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[小説] リサコのために|068|十四、再構築 (2) 最終回

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 どんなに巨大であっても良介は良介であってリサコの最も大切な人であることに変わりはなかった。

 リサコはほっとして立ち上がった。立ち上がるとリサコの顔が良介にも見えたようだった。

 彼は優しく微笑むと、両手に力を込めてさらに亀裂を広げ、ゆっくりとリサコの方へと腕を伸ばした。
 そして彼女を捕まえた。

 リサコは良介の手のひらの中にすっぽりと包まれて、そっと引き寄せられていくのを感じた。

 抵抗すればできそうな気もした。
 だけれど彼女はそうしなかった。抵抗する理由もなかった。
 このまま身を委ねれば、良介の元へと帰れる。彼女はそう確信していた。

 大きさはこのままかもしれない。私は小人で良介は巨人のままかもしれない。
 それでもいいと思った。

 リサコは目を閉じた。
 なぜだか、あの真っ暗闇から抜け出す瞬間を見てはいけない気がしたのだ。

 ふわりと体が浮くような感覚がして、誰かに手を引かれた。

 すると急に重力を感じて、リサコは落っこちそうになった。咄嗟に目を開けてバランスを取ろうとすると、リサコは大きな木の幹に空いた穴から上半身を出して宙ぶらりんになっている状態だった。

「わっ」

 体が前のめりになり思わず声が出てしまった。
 リサコの体を筋肉質の腕が支えてくれた。良介だった。
 彼はもう巨人ではなかった。

 リサコが必死に良介にしがみつくと、良介はリサコの体に腕を回して彼女の体を引っ張った。

 すると、漫画のような「スポ――ン」という音がして、リサコの体が樹の幹から抜けた。
 リサコはそのまま良介の上へと倒れ込んだ。

 地面にはふかふかの落ち葉が積もっていた。

 リサコは倒れ込んだままの姿勢で良介にしがみついた。
 彼の心臓の音がドンドンドンと鳴っていて、それを聞くと彼が本物であると確信ができた。

 良介の腕がそっと背中に回されて優しく抱き留めてくれた。

 そうして二人は抱き合ったまま、しばらく地面に転がっていた。

「ここは何?」

 ようやくリサコは口を開いた。何千年も声を出していなかったように思ったので、普通に声が出て自分でもびっくりした。

「わかんない。どこかの森」

 良介が言った。

「リサコ、こっち。来て」

 良介に手を引かれてリサコは立ち上がった。
 リサコは裸足だったので落ち葉の地面がくすぐったかった。見ると良介も裸足だった。

 二人は手を繋いで森の中を進んだ。

 しばらく行くと、切り株の上にロウソクや果物がごちゃごちゃと置かれた場所に着いた。
 そこだけ落ち葉が寄せられてこんもりと山になっていた。

「さっきまで俺、ここにいたんだ」

 良介が言った。

「どれくらいかわからない間ここにいて、フルーツ食べてた」

 言いながら良介はにっこり微笑んだ。

「リサコは何をしていたの?」

 話しながら良介はリサコの手を引き落ち葉の上に座らせた。
 落ち葉はちょうどよいクッションのようだった。

「…私は…オブシウスたちとドーム状の広いところに連れて行かれて、そこで《全脳》とかいうやつに会った。すごくクレイジーだった。カオスがどうのこうのって…」

「…カオスね」

 良介は意味深な微笑みを見せたがそれ以上は何も話すつもりはないようだった。
 リサコは自分の話を続けることにした。

 リサコは《全脳》が話していたことをできるだけ思い出して良介に話した。
 ムネーモシュネーがオリジナルのリサコの精神を探索するうちに、“集合的無意識” を発見しカオスを求めるようになったこと。
 それがどうやらすごく過去のことらしいこと。

