見出し画像

春のお花見③~みはら歴史博物館

前回からの続きです。


大阪府堺市に美原みはら区があります。

私が住む所は近隣の市なので、もちろん知っていたのですが、電車の最寄り駅もない不便な地域なため、「こんなところによく住んでるなぁ。。。」とさえ思っていました。

Wikipedia

ですから、歴史博物館があることも当然知ってはいたのですが、近くでありながら、行こうと思い立たないまま今に至りました。

この日、最後に行ってみて驚きました!
この美原は私のツボを衝く地域だったことがわかりました。

そのツボとは、ズバリ「たたら製鉄」です。

~「たたら」とは何ぞや?と言う方へ~
漢字では「踏鞴」と書き、その字のごとく足で踏む革でできた「ふいご」の事なのです。
そこから製鉄工程すべての事を指す言葉になりました。


歴史は自然の恩恵とともに

製鉄の何にそんなハマったか?

それに関して過去記事で少し書かせていただきました。
読書感想文なのですが、「たたら」と大きく関係した内容だったので、つい熱く語ってしまいました。

ーーーーー以下、上記記事より引用ー----

たたら製鉄は、ジブリ作品の「もののけ姫」にも登場シーンがありましたが、日本で古代から近世にかけて発達した製鉄方法です。

私が興味を持ったきっかけは、15年ほど前に、司馬遼太郎「街道をゆく」ー砂鉄のみちーを読んだ時からです。

島根県を訪れた司馬さんが、たたら遺跡にて、日本古来の製法や日本刀などに見られる、純度の高い良質な鉄を作るにあたり、どれだけの知恵と苦労があったかを辿ります。

最後には、遺跡の地層に残る当時の人々の営みを目の当たりにして、深く感動した様子が、これまた見事な筆致力で表現されています。

製鉄のためには「」がいる。それを起こすためには「」がいる。燃やすための材料として「」がいる。その原材料の「」がいる。

たたらを生業とする者は、住み着いた地域の山を丸裸にした後、原材料のを求めて森林地帯を転々としました。
幸いなことに日本は、気候がら約30年ほどで森林は復活すると言いますので、生態系が崩れない限り、その原材料は無限なのです。

たたら製鉄の民たちは、まさしく日本の大自然と密接に関係していて、何よりも大切に守り、古来より、山、風、水、火など、自然の成り立ちの中にはが宿ると信じられてきました。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

歴史上、製鉄により様々な文明の発展が成されたわけですが、それを生むには「大自然」が必要なわけで、古代からその恩恵を享受することで人々は暮らしてきました。

神道的に言うなら自然の神とともに脈々と受け継がれてきました。

そんな先人たちの「自然との共存」こそに深い歴史ロマンがあると根本的な事に気付かされたのです。

以前、書かせていただいた私の歴史紀行の裏テーマの「秦氏」と同様、この「たたら」も私にとっては大切な紀行テーマなのです。


河内かわち鋳物師いもじの存在

中へ入ると、いきなり床がガラス張りになってたたら製鉄所の遺跡が見れるようになっています。

確か、大阪城横の「大阪歴史博物館」でもこのように「難波宮なにわのみや遺跡」が見れるようになっていました。

この河内丹南たんなん~美原地域は、中国や朝鮮からの渡来系民族により伝えれられた鋳造技術が根付き、日本の工業の基礎となり、多大な功績を残しました。

・渡来人と製鉄
・秦氏とたたら

私の裏テーマはちゃんとリンクしているのです。


文献に残る功績

主に平安時代から鎌倉時代にかけて、この地域には優れた鋳造技術を持つ「河内鋳物師いもじと呼ばれる集団の暮らしがありました。

その名の通り、ここでは鍛錬加工ではなく、大量生産できる鋳造による加工でした。

主な功績を挙げてみますと以下の通りです。

・東大寺大仏
平家による「南都焼き討ち」で、大仏殿とともに大仏の焼失しました。

日本に来ていた宋人(中国人)の鋳物師とともに、河内鋳物師の草部一族14名により大仏は再建されました。

梵鐘かねは時を超えて
2014年4月撮影


・高野山・奥院おくのいん廟堂びょうどう

寛治5年(1091)『高野山奥院興廃記』に「河内国住人 能登介時貞」が奥院廟堂の鉄宝形を作ったという記述があり、

堺市立みはら歴史博物館パンフレット

「鉄宝形」が具体的に何なのか調べてもよくわかりませんでしたが、御廟が約5,5m四方の宝形造なので、御廟自体の制作に携わったのかもしれません。

だとしたら、かなり名誉なことです。

というのも、奥之院の弘法大師御廟は完全なる聖域で、レキジョークルで訪れた時、あの独特の厳粛な空気を肌で感じていたからです。

2019年11月撮影
御廟は撮影禁止


梵鐘ぼんしょう

かつて地元に存在した「真福寺」の遺跡の発掘調査によると、13世紀後半と推定される3.3×2.6m、深さ0.8mに及ぶ梵鐘の鋳型いがたを設置した大きな土坑どこうが発見されています。

