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カリスマ指導者の条件

トップ画像出典:Wikipedia

以前の投稿記事で、平清盛と織田信長が似ていると書かせていただいた事があります。

この二人は、活躍した時代は大きく違いますが、私なりの見方をすれば、同種の天下人だと思えるのです。

今回は二人の人物像の共通点を簡単に検証してみました。


↓対象記事↓



🔥スーパー下克上者

清盛>平治・保元の乱

武士は「朝廷の犬」と蔑まれ、単なる番犬程度の扱いしかなかった。
しかしこの戦いを機に、元々は協力し合っていた源氏にも打ち勝ち、
武家政権を確立する。

信長>桶狭間の戦い

尾張愛知県の中の織田家の中でも家来筋の一番小さな家に生まれる。
しかし、この戦いで大大名の今川義元を劇的に打ち破り、
この後の快進撃が始まる。


🔥時代の変革者

清盛>初の武家政権

院政期の政界に持ち前の優れた処世術で、朝廷の軍事力・警察力を掌握し、
公家政権を日本初の武家政権へと塗り替える。

信長>初の中央政権

それまで日本各地を別々の領主が治めていたが、
畿内を中心に日本全体をまとめる日本初の中央政権を構想し実行する。


🔥経済の改革者

清盛>日宋貿易

瀬戸内海の航路を開拓し、宋との貿易を開始し、富を得る。
宗銭を日本に導入し初の貨幣経済を起こす。

信長>楽市楽座と関所の撤廃

当時の商業組合ような「座」と通行料を徴収する各所の「関所」を廃止。
さらに琵琶湖の前面を支配する事で、物流が自由になり経済が活性化した。

↓対象記事↓



🔥宗教勢力との対抗

清盛>南都焼き討ち

旧来の特権を廃し、大和奈良全域に警察・治安維持などの権限を得ようと、家臣を丸腰で話し合いに向かわせるが、ことごとく斬首された。
これを機に五男の平重衡しげひらを追討に向かわせ、結果的には焼き討ちにした。

信長>比叡山焼き討ち

同山の延暦寺の僧侶たちは宗教者としての本分を果たしていなかった上、
当時、敵対していた浅井・朝倉連合軍に味方した事で、
明智光秀に命じて進軍させ、殺戮して焼き払った。



🔥一代限りの絶対君主

圧倒的なカリスマ性を発揮して、現代でも通じるような政策で、
時代を塗り替えた二人です。
しかも、たくさんの子を成した二人でしたが、
誰もそのカリスマ的な要素を受け継ぐ者がいませんでした。

清盛は病死、信長は家臣の謀反で、突然の死を迎える事になり、
その政権を盤石なものにできなかったのが残念なところでしょう。

ともに仏敵、残虐、強引さが際立ち、絶対君主であったと言われ、
その人物評の善悪は大きく別れています。

しかしながら、日本史を大きく改革した二人の功績は、
大きく評価されるべきだと思います。

その発想力と行動力は、当時の武将たちにはなかったことです。

仮に二人の人生が、
後の徳川家康のように政権を盤石に出来るほどの時間があれば、
歴史は大きく変わっていたはずです。

この二人が、もっと後世の幕末期の幕閣に生まれていたらどうなっていたかと妄想すると、世界的にも大革命だった明治維新はあったでしょうか?

もしかしたら、薩長の出番などなかったでしょうし、
幕府内でカリスマ改革を成して、
武家政権は姿を変えて続いていたかもしれません。

この二人の人生がこころざし途中で終えたからこそ、今の日本があるわけで、
歴史の神様の存在があるとすれば、
この二人は改革ではなく破壊者とみなされたのかもしれません。

たとえ破壊者であったとしても、日本をあらゆる面で進展させた事は明らかで、必要な所にピンポイントで現れた選ばれし人物ではあったのです。




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