「それから…私にはよくわからなかったんだけど…、この世界の事象って人間に認識されないと決定しないとか何とか?」

「“シュレーディンガーの猫” か?」

「ああ、それ! ガイスがその猫の話で説明してくれたんだけど、実はよくわかってない」

「量子力学の話だね。同時に複数の可能性を考察するって話だろ?」

「うん…なんかそういう話だった。それで、《全脳》が言うには、彼らは人間が認識しない方の可能性も同時に見ていて、認識してない世界を見よと人類に伝えているのだとか」

 それを聞くと良介は一瞬あっけにとられたような表情をした。そして笑い出した。

「あはははあ~なるほど、そういうことか。それで俺たちに見せているつもりなんだな」

 今度はリサコがきょとんとしていた。

「リサコ、人類ってまだいると思う?」

 良介が言った。

「さあ…でもここがコンピューターの中だとしたら人類はまだいるんじゃないの? コンピューターが止まっていないということでしょう?」

「それはそうかもしれないね。だけど、コンピューターの中って時間はあってないようなものだから、人間にとっての1秒を俺たちは何億年もかけて進んでいる可能性もある。そしたらもはや同じ時間に存在しているとは言い難いよね」

 リサコには良介の言っている状態が想像できなかった。

「実際の現実世界が今どうなっているのか、この俺にも知る術はないんだけど…、どっちにしても、人類が存続していようが絶滅してようが、俺たちがここでやっていることは本物の人類に伝わることは永遠にないだろうね…」

「そうなの?」

「うん、もうここは既に生身の人類の範疇を超えてしまっている。人類が知ったところで何の意味もなさないものだ」

「人類が見ることはないのであれば、どうしてこんな世界が存続しているの? AIたちは何がしたいの?」

「そこなんだよ…」

 良介は少し面白がっているような表情になり、リサコの肩に腕をまわした。

「俺たちは、これが何の意味もないってすぐわかるだろう? AIにはそれができないんだ」

「なぜ? AIは私なんかよりずっと賢いのに?」

「そう、AIは賢い。俺は人間とAIの両方を持っているからわかるんだ。AIは人間よりずっと賢い。だけど、AIにはどうしても理解できないことがある」

 リサコはごくりと唾を飲み込んだ。良介は話を続ける。

「それはね、“本質” だよ。AIには物事の本質が理解できていない。全て表面的な、事象の理屈や事実しか把握できない。それでもこうやって現実と見分けのつかない世界を作ることはできるけど、森の営みで育まれる “命” が何であるか、言語的な解釈はできても本質は理解できない。生きるという実感をAIは体感として知ることができないんだ。というか、それを知ることができないことを理解することができない」

 沈黙が流れた。リサコは良介の言っていることを必死で理解しようとした。
 だができなかった。

「リサコは良介の言っていることを理解することができない…」

 リサコは機械らしい口調で言ってみた。
 これには良介は噴き出して笑ってしまった。

「ごめん。まあ、いいや。これは俺にしかわからないことかも。それで、《全脳》は他にも何か言っていた?」

「良介のことを鍵とか…」

「鍵ね…。俺がキーパーソンって?」

 リサコは頷いた。

「それで、君はまた《ヤギ》を斬ったの?」

 リサコは再び頷いた。

「《ヤギ》を斬ったら終わりかと思ってたんだけど」

「俺もそう思っていたよ。実際に DIG 13 FFDIL に入るまではね」

 良介はどこまで知っているんだろう…とリサコは考えた。

 《ヤギ》を斬った後の暗闇の中の出来事も良介は知っているのだろうか。

 口の中にギザギザの歯が生えていたあの子のことを良介の話すべきかリサコは迷った。
 そして話さないことにした。

 良介は別のことを考えているようだった。

「《ヤギ》は何かの象徴なんだろうね。あれの首を切断する行為に彼らは何らかの意味を持たせている。それを何度も繰り返すことによって何かの確率をあげようとしているのか…。まあ、どっちにしても、《ヤギ》斬ろうが斬るまいが、DIG 13 FFDIL がゴールだ。どん詰まり。あそこに俺たちが到達すると、必要なプロセスを踏んでから、この世界をリセットするか否かの選択が俺たちに託される」

