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春のお花見②~「つつじ」の法雲寺

「葛井寺」で藤を堪能した後、約6Kほど南西へ移動して「法雲寺」へ向かいました。
正式には「法雲禅寺」という禅寺で、かねてよりチコさんからここは「つつじ」が有名であると聞いていて、以前からぜひとも行きたかったのです。

やっと実現しました!

法雲禅寺HP


圧巻の「つつじ」の海

いかにも禅寺らしい?山門ではないですかー?
中国の匂いがプンプンしてきます。

一般的な城や寺などの屋根に乗っている「しゃちほこ」はその名の通り「しゃち」を象ったものですが、ここではひれの代わりに足が生えた摩伽羅まからという想像上の動物なのです。

そのモデルはインドのガンジス川のわにで、最強の水辺の生物として聖域の番人の役割でもあるようです。

一歩中に入ると、ド迫力のつつじの壁に驚きます。
しかし、わずかに時期が早かったかな。。。

まだつぼみもチラホラみられるので、あと一週間というところでしょうか?

チコさんいわく、満開時には葉が見えないほど花で埋め尽くされるとのことなので、惜しいですね~。

通常、つつじはGWあたりが見頃なのですが、今年は異常に暑くなったので今だと目星をつけたのですが、見誤りました。

今年は本当にタイミングが難しい。


つつじの雲海を龍が飛ぶが如く

まるで波のうねり、または空の雲海のように幾重にも咲き誇るつつじの中、所々に異様なものを見かけます。

グーグル先生に聞くと「フクギ」でしょうか?
わざと細長く仕立て上げているのを複数個所見つけました。

最初はつつじばかりに気を取られていましたが、不自然ですがちゃんと手入れされているので、ここまで伸ばしているのは必ずなにか理由があるはずです。

先端が広がっているのを見て、ひらめきました!

これは龍ではないか?


なんの説明書きもありませんでしたし、サイトを確認しても意味は出てきませんので、勝手な私の憶測にすぎません。

禅寺の多くは法堂の天井に龍が描かれていることが多く、龍は「龍神」として崇められ、仏教を守護する八部衆の一つにあげられています。

衆、衆、夜叉衆、乾闥婆衆、阿修羅衆、迦楼羅衆、緊那羅衆、摩睺羅伽衆の8つを指す。

「八部衆」
Wikipedia

きっとこれは、つつじの雲海の中を龍が飛び交う様子を庭全体で表現しているのではないでしょうか?




黄檗宗おうばくしゅう慧極道明えごくどうみょうの開山

日本に伝わった 3 つの禅宗は主に臨済宗・曹洞宗・黄檗宗ですが、この法雲寺の宗派は黄檗宗おうばくしゅうです。

江戸時代開府はじめの明朝復興の願いに始まった一宗派。

「黄檗宗」Wikipedia

「黄檗宗」ってハッキリ言ってマイナーですよね。
もしかしたら聞いた事がない人も多いかもしれません。

だいたいは他の禅宗と合わせて数えられるため、正確な信者数はわからず、およそ460の寺院が存在し、約35万人の信者がいるそうです。


黄檗宗の開祖は、江戸時代初期に来日した隠元隆琦いんげんりゅうきで、その時に京都・宇治の黄檗山・萬福寺を本山としました。

その後1672年、黄檗三傑の一人である慧極道明えごまどうみょうという層がこの法雲寺を黄檗宗における中本山格の寺院として開きました。


その名の黄檗の元々の意味は植物の黄檗樹から抽出した黄檗きはだという漢方材料の事で、唐の禅僧・黄檗希運おうばくきうんの名からきています。


ご本尊は3,333体!