その他、梵鐘の破片や鋳造品の内型など、この地で鋳造されたという痕跡が見られたそうです。

「堺市立みはら歴史博物館」パンフレットより
現物のレプリカがあったのに撮り忘れました💦

香川県池田町長承寺には、建治元年(1275)に制作された梵鐘があり、「大工 河内国丹那(丹南)郡黒山郷下村住人 平久末」の銘があります。

「堺市立みはら歴史博物館」パンフレットより

この地域や河内、あるいは大阪以外でも河内鋳物師の痕跡が残っているのです。


各地に残る河内鋳物師いもじの作品

いただいた資料によると、河内鋳物師いもじたちは、主に西日本各地から勧請され数々の作品を残しています。

遠い所では、
・山口県の阿弥陀寺「鉄塔」
・高知県の金剛福寺「鉄塔」
畿内では、
・京都の醍醐寺「湯釜」
・京都の山科安祥寺「梵鐘」
・奈良の東大寺「大仏」
・奈良の興福寺「金剛仏」
・和歌山県の高野山「鉄塔」
東海では
・愛知県の大樹寺「梵鐘」

などなど、書ききれないほどの功績がありました。

この地の河内鋳物師により、その技術は東は茨城県、西は鹿児島県にまでの広範囲に及び伝えられたのです。

そしてその技術は進化し、今では自動車や飛行機、船などの部品、建築資材、日用品や美術工芸品に至るまで、あらゆる分野に受け継がれています。


「黒姫山古墳」の甲冑

この博物館から約450mほど南西に「黒姫山古墳」があります。

国指定史跡であり、有名な「百舌鳥もず古墳群」と「古市古墳群」との真ん中ぐらいに位置します。

5世紀中ごろの「前方後円墳」です。

私は古墳そのものには疎いのですが、ここから出土した甲冑に興味をそそられました。

5世紀ごろと言えば古墳時代。
こんなにもしっかり残っていたのですね~!

この時代の甲冑は武具と言うだけでなく、軍事的な地位を象徴するものだったようで、古墳にも多くの甲冑が埋納されたのです。

もちろん国内で製鉄はできず、朝鮮から輸入して制作していました。

しかもデザイン的にも中国か朝鮮っぽく、おそらくこの時代も身近に渡来人がいて、技術的にも機能的にもかなりの影響を見ることができます。

胴回りも明らかに大きいです。

古代から現代までのデータをみると、江戸時代の身長が最も低く、古墳時代をピークに平安時代に入ると、極端に低く推移してゆき、幕末が底辺となって、そこから徐々に高くなってきました。

奥の枝道 其の四 京都・幕末編

古墳時代の日本人の体格は、少なくとも江戸時代に比べるとかなり大きかったという事実は何を物語るのかと言うと、大陸からの渡来人と血が混ざりあっていた証拠ではないかと思います。

江戸時代の「鎖国」により、外国人が国内に居住しなくなったことが原因なのでしょう。


この事からも、私たちの先祖には渡来人の血が混じっているのかもしれず、とんでもないロマンを感じずにはいられません。

そして、帰る際、博物館受付の方と少し立ち話したのですが、
「私たち丹南の人間は河内鋳物師が祖先だということに誇りを持っています。」
と、きっぱりと言われていたのがとても印象的でした。



桜珈琲でホッと一息

博物館を出た私たちは、ここから西へ350mのところにある「桜珈琲」でお茶タイムを取りました。

実はもう一軒、ちょっと離れたところにある歴史博物館へ行こうとしていたのですが、チコさんが夜も予定があるとのことで、断念しました。

いえ、チコさんは行く気満々だったのですが、私が制したのです。

いつもですが、アクティブ過ぎるチコさんは、動き回りすぎると必ず体調を崩すのです。

「今日はここまでにしとき。」

と、釘を刺さないとどこまでも行動は止まりませんから💦


私は「フルーツたっぷりのシフォンケーキ」
チコさんは「ブドウのタルト」

私のシフォンケーキは大皿に盛られていたので、量に驚いたのですが、何のことはないペロッと平らげてしまいました。


この日、チコさんが本を貸してくれました。

なんとも魅力的なガイドブックで、これは今後の紀行に大いに役立ちそうです。






※みはら歴史博物館は写真撮影OKでした。

【参考文献】
・みはら歴史博物館「常設展示解説」
・おおさか浪漫物語「梵鐘ぼんしょうは時を超えて」



この記事が参加している募集

日本史がすき

この街がすき

サポートいただけましたら、歴史探訪並びに本の執筆のための取材費に役立てたいと思います。 どうぞご協力よろしくお願いします。