 それはリサコには初耳だった。《全脳》はリサコには説明してくれなかった。
 いや、してたのかもしれないけど、リサコには理解できていなかっただけかもしれない。

 リサコはそっと、《表層の店》の様子を探ってみた。
 今はそこは空っぽではないようだった。一度離れていた交代人格たちはリサコの元に戻ったようだった。

 だけれど、彼らはシャッターを閉めてリサコと交代する気がないことを示してきていた。
 ここはリサコがひとりで対応するべきところだということだ。

 リサコは腹をくくった。

「リセットするとどうなるの?」

「最初からまたやりなおし」

「他のみんなはどうなるの?」

「世界と共にまた生成されるんじゃないかな?」

「リセットしない場合は?」

「…リセットしない場合は、ここで本当の最後になってその先は何もない。エンドロールが終わった後みたいに、物語はもうおしまい。俺たちの後ろ側しか存在しなくなる」

「良介はどうしてそのことを知っているの? 前から知っていたの?」

「いいや、ここに来てから何となく」

 リセットするかしないかの話を聞いた時、リセットをしなければ、良介と二人でずっとここに居れるのかなと思ったがそうでもないようだった。

「俺はここでお終いは嫌だから、リセットを選択したい」

 良介が言った。リサコもそう思った。

「うん、私もリセットしたい」

 リサコの答えを聞くと、良介は切り株の上に置いてあったリンゴを一つ手にとった。

「リセットをするには、まず、この世界に自分の精神を解放する必要がある。回路を作るんだ。これは…リンゴに見えるけど、リンゴではなくて、解放プログラムになっている」

 手渡されたリンゴをリサコはまじまじと眺めた。何の変哲もないリンゴだった。

「それを食べると解放が始まる。君の仲間たちって、今精神の中にいるの?」

「いる。けどシャッターを降ろしている」

「彼らにも影響があるかも。伝えられる?」

 リサコは《表層の店》に意識を集中して彼らとの対話を試みた。だけれども、誰とも話はできなかった。

「ダメ、誰とも話せない」

「もしかして、ここのせいかもしれないね。まあ、大丈夫だろう…最初は少し気分が悪くなると思うけど、俺が側についているから」

「良介はやらないの?」

「俺はね、もう先に済ませてしまった」

 良介はニッと笑って舌を出した。
 そういえば、彼がここでフルーツを食べていたと言っていたのを思い出した。

 リサコはリンゴをしばらく見つめてから、思い切って一口かじってみた。
 普通のリンゴだった。

 咀嚼し、飲み込む。

 何も起こらなかった。

 量が足りなかったのかなと思い、もう一口食べようとしたその瞬間。世界がぐにゃりと湾曲するのが見えた。

「…あ…」

 思わず声が出た。良介がリサコの肩をしっかり抱いて押さえてくれた。

「始まったね。抗わないで、身を委ねて」

 みるみるうちに世界がグニャグニャに変化していった。
 リサコは仰向けに倒れて顔のすぐ横に落ち葉を感じた。

 良介の腕が自分の体の周りを、まるで蛇のようにグルグルと巻き付いているように思えた。
 それは特に嫌な感覚ではなかった。

 視線の先に緑が揺れ、その向こうに空が見えた。
 ざわざわと風になびく木々の葉や枝がコマ送りのように不自然にザザザと動き、そして徐々に極彩色へと変化していくのが見えた。