本堂である大雄宝殿だいおうほうでんにあるご本尊はなんと3333体も安置されているそうです。

御本尊は釋迦如来・薬師如来・阿弥陀如来の三尊ですが、背後に各々小さな尊像を一千百十一体ずつ配し、合わせて三千三百三十三体になります。

法雲寺

思わずギョッとするような数字ですが、本当でしょうか?
中は閉ざされていて確認できませんでしたが、ぜひ見てみたいものです。



後北条氏の菩提寺

本堂の裏側にひっそりと北条氏の墓がありました。

ここは狭山藩当主として明治維新まで続いた北条氏の菩提寺なのです。


歴史上は敗者だが
「狭山藩」の祖として残る

私は当初(高校生頃)、昨年の大河「鎌倉殿の13人」でおなじみの北条氏と、後の戦国時代の小田原北条氏とは同じ血脈だと思っていたのですが、そうではないと後になって知りました。

鎌倉時代の北条氏は関東の田舎の豪族ですが、
後北条氏、または小田原北条氏は伊勢から身を興した北条早雲を祖とします。

3代氏康~4代氏政の頃に全盛となりますが、5代氏直の時に、ほぼ天下統一を果たした豊臣秀吉による小田原征伐で事実上、宗家は滅亡してしまいます。

Wikipedia
ちょっと小さくて見にくいですが💦

しかし、北条の家督は叔父にあたる氏規うじのりがここ河内国丹南たんなんに移封して継承されるのです。

江戸時代に入り、その子の氏盛の代には河内国狭山藩として以後12代にわたり明治維新まで存続しました。

このあたりは戦国の敗者とはいえ、家は残せたのはラッキーでした。


家紋は同じ「三つ鱗」

実は祖である北条早雲は生存中は「北条」を名乗っておらず、伊勢宗瑞いせそうずいと言う名でした。

その息子の氏綱が北条と名乗ったのです。

伊勢氏は京では名門ではありますが、鎌倉公方を頂に持つ関東武士には潜在的に敵視される存在でした。

初代の伊勢宗瑞は、よそ者の悪人として 関東では罵られていたのです。

関東管領の上杉氏も例外ではなく、当初は京の室町幕府から派遣された監視役とみなされ、敵視されていた例があります。

それを考慮した2代氏綱は、伊勢の姓も捨て、 関東では英雄となる前北条氏にあやかって北条を名乗ったといいます。

先祖の改ざんに近い荒業ですね💧


同時にこれは自分の出自を捨てて、関東人として生きる決意の表れでもありました。

常に前北条を敬い、それ相応の政治を行ったから、小田原北条氏は関東で成功したと言えます。

家紋にも前北条氏に対しての敬意とその決意が現れています。

後北条氏
Wikipedia
前北条氏
Wikipedia

この家紋の違いを初めて知った時、
なんてややこしい!
と思わずにはいられませんでした。

だって同じ「三つ鱗」で形がややひしゃげているだけなのですから。

同じ名字で同じ家紋は反則ですよ。

河内の郷土史家であられるチコさんのお父様によると、小田原北条氏は前北条氏に敬意を示して、自分たちを低く見立てて表現したそうなのです。

この微妙な違いにもちゃんとした意味があるのですね。




「弥一」で寿司ランチ

この日は天気も良くお昼ごろには気温も上がり、のども渇くしお腹も空いてきました。

ここからさらに西へ3キロほどのところにある、チコさんおすすめの寿司屋でランチすることにします。


握り十貫に茶碗蒸しと赤だしが付いて1430円。
一般的なチェーン店の回転ずしとは違って、中央にはちゃんと職人さんがいて手で握ってくれます。

だから、ペロッとシャリの上にお造りが載っただけではなく、ちゃんとシャリとネタが一体となった本物の握り寿司です。

それがこの値段で食べれるのは、お得です。

チコさんが
「今度はアジサイでも見に行く?」
とニタリと笑いながら言うので、

私は、
「花巡りしだしたら、完全に年寄りやな💧」
と返し、二人で苦笑いしたのでした。




【参考文献】
黄檗辞典

【参考著書】



続きます>>>


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