインクのように広がる影、みたいな。
数年前、何でもないようにいわれた言葉がある。
「川の森さんって、そういうこと気にしない人だと思っていたから」
1年間だけ、私の指導に当たった人だった。
彼女は長いことその仕事の実績を出せなかったので、私が引き継ぐことになっていた。
おっとりしている人柄といわれ、それまで私もそう思っていた。
でも、あまり教えてくれず、情報ももらえず、ネットワークが大事な仕事なのに人を紹介してくれなかった。
どうして?
困ってしまったが、仕事に支障のないギリギリのところまでは教えてくれる。それでやっていくしかなかった。
あるイベントの時に大事な資料の並べ方も教えてもらえず、私は間違って入れてしまった。
みんなの前で笑われた。
私は彼女に、どうして教えてもらえなかったのかということと、笑われて不快だったことを伝えた。
するとこういったのだ。
「あら、川の森さんって、そういうこと気にしない人だと思っていた」
笑っていわれた。
気にしないってどういうこと?
笑われても平気な人ということ?
失敗しても気にしないということ?
雑だということ?
鈍感ということ?
ショックで聞き返せなかった。
その言葉が黒いインクのように暗く私の心に広がっていった。
もちろん、その一言以外にもチクチクや教えてもらえないこと、無視されることは日常的にいっぱいあった。
そのあとから、私は休日に1日中布団から起き上がれなくなっていった。
体が重くて、布団から引きはがせなかったのだ。
夫は黙ってなるべく家事を引き受けてくれた。
気がついていたはずだが、何もいわなかった。
息子は思春期だったけれど、悪態をつかずにいつも通りに声をかけてくれた。「おかしいな」とは思っていたはずだ。
2人には感謝している。
何も聞かずに見守ってくれた。優しかった。
起き上がれなくなってすぐの時は自分の状態がわからなくて、ぼうっとしていた。
会社には休まず、何とか通っていた。
1年後、その女性は「俳句の仕事をします」と早期退職をした。
その時は私が仕事を引き継いでいて、私が彼女の上司という形になっていた。
言葉の仕事をするのに、あんなひどい言葉を平気で投げたんだと、暗い気持ちで見送った。
彼女が辞めて、すごくホッとした。
体がゆっくりと伸びたような気がした。
そして自分の心身の状態に改めて気がつき、クリニックに行ってみた。
軽い鬱だった。
気がつくのが遅いというよりも、一番つらいときはクリニックに行くという決断ができなかった。動けなかったのだ。
軽いお薬をいただいて、飲むうちにゆっくりと治っていった。
1年間くらいかかった。
どうすればよかったのか、わからない。
抗議するべきだったのか。
抗議したら、私は鬱にならなかったのか。
ただ、あのまま流さなければよかったのだとは思う。
彼女は、その前にも一度部下を鬱にしたことがある。
「誰でもなる可能性があるから」と本人が軽く私にいったけれど、そうやって流していいこととは思えない。
彼女自身は傷つかなかったのだ。変わらなかったのだ。
私がクリニックにかかったことも、休日に寝込んでいたことも、知らない。
どうしたらよかったかはわからないけれど、一つ思うことはある。
自分で傷ついたことを、なかったことにしない。
傷ついたことを自分で気がついて、自分を慰めたい。
私は悪くないのだと、自分に言いたい。
自分を責めない。
そして、つらいからこそ、だれか信頼できる人にいったほうがいい。
私はいえなかった。
いえるようになったのは、完治してなお1年以上たってからだ。
自分の傷にまだ血が流れている、と感じるとつらくて黙ってしまった。
私は会社には出勤できたし、周囲は気がつかなかった。
いいか悪いかはわからないけれど。
でも、そうできない人も多いはずだ。
そのまま動けなくなることも多い。
一人暮らしだったら、そのまま家から出られなくなるかも、しれない。
家族と一緒でも、そうかもしれない。
できるなら誰かに伝えてほしい。
家族でも、友人でも、クリニックでも、相談室でも、電話でも。
自分の状態がどれくらいなのか、わかるかもしれない。
誰かが、合う情報を教えてくれるかもしれない。
つらいから、いえない。
わかるけれど。
私も家族にもいえなかった、けれど。
私は見守ってもらえた。
いったら変わったのか、どうか、わからない。
動き出すのが早かったかもしれない。
いえばよかったなと思う。
家族がそうなったら、いってほしいから。
伝えたら、誰かが動いてくれるかもしれない。
聞いてくれたら、心が動くかもしれない。
小さな傷が思ったよりも深いことがある。
だからなかったことにしないで。
流さないで。
誰かに、伝えてほしい。
もしあなたが、誰かの様子が辛そうだと気づいたら、声をかけてほしい。
「どうかした?」
「よかったら話を聞くよ」
その一言で、救われる人がいるかもしれない。
あなたの話を聞かせて。
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