 数々の色が飛び交っているように見えた。
 やがてそれが幾何学模様になって、視界の中でうごめいて見えた。
 グニャグニャザワザワ動いていた。

 木々の騒めきがやがて囁き声のように聞こえてきた。
 音にも色がついているような感じがした。

 それから、体内が全て液体になり穴という穴から抜け出してしまいそうな感覚が襲って来た。
 お漏らししそうな感じ。

 リサコは必死で流れ出ないように我慢した。

「抵抗しないで、大丈夫だから」

 良介の声がどこか遠くから聞こえて来た。エコーがかかっているような、逆回転が混ざっているような奇妙な声に聞こえた。
 リサコは恐る恐る力を抜いた。

 すると、自分が流れ出すのと同時に、世界の方も自分の中に入って来た。
 世界はキラキラした色とりどりの光となり、リサコの血管を駆け巡った。

 指先の毛細血管の隅々に至るまで、世界が流れて循環しているのが感じられた。

 そして、自分自身もまた世界に向かって流れだしていた。

 リサコは木々の中を伝い、葉の葉脈を縫って全ての細胞に行きわたった。

 リサコはかねてより、空を飛ぶ鳥の意識に入ったり、草原を駆け抜ける小動物の意識に入ったりすることが可能だった。

 だが、いま、ここで体験しているそれは、他者の意識に入り込むよりもさらに奥深く、生命の中の中にまで入り込むような感覚だった。

 細胞の一つ一つが存在感を持って感じられた。

 世界と一体となっている…! そうリサコは認識すると、今度は自分の中に入っていった。

 気が付くと《表層の店》にいた。
 さっきまで固くシャッターが下ろされていたのに、いともたやすく入ることができた。

 お馴染みの面々が輪になって立っていた。
 みんなの体が透き通って毛細血管が七色に光っているのが見えた。

 店の中にどこか聞き覚えのある音楽が流れていた。
 激しい音楽。わんわん鳴っている。

 それは、《ヤギ》と対峙する訓練をしていた時に散々聞いていた音楽と似ていた。

 視界が色とりどりに変化しグニャグニャなので、誰が誰なのか顔の認識が難しく奇妙な感覚だった。

 だけれども、リサコと融合していたオーフォとエルがまた分離していることがわかった。
 アイスリーはリサコと融合したままだった。彼女とリサコは芯の底までがっつり融合していたのでもう離れることはないのかもしれない。

 《体系》はもういないようだった。

 誰も何もしゃべらなかった。

 リサコは自分の意識の上層へと浮上した。

 リサコは森に戻って来た。

 瞼に目ヤニがべったり張り付いて眼が開けられなかった。

 やけに重たい腕を持ち上げてリサコは目ヤニをこすり取った。

 体を起こすと良介の腕の中にいた。

 辺りは薄暗く、日没が近いことが覗い知れた。

「どう?」

 良介が言った。

 まだ世界がグニャっとしていた。

「細胞が全部、世界と繋がった感じ」

 言葉にしてみて、急におかしくなって、リサコは笑い出した。
 笑いが止まらなかった。

 良介も笑った。

 たまらず横たわってリサコはクスクス笑った。
 どうしても笑いの発作を抑えることができなかった。

 ようやく落ち着いて再び体を起こすと、良介が何とも言えない表情でこちらを見ていた。

 シュッと音がしてオレンジ色の光が灯った。

 良介がマッチを擦ったようだった。

 炎が揺れて、切り株の上にあったいくつかのロウソクに火がともった。
 ロウソクの炎がゆらゆら揺れて、大きくなったり小さくなったりしているように見えた。

 良介が自分の膝をかかえてこちらに視線を向けて来た。
 彼の両目にロウソクの炎が映り込んで、うるんで見えた。
 うっとりした表情でこちらを見つめている。

 こんな表情の彼はこれまで見たことがなかった。

「俺さ、ガキのころから感情を表に出すのがへたくそで」

 ボソリと良介が話始めた。

「リサコのことは、会ったその時からずっと好きだったんだけど…」

 突然の告白にリサコは体中が熱くなるのを感じた。ここに来るまで、良介から何度か愛情の言葉はもらっていたけど、今この全ての細胞を意識できる状態で聞くと、ひとつひとつの細胞がその言葉を聞いているような、そんなとてつもない感覚に襲われるのだった。

「俺の感情にはリミッターがついててさ、人間の俺だったころからだよ、ずっと溢れ出しそうになる感情を押し殺して来たんだ…だけど、これが最後だからさ、今、そのリミッターを全部解除してみたんだ…」

 良介は鼻から大きく息を吸い込んだ。そして吐き出すように続きを言った。

「君のことが好きで爆発しそうだよ…」

 リサコは腕を伸ばすと、良介の頭を抱え込んで自分の方へと引き寄せた。

 良介が愛おしくてかわいくてどうしようもない気持ちが溢れ出て来た。
 リサコは彼に囁いた。

「そんなこと言われたら、私も…爆発しちゃいそう…」

 二人は口づけをした。良介の唇が何度もリサコの唇に重なった。
 それから彼の唇はリサコの首筋を這って行った。

 リサコは良介が “最後だから” と言ったのが気になってしまっていた。

 …最後なの?

 このまま溶けてしまいそうな気持だったが、同時に、酔いがさめるような気持ちもあった。

 …最後なの?

 …ダメだ、確かめないと集中できない…。

 こんなタイミングで言うことじゃないと思いつつ、リサコは何の不安もなく良介の愛情を受け止めたいと思い、思い切って口に出して言った。

「ねえ、リセットしたら離れ離れになっちゃうの?」

 良介は動きを止めてリサコの顔を覗き込んだ。

「…そうだね、離れ離れになっちゃうかも。でも、大丈夫。何百回やっても、何千、何万回やったとしても、俺は必ず君を見つけるから…」

 それを聞いてリサコは静かに泣き始めた。
 リサコの不安を打ち消すかのように良介は再び彼女に口づけをした。そして何度も何度も口づけた。

 リサコは目を閉じてこの世の成り行きに身を任せることにした。
 良介の愛情の強さと優しさが、彼に触れられている全ての箇所から感じられた。

 細胞レベルで愛しているとよく言ったものだが、今まさにそう言う状態だった。

「愛してる…誰よりも、何よりも…」

 リサコは良介だけに聞こえるくらい小さな声で言った。

 リサコの決心がつくと、ゆるやかにリセットへのプロセスが進行していくのが感じられた。

 鍵である良介が、全てを無に帰すためのプログラムを発動させるため、リサコの内部に組み込まれた暗号をひとつずつ解除していいく。

 それはこうして愛の営みを同時に行わなくてもいいのではあるが、彼らはそれをせずにはおれないのだった。
 だって、その二つは同じ意味を持つ行為だったから。

 リサコは良介が擦ったマッチの炎を思い出していた。ぼっと燃え上がってやがて消えて行く炎。

 この宇宙はまさに、その瞬間のできごとなのかもしれない。
 命が燃えてそして消えて行く瞬間。

 脳内に快楽物質が分泌され、辺りが一面に真っ白な光に包まれているようにリサコには思えた。
 耳元でずっと良介が囁き続けている声が響いていた。

 彼の心に触れてはいるものの、なんだかずっと遠くに行ってしまったようにも思えた。
 それと同時に感知できないほどに近すぎるのかもしれないとも思った。

 そうして、良介とリサコが完全に一つになった瞬間、世界はリセットされた。

 それから100万分の1秒後、世界はスープのように液体になった。
 1万分の1秒後には最小の粒の単位が誕生し、果てしない時が流れて星が誕生し、銀河が誕生した。

 その中のとある惑星のとある国で、そぼふる雨の中、夜の街をひとりの少女が制服姿のまま走っていた。

 彼女はなぜ自分が走っているのかも忘れてしまっていたが、気力だけで走っていた。

 彼女の名前は山本 理沙子。十六歳の高校二年生。都内の公立高校に通っている。学校の成績はそんなによくないが頭が悪いわけじゃない。

 どこをどう通ったのかわからないが、リサコはいつのまにか繁華街の真ん中の広場にうずくまっていた。雨で制服がぐっしょり濡れてしまって肌に張り付いてきたが、もうどうでもよかった。膝がガクガクして立ち上がることすらできない。

 道行く人からもれなく悪意を向けられている気持ちがした。

 組織ぐるみの何かが動いているのだろうか。みんながリサコを観察しているという異常な感覚が襲ってきて頭からはなれなかった。

 みんな、わたしが困惑しているのを見て喜んでいるに違いない。こんなこと考えるなんて、わたし、頭がおかしいんだ。

 リサコはうずくまったままクスクス笑いだした。このままお巡りさんが来て私は保護されるんだ。そして頭がおかしくなった子として施設にいれてもらおう。

 くっくっく…。

 リサコの口から笑い声とも嗚咽とも判断しかねる声が漏れた。そうしてリサコはしばらくその場にうずくまっていた。もう何も考えられなかった。
 ここでこのまま寝てしまおう…。もう知らない…。

「リサコ、リサコ、こんなところにいたのか。おじいちゃん、探したよ」

 急に頭上からやさしい声がした。顔を上げると見覚えのない老人がリサコの顔を覗き込んでいた。

 コーデロイのハンチングをかぶり、ロマンスグレーの上品な口髭を生やしたダンディなおじいさんである。リサコはキョトンとして老人を見返した。

「さ、お家へ帰ろう」

 差し出された手を見ると、それは人形のような手だった。

 …義手…?

 リサコは首を振って細やかな抵抗を示した。

「だめだよリサコ、こんなところにいたら風邪をひいてしまう」

 リサコはなおも首を振って拒否を続けた。

「もう一歩も歩けないもん」

「大丈夫、おじいちゃんにつかまって立ってごらん」

 リサコはもう一度差し出された手を見た。
 この手に掴まったりしたら抜けてしまうのでは?

 リサコは少しの好奇心から老人の手を取った。

 手は抜けなかった。冷たい手だったが、どこか安心感を与えてくれる手だった。

 リサコなんとか立ち上がった。老人は思いのほか頼りがいのある力でリサコを支えてくれた。

「すぐそこに車を停めてあるから、がんばれるかい?」

 リサコは小さく頷いた。老人と少女は身を寄せ合ってゆっくりと歩きだした。

「思い出すねえ。リサコがまだ小さいころに、よくこうやって手を繋いでお散歩したんだよ」

 リサコは黙っていた。一緒にお散歩? そう言われると記憶の片隅にそんな風景があるような気もするが、この老人には全く見覚えがなかった。

 憔悴しきったリサコにはもう深く考える気力はなく、このやさしそうな老人に自分の運命を託すことしかできなかった。どうせ他に行くあてもないのだし。リサコは老人に支えられてなんとか歩いた。今にもぶっ倒れそうだったが、なんとか持ちこたえていた。

 老人の車は繁華街を抜けてすぐの大通りに停めてあった。ハザードを出して停まっている黒い車。老人がほら、あそこだよ、とリサコに教えた。車を認めると急に力が抜けて、足がぐにゃぐにゃになってしまった。まっすぐ歩けない。

「ほれ、どうしたリサコ。あともう少しだ。がんばって歩け」

 老人に励まされ、必死に前に進もうとするが思うようにいかず、リサコはその場にへたりこんでしまった。

 だめ…もう歩けない…。

 すると老人の車の助手席のドアがあいて、もっさりした髪を金色に染めた少年が出てきた。少年はうつむき加減に背を丸めて、ゆっくりとリサコの方へと歩いて来ると、老人の反対側からリサコの体を支え、ヒョイっとリサコを立ち上がらせた。リサコは少年の顔を覗き込んだが、半分以上が前髪に覆われていて目を見ることができなかった。

「ほら、歩けよ」

 うつむいたまま少年が言った。少年の声は、知っているような、知らないような、懐かしいような響きがした。

 リサコは頷いて歩く努力をした。足はまだ右へ左へとぐらついていたが、老人と少年に助けられて、リサコはなんとか車の後部座席に乗り込んだ。

 車の中には懐かしくて安心する不思議な香りが漂っていた。

 「よし、回収完了」

 老人がつぶやき、運転席へ乗り込むと、少年もするりと助手席へ座った。

 車は咳き込むようにエンジンをスタートさせ、のろのろと動き出した。後部座席のリサコは安堵と困惑を同時に抱きながら、ゆっくりと気を失っていった。気を失いながらリサコは見た。振り返った少年の前髪の隙間から、チラッと心配そうな瞳が覗いているのを。

 大丈夫、心配しないで。わたしは大丈夫。
 リサコは言葉にならない言葉を少年へと投げた。

 Mission In Kaleidoscope .........

(おわり)


これにて長編小説『リサコのために』はおしまいです。
ここまで読んでいただいた方は本当にありがとうございます。

通算30万文字を超えました。

後程あとがき的なものを書くと思います。

まずはお礼まで。


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